005
学校外に出た佐藤さんは、住宅街とは反対の方に迷わず歩みを進めた。
小柄かつ重装備なくせに、意外と歩くのが早い。
涼風が吹き付ける夜と言えども、夏の夜はまだまだじんわりと汗が出る暑さだ。厚手のパーカーに、黒タイツを履いている佐藤さんは汗の大洪水を起こしているんじゃなかろうか。
半袖のワイシャツにタイ、そしてスカートというオーソドックスな制服でも「暑い」と感じられるのに。
ある程度歩くと、落書きだらけのシャッターにほとんどを占められた、寂れた元商店街に佐藤さんは入っていく。
住宅街の方に大きなショッピングモールが出来てしまったため、私が小学校低学年に入る頃には軒並み店舗が潰れてしまったと記憶している。
そこの中頃まで進むと、ぴたりと佐藤さんは止まってしまった。近くの建物に身を隠して観察する。
生きる気力を失った商店街と、ガスマスクをつけた佐藤さんは実によく似合っていた。
荒廃した商店街に佇む佐藤さんは酷く寂しそうに見える。仄暗い電灯に照らされる佐藤さん。照らしているライトが明るいだけで、彼女の感情は暗くて見えてこない。
今、佐藤さんは何を考えて、何を想っているのだろうか。
世界の汚い部分から自分を守るかのようなガスマスクをつけて、完全に佐藤さんは私達とは違う次元で生きているように感じられた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
何年も閉まってあるであろうシャッターに閉ざされた空き店舗の前に突っ立っていた佐藤さんは、何事も無かったかのように、その場を後にした。
心なしか、先程より足取りが重く見えた。
進む先はどんどん市街地を離れて、草木が生い茂る自然公園へと着いてしまった。学校からここまで、ゆうに一時間は歩いただろうか。
自然公園とは名ばかりで、小さめな湖があるだけのその公園は、電灯が入口に数箇所置かれただけの寂れた場所だ。
近くに街灯も無いため、日が沈むと真っ暗になるこの公園は心霊スポットとしても有名で、度々女性の幽霊が目撃されているという噂も聞く。
まさか佐藤さんは一人肝試しの趣味があったとは。
実際、幽霊より、真夏でも全身黒のガスマスクを付けた女子高生の方が怖いと思う。佐藤さん、チェンソーとかサバイバルナイフがめちゃくちゃ似合いそう。
闇夜に紛れるように、すぅっと真っ暗な公園へ溶け込んでいく。目をよく凝らさないと、見失ってしまいそうだ。
ざわめく木々に、時折鳴く虫。そして、よく分からない動物が草をかき分ける音。湖が蒸発しているのか、じっとりした湿度がいやらしく身体を包む。
佐藤さんはそんな雰囲気にも臆する様子もなく、湖の畔にある、木製のチップが敷き詰められた並木道へ歩みを進めていく。
それにしても、佐藤さんは何処へ向かおうとしているのだろうか。しっかり目と脚で追っているはずなのに、佐藤さんと私の距離はどんどんと離れていくように感じられた。
存在そのものが、一歩一歩、離れていく。
もしかして、佐藤さんは本物の幽霊なのではないだろうか。例えば、この湖で毒殺によって殺された少女の怨念。その怨念が、ガスマスクを付けた少女の姿に具現化したのではないだろうか? ないです。冷静になれ。下校前に飲んだ薬が効き始めて、思考がハイになりつつある。と言うより、佐藤さん幽霊説を大真面目に考えてしまう辺り、もう私はラリっている。らりらりら〜。
冷静になれ。大丈夫、私はフツーのニンゲンだ。
もう一度、闇夜に目を凝らして、佐藤さんの背中を凝視する。こんなに近くにいるのに、何故離れていくように感じるのか。
それは、彼女を目で追えば追うほど、彼女の“中”が見えなくなってしまうからだろう。
最初はただの変人だと思っていた。次はただの虐められている女の子。じゃあ、その次は?
変人の一言では、もはや片付けられない。何故、彼女は潰れた商店街で長い事佇んでいたのか。何故、彼女はこんなにも暗い自然公園へ平然と立ち入っているのか。そして何故、彼女はガスマスクなんか付けているんだろうか。
何か大きな秘密がある様な気がする。
心臓がいつの間にか、伸縮を早めていた。柄にもなく、私は緊張していた。張り詰めた暗闇が、私を侵食するように伝染する。
心のどこかで、このまま追った先には佐藤さんの秘密に行き着いてしまうような気がしていた。
その秘密を暴いてしまうのに、胸を踊らせている反面、私は少なからず心の隙間に恐怖心を抱いていた。
その秘密が、爆弾のように思えるのだ。知ってしまえば、最後。私は佐藤さんから逃れることは出来ない致命的な衝撃を受けてしまいそうな気がする。
ただただ暗い並木道を歩いていると、ぴたりと佐藤さんが止まった。距離にして十メートルくらいだろうか。自然公園に入って、初めてのリアクションに思わず声が出掛けた。
瞬間、くるりと彼女は振り向く。
月光に照らされる佐藤さんと、ガスマスクごしに目が合った。
ごくりと生唾を飲み込む。とうとうバレてしまったか。
いや、とうにバレていたのかもしれない。
「誰か、いるの?」
不意に、声が聴こえた。
その声は砂嵐が混じったノイズの様だった。
ザザッと脳内に入り交じる雑音。風邪で枯れた声や、ハスキーボイスとはまた違う。女の子の声に、テレビの砂嵐の音が混じったような、砂漠的な声。それが佐藤さんの声だと気付くのに、数秒を要するのに無理はなかった。
「ねぇ、誰か、いるの」
区切りながら、ゆっくりと佐藤さんが特徴的な声で催促をしてくる。
毛穴という毛穴から、焦燥の飛沫が飛び散りそうになる。
蛇に睨まれた蛙の如く、私は佐藤さんをただ見つめることしか出来ない。息をするのすら、臆してしまいそうになる。
永遠かと思われる程、見つめ合っているその時間という牢獄に閉じ込められてしまう錯覚を覚える。
最初に動いたのは、佐藤さんだった。
佐藤さんはおもむろに、ぎこちなく小首を傾げる。次に、両手を双眼鏡の様に丸めて、ガスマスクを通してこちらを覗いてくる。非常にシュールな格好だが、今の私に面白がれる余裕はない。
それより、佐藤さんの格好。もしかして、佐藤さんは私が見えていない?
元々視力が悪いのか、ガスマスク越しの視界が悪いのか。
試してみる価値はある。
恐る恐る、足元にあった手軽な石を拾いあげる。
佐藤さんに動きは無い。
意を決して、石を佐藤さんの方へ投げてみた。
……あっ。
薬の影響か、元々の私のコントロールか。
佐藤さんの近くの草むらを狙ったはずが、見事に佐藤さんの履いているスリッパに当たってしまった。それと同時に佐藤さんが跳ね上がる。
初めて見る機敏な動きだった。
佐藤さんは踵を上げて、石がぶつかったスリッパの裏を確認したり、キョロキョロと忙しなく辺りを見回したりと落ち着きがない様子。
やっぱり、佐藤さんは私が見えていない。
ほんの、歩けば十数歩の至近距離だが、佐藤さんは私が何処にいるのか分からないといった感じだ。
よくよく落ち着いてみると、月夜に照らされているのは、木々がちょうど開けた所に立っている佐藤さんだけだった。距離は近いが、私が立っている所は大きな木に月光が遮られて、完全な闇と化している。
だからと言って、こんな数歩歩いて手を伸ばせば届くような距離で、見えないという事があるのだろうか?
もしかして、佐藤さんは盲目?
いや、それはない。
現に今、佐藤さんはしゃがみ込んで、子供が蟻を観察するように、自分の足に当たった何かを探している。
完全に目が見えない、という事はないだろう。
その時だった。
何の前触れもなく、彼女はパーカーのフードを脱いだ。
そして、ガスマスクに手をかけたのだ。