002
◆
「真白、時間だ。着替えなさい」
今が何時なのか、時計も窓もないこの部屋では検討がつかない。私は寝たんだろうか、それすらも水に落とした水彩絵の具のように曖昧だ。
体温に同化した手錠を外す小気味よい音で、淡い意識を現実に引き戻される。
いつの間にか用意された、死に装束のような気色悪い衣装。
胃液が一瞬、暴れようとするのを口を噤んで静止する。
「……はい」
酷く掠れた声で返事をする。
砂漠のようだったノイズの激しい私の声。
ここ最近では、空気に触れるとすぐ消滅してしまうような、音を発するだけで精一杯になってきた。
きっと、もうすぐ私は声すら出せなくなるだろう。
次は私から何が消えるのか。
願わくば、存在そのもの――
刹那、数人の怒号が微かにだが、確かに聞こえてくる。
「……こんな忙しい時に」
荒々しく化け物は扉を閉めて、駆けていった。
「今なら、死ねるかなぁ」
何気なく呟き、視界に入った衣装の帯。現実味を帯びる。
「首に巻いて、ドアノブに吊るせば、逝ける……よね……」
いつもなら一瞬の戸惑いから、我に返ってしまい死ねなかっただろう。
でも、この時は全ての条件が整っていた。
私の両手が自由で、紐があって、監視がいない。
死ぬなら、助かるなら今しかない。
早く紐を――――――
佐藤さーーん、どこいるのーー?
「―――飴、子ちゃん?」
飴子ちゃんの幻聴がした。
こんな時だって言うのに。
いや、こんな時だからか。
つくづく私は飴子ちゃんが好きみたい。
「こんにちは、でたらめ子です。佐藤さんいますか?」
扉の向こうから聞こえる懐かしい声に、驚愕のあまり膝から崩れ落ちる。心臓が高鳴りすぎて血管が全て炸裂しそうで、全身に鳥肌が駆け巡る。
嘘でしょ。
力が入らないけど、僅かに絞り出してその人の名前を呼ぶ。
「――――――飴子ちゃん」
「わはっ! 佐藤さん、発見!って、アレ? 全然扉開かないんだけど、え、これ入っちゃ駄目なの?」
全然、何も変わらない。
私の大好きな飴子ちゃんはそこにいる。
突き上げるような喜びなのに、悲しくなんかないのに、涙なのか体液なのか、よくわかんない水分が目から絶え間無く零れ落ちていく。もう何も見えそうにない。
「ねぇねぇ、佐藤さん開けてもらっていーい?」
「わ、私のね、私の方からも、あ、開かないからさ、壊してもらっていいかな」
掠れ声と嗚咽で、何を言ってるか分からないだろうけど、飴子ちゃんは「任せとけーい」と返事をしてくれる。その声が、いつもの調子のその声が、生きる渇望となり、希望がふつふつと湧き出してくる。
刹那、金属と金属がぶつかり合う甲高い大きな音。堅牢な扉が炸裂したような耳心地の悪い音を轟かせて、ドアノブが首を跳ねられたように落下した。
「佐藤さん、お久しぶりです!貴女の親友であり王子様であり忠犬であり、そして婚約者ことでたらめ子参上!!」
ぼこぼこに凹んだ古い金属バットを片手に、制服姿の彼女は笑顔で現れた。
右頬を赤く腫らして、すらっと長い脚には痛々しい程の青痣無数につけて、ボロボロのヒーローは唐突に現れた。
「佐藤さん、暇だから遊びに行かない?」
ぐちゃぐちゃな顔をしている私に、彼女は笑いながら、この状況がなんだとばかりに問い掛ける。それは私を元気づける為ではなく、“単純”そのものだった。
「どこに、連れて行ってくれるの?」
「とりあえず、ここじゃないどこかかな」
「そんなの許す訳ないだろ」
不意に訪れる静寂。
突然に、忽然と、前触れもなく、現れた男、四つ目という化け物が飴子ちゃんの背後から抱き着く様に覆いかぶさる。
彼女は目を見開き、唇を噛み締める。
振り向きざまからの足払いで男が転倒する。
小さく金属バットを振りかぶり、容赦無く頭へスイング。
ここまで僅か三秒足らず。
圧倒的な追撃。
命が終わる音は酷く脆く。
言語化不可能な絶叫を一瞬、化け物が泡を吹いて白目を剥く。
そして彼女の背中に広がる、一面の赤、赤、赤。
「ドジッちゃったよ」
彼女には珍しく、余裕のない声色。
それも、そうだ。
「飴子ちゃん……それ――――」
深々と刺さる、刃。
嘘みたいに、夢みたいに、手品みたいに、飴子ちゃんの身体から生える柄。
白色のワイシャツが血染めで滴る。
生臭いような匂いが、周囲を包む。
「わはは、私が“ゾンビ”で良かったよ」
痛みの感じない少女。
回復能力が異次元の少女。
顔を見せず、化け物を見下したまま刃物が刺さった背中で語る。
なんで私じゃなく、飴子ちゃんが。
私の代わりに飴子ちゃんが。
なんとかしなくちゃ。
私の思考は回っているとも言えるし、停っているとも言える。
あまりにもその非現実的で、嘘のようで、幻みたいな光景がリアルとは到底認識出来ない。
行動しなくちゃいけないのに、脚が、手が、口が、頭が動かない。
酸素濃度が低くなったように、視界が狭まる。
「佐藤さん」
飴子ちゃんは私に振り向かないまま呼びかける。
「あのさ、背中の包丁、抜いてもらっていいかな」
声が少し震えていた。
「わはっ、知ってると思うけど、体質的に痛みは分からない“化け物”だけどさ、気持ち悪いから一気に引き抜いてもらっていい?」
無理。
その一言だけ、脳内に浮かぶ。
「ご、ごめん、あ、飴子ちゃん、私には――――」
「佐藤さん」
遮るように言葉が被さった。
「ごめん、悪いけど、早く抜いてもらっていい?」
心臓が握り潰されるかと思った。
口調こそ普段通りなものの、決して私に顔を見せないその態度こそ、私の話を遮るその様子こそ、お願いではなく“命令”だと言うことを本能的に理解する。
力の入らない脚を思い切り叩いて震え立たせる。
歯を食いしばり、歩みを進める。
震える手に全神経を集中させ、包丁の柄を握り締めた。
「う、ううぅう……」
情けない声が漏れる。
「ううううううわぁあああ!!!!!!」
そして、私は。
「――――――っわは、ありがとね」
一気に引き抜いた。
刺した物を、抜くだけなのに、私が人を切ったような感触。
肉を掻き分け、裂いたような感触。
赤黒く染まる包丁が手から離れない。
飴子ちゃんは、いつものようにポケットから包帯を取り出して、ワイシャツ越しからぐるぐると巻き始めた。
気休め程度だろうその包帯は、どんなに巻いても鮮やかで恐ろしい色に変色していった。
「わははっ、油断してしまいましたな?」
飴子ちゃんそう笑いながら、ワイシャツを脱ぎ捨てる。
いつものようにポケットから包帯を取り出すと、線の細い身体を引き絞るように巻いていく。
「飴子ちゃん、は、はやく病院に行こ?」
「あーー、それよりさ……」
飴子ちゃんは、何重にも包帯を巻きながら少し間を置いて口を開いた。
「“これ”、まだ死んでないけど、どうする?」
平然と、言いのけた。飴子ちゃんの張り付かせていた笑顔は幻のように消え失せ、無機質で透明で、それなのに底無しの黒い瞳で私を射抜く。
まるで私の心を探るようなその視線。
奇妙な焦燥感にも似た感情が、私の胸を騒がせる。
一人の人間が横たわり、生死を彷徨っている。
そして、その命、他人の“運命”の決定権は私が握っている。
そう思えば思う程、実感が湧かない。
頭から熔岩のようにどろりと血を滴らせて、ぴくりともしない四ツ目さん。本当に生きてるのかは甚だ怪しい程の死体らしさ。
だから、今なら殺せる。私でも、簡単に。
飴子ちゃんに刺さっていた包丁が目に飛び込んだ。
この男が憎い。
人間という皮の被った化け物が忌々しい。
「飴子ちゃん、一つお願いしてもいい?」
私は――――――