002
物心ついた時にはママはいなかった。寂しくなかったと言えば嘘になるけど、パパがいてくれるからへっちゃらだった。
わたしだけのパパ。わたしを愛してくれるパパ。
この駄犬が来たのは、五年前くらい。
パパがある日突然、おばさんと真っ白な女の子を連れてきた時の衝撃を今でも覚えている。この日からわたしだけのパパは、いなくなってしまった。
四六時中、パパは駄犬を自分の部屋に呼び付けていたし、夜中になるとおばさんとセックスをしていた。
パパはパパじゃなくなった。それも全部こいつのせい。
「……それ飽きてきちゃったなぁ」
単調な舌の動きを遠回しに伝えると、犬は小さな口を薄く開いてわたしの足の親指を口に含んだ。
生暖かい口内で、舌が控えめに動く。調教した通りに足の指に軽く吸い付いてきた。下腹部が、じんっと熱くなるのを感じる。
でも、わたしの心は如何せん満たされない。
その理由の一つに、犬の“慣れ”がある。
「ねぇ、なんで犬の癖にパジャマ着てるの?」
その澄ました顔をわたし好みにしてあげる。
犬は何の命令か分からないようにわたしを見上げる。そんな状況でも舌を休ませずにねっとりと動かしているのは感心する。日頃の調教の賜物だろう。
「……ん? どうしたの?」
にっこりと微笑むとますます犬はわたしの不透明な意図に縋るような視線を送ってくる。
「あぁ、そっか。いいよ、喋って」
パッとわたしの指から口を離したましろおねーちゃんは瞳を泳がせながら、おずおずと口を開いた。
「あ、あの、ど、どういう意味……?」
瞬間、わたしは犬の頬を強く引っ叩く。パンッという小気味よい音が部屋に響いて、じんっとした痛みが掌に広がった。
「ましろおねーちゃん、ちゃんと敬語使ってね?」
「…………ごめん、なさい」
「あー、反抗的な目だ。そんなわたしに虐められたいの? 次はどうしよう、この前は爪の間にまち針だったっけ? 今度はどうしよっか? 舌にピアスでもつけてあげようか?ずぶーって太い針を舌に刺されたい? ちょうどニードルあるんだよね」
スクールバッグから銀色に輝く切り口の鋭い針を取り出して、チラつかせる。
ましろおねーちゃんは露骨に怯えて、小さく何度も首を横に振った。
「ごめんなさい、気をつけるから……!」
ざらついた声質が鬱陶しいけど、許しを請う憐れな様子はたまらない。わたしがそれくらいの罰を簡単にやって退けるのを本能で理解してるからこそのものだ。
「うんうん、そうだね。これから気を付けてね?」
「はい……」
「じゃあ、はい。さっさと脱いで」
「え……」
「犬の癖に服着てるとかおかしいでしょ?」
呆然とわたしを紅い瞳で見つめる。
わたしの大嫌いなその瞳で。
いつかその両目を潰してやる。抉り出してやる。
わたしの手で、殺してやる。
「それ、わたしのパパに買ってもらったパジャマだよね? わたしの家から買ってもらったパジャマだよね? つまり、それはわたしのモノなの。汚いから脱げ。はやくしろよ、クズ犬」
「……は、い」
趣味の悪いピンク色のパジャマのボタンを一つ一つ、上から外していく。その度に気色悪い白い肌が顕になった。寒気がする。
寒気は、する。
確かにする。
その気色悪さに怖ささえ感じる時もある。
が。
わたしは欲情していた。
心の中で何かが昂るのを感じる。
こいつの事は嫌いだ。性格も嫌いだ。顔も嫌いだ。声も嫌いだ。身体も嫌いだ。全部、全部、大嫌いだ。
当たり前だ。化け物じみた、いや、化け物であるコイツを好きになるやつなんているはずがない。
でも何故だろう。こいつを虐めているとわたしはなんとも言えない光悦した蕩けるような感覚に襲われる。
そして、いつからかわたしは思ったのだ。
犯してみたい、と。
「ねぇ、飴子さんと何して遊んでるの?」
ビクッと肩を震わせて、犬はあからさまに萎縮した。
「……遠出したり」
「ふーん、遠出ねぇ。何処に行ったの?」
「…………っ」
喉に棘が刺さったように、口を半開きにしたまま犬は苦しい顔で見つめてくる。
その表情に、爪先から頭までゾクゾクとした電流が走るのと同時に、隠し事をしようとする犬に確かな苛立ちが込み上げる。
「…………随分と嘯木飴子がお気に入りみたいだね?」
その一言で恥ずかしそうに犬は俯く。
ムカつく。
ムカつくムカつくムカつく。
「私がしてあげた事、全部飴子さんにしてあげたみたいだね?」
「や、そ、そうじゃっな、く、て、」
「今日はもっともーーーっと、先の事教えてあ――」
不意に一階から音がした。
玄関の扉が開いて閉まり、ドサッと大きな荷物を置く音が聞こえる。
パパが帰ってきた。一瞬、冷や汗が肌の深層から滲み出る感覚に襲われる。
「ーーは、早く服を着ろ」
「え、あ、はっ」
もたつく犬の様子が、苛立ちとなり私の喉元に一気に食い込む。
荒々しく床に落ちる服を、撲りつける様に犬の胸元に押し込んだ。
「パパが帰ってきた、早くしろ!」
罵詈雑言、暴力その他諸々の衝動を抑えつけて駄犬に命令を下す。
もどかしい動きをする糞犬を今すぐにでも蹴り飛ばしたい、刺し殺したい、叩き潰したい!!!!
「どうして、なんで今日に限って帰ってくるの、いつも家にいないくせに、あーもう上手くいかない、ムカつく、ムカつくムカつく、ムカつくムカつくムカつく!!!!」
ドタドタと大きな足音を鳴らしながらパパが2階へ上がってくる。
がちゃりとノックもせず扉を開けたのは隣の部屋。
「真白、どこにいるんだい?」
緊張で張り付いた喉を嚥下する。
「……パパ、真白お姉ちゃんは私の部屋にいるよ」
「なんだって!?」
慌てた様子で私の部屋に転がり込む。
「あ、あのね、パパ──」
「なんて事だ!! こんな明るい所に、大丈夫かい? さあ、部屋へ戻ろう。そんなぐしゃぐしゃに服を着ては駄目だ。肌が見えているじゃないか!! いいかい、君の、真白の身体は特別なんだ、いつも言っているだろう? もっと大切にしてくれ。な? そうだ、真白、そういえばとても良い話があるんだ、いいかい──」
「あの、パパ……」
「なんだ、今、真白と話してるんだ。……そうか、ここに連れてきたのはお前だな? お前と違って真白は特別なんだ。僕と真白に関わらないでくれ」
「ち、ちがっ、そうじゃなくて」
「小遣いが足りないのか? なあに、もうすぐウチは大金持ちだ。それまでお前は黙って勉強でもしてろ。どうせ大した事の無い成績なんだろ? 誰がお前を育てたと思ってるんだ。お前の事なんてお見通しだよ、話があるなら一恵さんに言ってくれ」
犬を連れて、パタンと扉が閉じる。
「……そうじゃなくて、私はただおかえりなさいって」
とんでもなく惨めだ。
ふざけるな。ふざけるんじゃない。
「死ねっ、死ね死ねっ、死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
鞄からテスト用紙を取り出して怒りをぶつける。
ビリビリにして紙を殺す。殺す。殺す。
満点の、丸しか付いていない、誇らしいはずのテスト用紙さえ、私を小馬鹿にして嘲笑っているようだった。
皆、皆、死んじゃえばいい。死ね死ね死ね死ね!!!!
「絶対殺す。もう殺す。犬を殺して、ババアを殺して、糞ジジイも殺してやる」
早く犬を返せ。
私の糞犬を返せ。
返ってきたらどう殺してあげようか。
でも、それ以来、犬は帰ってこなかった。