002
音質が酷く劣化した、電子的な始業の鐘がスピーカーを揺らす。五限目が始まってしまった訳だ。サボタージュしてしまった私は、これで立派な不良だよ、わーい。あ、ニンゲンとして私は“不良”だったか。今更でしたな。わはは。
なんて言いながらも、うちの学校でサボりなんて常習的である。生徒はもちろん、教師らも、気にも止めないだろう。誰も聞かない授業、聞かせる気もなく独り言のようにぶつぶつ喋る教師。なんてwin-winな関係! まるで結婚二十年目を迎える倦怠期の夫婦みたいな関係だね。
でも、仕方が無い。私はそういうド底辺の学校に入ってきてしまったわけだから。まぁ、狂人の私みたいのにはお似合いですよね。
そういう訳で私にとって授業を自主的ボイコットする事は罪悪感も何も感じない訳で。
それでは、佐藤さんはどうだろうか?
始業のチャイムが鳴っても、佐藤さんは蝉の抜け殻みたいに微動だにせず、硬直している。表情はもちろん、ガスマスクで見えやしない。
佐藤さん、私がいること知ってるのかな。気配とか察知してる? 別に邪魔しないから、普段通り過ごしていいんですよ?
そんな佐藤こと蝉の抜け殻さんは、マネキンみたいに動きを見せない。
じぃっと見つめていれば、見つめるほど佐藤さんがよく分からなくなってくる。もしかして、私は真夏の蜃気楼でも見ているのだろうか。
窓から差し込む暴力的な陽射しで頭がぼんやりしてきた。じっとりと汗が肌を濡らす。
佐藤さんの席は辛うじて日陰になっているので、多少は涼しそうだ。でも全身黒づくめの佐藤さんは、見ているだけで汗が噴き出てきそうなので前言撤回。
時計の針が寸分狂わず働く音が教室にこだまする。そのおかげで、世界が動いていることを私に認識させてくれていた。
耳をすませば、遠くで蝉が鳴いている。
何処かの教室から、チョークが黒板を小突く音がしている。
微かに開いた窓からは、夏の匂いがした。
この教室という世界には、私と佐藤さんしかいない。
不思議な世界に迷い込んだと錯覚してしまいそうだった。
佐藤さんに本日、私が観察史上初めての動きを見せたのはそれから数分が経過した頃だった。
おもむろにスクールバッグから、数十冊のノートを取り出す。初めて動いたことにも驚きだし、その膨大な量のノートにも驚きを隠せない。
目算で一クラス分くらいはあるだろうか。まさかの佐藤さんガリ勉説。
一冊のボロボロのノートを開くと、一ページ分くらいの量をそれぞれのノートに書き写すような仕草でペンをノートに走らせる。
ガスマスクのせいで、猛毒ウィルスを開発しているマッドサイエンティストにしか見えない。
そんなマッドサイエンティスト風女子高生の佐藤さんは、とうとうシュコーッシュコーッと息遣いを荒くし始めた。どうやら、ノートを見たりする下を向く体勢になると、ガスマスク的に息苦しくなっているようだ。さっさと外せばいいのに。
厚手の黒タイツに、パーカーに、手袋に、ガスマスクを付けているような佐藤さんに効果があるかは限りなく怪しいが、少しでも助けになればと近くの窓を大きく開けてみた。
いやらしく蒸している夏の熱風が一瞬、身体を包む。その後に涼しいとまでは言えないが、草木の匂いがする爽やかな風が教室を颯爽と駆け抜けた。
「おっ?」
佐藤さんがこちらを向いていた。
無言で見つめ合う。見つめ合うと素直になれないけど大丈夫? 大丈夫だ、問題ない。
佐藤さんと向かいあったのは初めてだ。今まで横顔しか見てなかったけど、正面から見るガスマスクは威圧感がメーターを振り切ってるな。
依然として、佐藤さんはこちらを向いたまま動かない。
「佐藤さん、暑くないの?」
とりあえず話しかけてみた。
返答はない。動きもない。
「私、ずっといたんだけど気づいてた?」
ぴくりと佐藤さんの肩が動いた。
どうやら、耳は聴こえるみたいだ。
「そのノートなに書いてるの?」
その言葉を機に佐藤さんはノートに何かを書き込み始めた。
もしかして筆談してくれるのだろうか、わくわく。『死ね』とか書かれてたらどうしよう。そうなったら、あの厚い黒タイツを引き破って、太股を食べてやろう。がじがじ。どんな味がするんだろうか、お腹が減ってきた。
しかし、私の期待は外角高めにすっぽ抜けて、佐藤さんはノートと向き合ったまま。どうやらノート写しに戻っただけのようである。残念無念。
「佐藤さん、そっち行ってもいい? ここ陽射し強くて、暑いんだよねぇ」
だがしかし! 私は諦めの悪いキ〇ガイなのである。
この程度で、私の心を折ったと思うなよ。
返答は勿論ないので、心をちょっぴり折りながら勝手に佐藤さんの前の席へ座ることにした。椅子を佐藤さん方向に向けて、対面に座る。お見合いみたいで少し照れる。嘘です、ごめんなさい。
ノートを覗き込んでみると、その正体は昨日出された数学の宿題だった。それをそれぞれのノートに佐藤さんはせっせっと書き写していく。よくよく見てみると、書き写してるノートはそれぞれ筆跡が違っていた。
「これ全部、クラスメイトのノート?」
返答は言わずもがな。
佐藤さんは皆の宿題をやってあげているのかな。こういう所が人気者の由縁なのだろう。私もクラスメイトのお昼ご飯とか代わりに全部食べてあげようかな。むしろ、クラスメイトの方を食べたいけど。食人鬼かよ。食人鬼だよ。嘘だよ、多分。きっと。わかんないけど。
わかんないけど、きっと、多分殺さないから、パクーっとガジガジとペロペロと舐めさせて欲しい。
私が“ニンゲンになるその日”まで、非常食として生かしてげるから、それくらいは許してよね
がじがじがじがじがじがじがじがじがじがじ――
あ、食べ物のことを考えてたら、自分の左腕に噛み付いていた。美味しい。私はキウイみたいな味がする。キウイと血が混じった味。ん、血?
……またやってしまった。左腕が血だらけだ。強く噛みすぎた。無意識だと噛む力が加減出来ない。痛覚に対して、特別鈍感という体質も拍車をかけてしまうのも原因の一つだ。
とりあえず、包帯を巻いておこう。ポケットから伸縮性の高い包帯を取り出す。てってれー、ほぉたぁいぃ~。ぐーるぐるぐるぐるぐるぐーるぐる。
包帯が意味を為さない量の血が滲んでるけどとりあえず完成。経験的に三日もすれば跡かたなく傷痕が消えるのを私は知っている。
「……お、どうかした?」
左腕から視線をあげると佐藤さんがこちらを凝視していた。あまりに動きが煩くて怒っているのかな?
相変わらず佐藤さんは何も喋らない。目で訴えようとしているのかもしれないが、残念ながらガスマスク越しに目は見えないんだよなぁ。
すっと、佐藤さんの右手が動いた。
ペンを置いて、私の左腕へ優しく触れる。
包帯の奥の傷を撫でるように、指を滑らした。
ニンゲンの匂いが、ほんの一瞬香る。
今までに嗅いだ事がないような、芳醇でフルーティでジューシーな……とにかく、私の語彙力じゃ表現出来ない美味しそうな匂いがした。口内を、涎が一瞬にして支配する。脳に鋭い電流が走った。胃が彼女を酷く欲する。心臓が唸りを上げて、血流を促した。
佐藤さんを食べたい。
食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベたいタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイ肉も骨も内臓も全部全部全部全部全部全部全部、全部タベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイ――
「あぁ、疲れたんだけど~」
「まじこんな暑いのに体育とかねーわ!!」
……危ない。もう授業が終わる時間か。遠くからざわざわと早めに授業を終えた、ニンゲン達の群れが近付いてくる気配がする。
佐藤さんに別れを告げても、無視されるのは明白なので無言で自分の席へと戻る。
それにしても、本当に危なかった。
また、精神病院に隔離させられるところだった。
佐藤さんのあまりにも美味しそうな匂い。
こんなに一人のニンゲンをまるごと食べたいと思ったのは初めてだ。
心臓が煩い。
私の頭の中は佐藤さんに浸食されていく。