びいどろ
壱 シガレットとラジオ
ああ、あの高い山は・・・・
「高級と呼ばれるものは何が高級かわかりますか?」
「・・・・」
「優れたものは往々にして無駄というものがないのです。」
ラジオのFMチャンネルからクラシック音楽のピアノの音が聞こえる。
タターン・・・・タタタタン・・・タタン・・・・
「シンプル。これが美。機能性を追及したものたちは自ずとシンプルになっていく。その先にあるものが美だと私は考えます。」
単純な旋律の強弱の繰り返しだったピアノの音色がより複雑なメロディを奏でていく。それは恐怖のようであり、くだらない冗談のようでもある。美しい湖畔の風景のようでもあり、小難しい言葉を並べたセックス描写のようでもある。遮断された空間の中ではそれはより支配的に響く。
「高級とは美をストイックに追求した芸術を理解する者のこと。」
「・・・・・」
窓から見える景色。青々とした田園風景。雲ひとつない晴天の空。どこまでも吸い込まれそうなほど、それは高く高く突き抜けている。
「つまりどんなに高級なものであっても理解する受け手がいないとガラクタと同じなんですよ。わかりますか?」
大きな鉄塔。ダラりと黒い線が左右に垂れ流されている。車のスピードに合わせて、それが遠ざかっていく。まるで鉄塔自体が生きていて、ゆっくりと右へ向けて移動しているように見える。それほど車はスムーズに前進していて、あまりにも静かだった。
「高級なもの。それがいるからこそ高級だと認められるわけだ。」
「・・・・血がくせえ。」
「・・・・。」
タタタン・・・・チャラタンドゥタンチャララララン・・・・・
田園の若葉たちが勢いよく風になびかれている。その向こう。ずっと向こうに高くそびえた山が見える。蒼い山。ぼんやりとした高い山。どこかで・・・・
あの高い山は・・・・
□
・・・太陽は真上から僕を照らしていた
ニューヨークヤンキースの帽子
縞模様のタンクトップ
ベージュ色の半ズボン
真新しい虫籠と虫取り網
「急ごうよ!」
おんなじようなカッコの、おんなじような髪型の二人の少年と
虫籠いっぱいのクワガタを取りに山へ出かけた。
暑さなんてなかった。
どこまでも走れた。
喉が渇いたら川の水をガブガブ飲んだ。
僕は無敵だった。
「おい!これ!」
「何だああああ?出た?大納言?」
「何だよコクワじゃねえかよ!」
一人の少年の手に乗せられた黒い小さな昆虫はコクワと呼ばれて卑下されていた。小さいもの虫にあらず。これが鉄則。
「だせえなああ。ちっちええので騒ぐなよなああ!」
「うるせえ!最初に見つけたんだ!」
「ちっさいちっさいお前はちっさいちんちんも肝もトンボ並みぃぃ!」
皆は笑いながら茶化しながら夢中で遊んだ。理由なんて・・・なんにもなかった。
■
「しかし、ここは人通りがない。まるでメキシコのようだ。これほど何もない道を舗装した労働者はさぞ苦痛だったろう。終わりなき慢性的な地獄だよ。」
「ズズズウウ。」
顔中、血と痣だらけの男は時より出てくる鼻血を、ほとんど麻痺した顔中の筋肉を動かしてすすった。
「・・・・クックック。」
漫画のような笑い方をするのは親父からの遺伝だった。彼の親父はいつも手を鼻に押さえ空気を遮断するように笑った。
森村アゲイン 本名はわからない。38歳 独身
「何がおかしい。」
高級車である威圧的なフォルムのベンツSクラスを運転するのは、趣味の良い黒のタイトスーツをスリムに着込んだ三十前後の男。髪はきっちりと整えられ、淡い緑のサングラスをかけている。
金井聖 ヒジリと読む。本名かどうかは不明 年齢不明
「・・・・こういう時に思い出すものって結構しょうもないもんなんだなってね。」
「思い出はいいものですよ。大切にしたほうがいい。」
車はほとんど音を立てずに静かに道を進んだ。行けども行けども、道は真っ直ぐで、全く進んでいないのかと錯覚するほど、変化の乏しい風景だった。
「なあタバコくれないか?」
「もちろん。これはあなたの車ですからね。目的地までまだかかる。たっぷり吸ってください。」
金井はシフトレバーのすぐ後ろの小さな収納をカパっと開け、中からラッキーストライクを取り出した。
「ラッキーストラーイク。」
また鼻血が垂れてくる。ひどい目にあったもんだ。あれほどボコボコに殴られたのは生まれて初めてかもしれない。心臓が口から飛び出そうなほど体中を殴られたおかげでほとんど感覚がない。小刻みに震える指で、金井が取り出したラッキーストライクを受け取り、スっとソフトパッケージから飛び出した一本のタバコを抜いた。森村にタバコを差し出すと金井はすぐにそのスマートな漆黒のスーツの内ポケットから左手一本を器用に使いジッポライターを取り出した。それは森村のジッポライターだった。万事に無駄のない男だ。
高級そうな和柄のジッポだった。いつ、どこで、いくらで買ったのかも覚えていない。森村はジッポを受け取り、震える手で火を点ける。
シュポッ
滑らかな金属音が響き、夕焼け色の火が漂った。タバコはジジっと音を立て白い煙を吐き出した。ゆっくりとアメーバのように空気中にたゆたう濃密な白煙は奇妙な模様を描き消えてゆく。
「・・・・何の味もしねえ。」
穏やかなクラシック音楽が白い煙で充満した車内に響いていた。
クラシック音楽など毛ほども興味を持ったことがなかった。中東で紛争が勃発したって言われても、ピンと来ないだろう?あれと一緒だ。その存在と、おおまかなパッケージの中身はわかっていても、それは果てしなく自分から遠いものであって歩みよろうなんて思わない。それが自分に降りかからない限り、それと自分の距離は常に一定に保たれる。
「これ誰の曲?」
森村は不意に歩み寄ってきた興味の対象に目を向けることにした。
金井はほとんど全てに無表情だ。白い煙によって彼の顔はぼやけているが必要な筋肉しか動かさない彼は二コリとも、怒りもせず淡々と話していた。
「ドビュッシー、月の光です。」
「・・・へえ。クラシックなんて聴いたことねえからな。」
「それは個人の自由です。」
「コジンノジユウ・・・・か。」
「そう。人間は自ら選択する権利がある。しかしながら往々にしてその選択が間違っていることが多い。未舗装の道よりも滑らかなコンクリートで舗装された道の方がいいに決まっていますからね。誘惑に負けて選択された道が栄光へと導くはずがない。だから統制や規律があるんですよ。」
静かな口調だった。淡々と喋る、とはこういうことなのかもしれない。森村は、隣にいる男が眉一つ動かさず、まるであらかじめそれを言うことが随分前から決まっていたとでもいうように感情もなく言葉を放つのを見てそう思った。
「トウセイヤキリツ。」
言葉は彼の体にうまく入らず、自分で反復してみてもボヤけた六等星のように今にも消えそうで、そのまま消え入るのを傍観することにした。
金井はそのまま窓を少し開け、車内の換気を促した。
タイヤが道路の上で移動するための摩擦音が聞こえた。車は確かに走っている。とめられていた時間の流れが窓を開けたことで一気に元に戻っていくみたいに、車内には生ぬるい風が吹き荒れた。
森村はラジオから流れる音色が静かになっていくとともにグルグルと脳内を巡る、ほんの数時間前に起こった過去の整理をし始めた。
弐 金井と森村
ジイイピチョンピチョン
「・・・・・ちっ。」
朦朧とする頭の中に響いたのは名前も知らないような鳥の鳴き声だった。どうやら窓を閉め忘れていたらしい。無用心にもほどがあるな。目を覚まし、これ以上寝れそうもないのでキッチンでコーヒーを飲もうとベッドを降りた。
トランクス一丁、裸で寝ていた森村はベッドの側にあるリクライニングチェアに置いてあったアロハシャツを着、家具、壁紙、カーテン、そのほとんどがオレンジ色で統一された寝室をあとにし気だるい足取りでキッチンに向かった。
森村の住むマンションは一人ものの部屋にしたら豪華で、部屋数が三つあった。別に身を固める気もない。ただ一種のステイタスとして便宜的にこのマンションに住んでいるだけだ。
それは必死で生きていた人生の勲章だ。四十近い森村の体には無数の切り傷が刻まれている。暴力と精神力で濃密な一瞬を切り抜けてきた、生え抜きのヤクザ人生。
森村はそれを振り返らない。というかそのほとんどを意識的に忘れている。興味がない、それだけだった。目の前に広がるものにどう対処すべきか、それが森村の生きかたであり、それがすべてだった。
歩きながら乱雑に脱ぎ捨てられていたスリッパを履き、伸びている無精髭を左手でさすりながら部屋を出た。
二十畳ほどのリビングのドアの取っ手に手がかかったとき、誰かが部屋に入り込んでいると感じた。背後を狙われたのは一回ではない。命を傍に置いていたものが感じる独特の勘が働き、そこに佇んでいる人物がただものではないと直感した。ドアにはめこまれた曇りガラスから体を離し、そっとドアを横に引いた。
ピクン
森村のこめかみがうずく。何かを感じたとき決まって森村のこめかみは疼いた。その疼きは往々にしてヤバイ方向に向かっているときに働く。
大声を出すのは三流のやることだ。まず相手の位置関係を知らねば。リビングの大きな窓に覆いかぶさっている真っ青なカーテンを注意深く観察し、何もいないことを確かめる。窓のすぐ側に置いている大きめのゴムの若木が植えられた植木鉢に手を入れる。そこには小型のピストルが置いてあるはずだ。周囲を観察しながら利き手である右の手で茶色の少し乾燥した土を弄る。
・・・・ねえ。
ないぞ。ということはここに侵入した人物が排除したのだ。森村は深く息を吸う。肺に酸素を静かに染み込ませ、脳を活性化させる。
リビングからキッチンの方へ足を運ぶ。音を立てないようスリッパを脱ぎ捨て、ドアを開けゆっくりキッチンに入った。
「うーん。このコーヒーは香りが強すぎる。好みではないな。」
そこには当たり前のようにダイニングキッチンのテーブルでコーヒーをすする男がいた。
驚きはしなかった。黒ずくめのスリムな体系をしたキレ長の目をした男。椅子に座り、こちらに投げかける薄っすらとした微笑み。
「おはようございます。寝室の空気の入れ替えをしておきましたよ。」
「・・・ああ、そうか。お前が。」
自分の寝ている部屋の窓を開けた?いつも臆病なほど神経を尖らせている自分の側を通って?
「空気清浄機がないのは今時珍しい。あなたの寝室は濁りきっていて、あんなところでは仕事をする気がうせますからね。」
「ああ・・・・なるほど。」
プロだということはわかった。まがりなりのも修羅場をくぐりぬけてきた自分に気づかれずに部屋に侵入し、しかも寝てる隙に寝室に入りこんだのだ。よく見れば彼の左手にさきほど探していた丸っこい拳銃が握られていた。
「はじめまして。早速ですが私事をはじめさせて頂きます。」
男は底辺だけが赤く輝いている透明なガラスコップをテーブルに置くと森村の顔をmk詰めた、というよりも森村を透かしてもっとずっと遠くの景色を眺めているといった感じだった。
「・・・着替えさせてくれよ。こんなカッコじゃさ。」
トランクスにアロハシャツを引っ掛けただけの格好は確かに滑稽で、これから起こり得るだろう森村にとって喜ばしくない出来事の数々を耐えるのにはふさわしくなかった。
「とりあえず付いてきてください。」
男は森村の意見を完全に無視し顔も見ず、丸っこい小型の拳銃だけをこちらに向けて立ち上がった。
森村は男の言う事に従った。恐ろしく冷たい目をしたこの男に逆らうことは無意味だと判断したためだ。
男は立ち上がるとかなりの大きさだった。足が長いのだろう、座った様子ではわからなかったが190センチはありそうだ。それでいてピッタリとしたスーツのせいなのかとても華奢に見えた。
男は森村がさっきまでいた寝室に戻ると小さく深呼吸をし、森村を一瞥した後、部屋を荒らし始めた。リクライニングチェアをひっくり返し、大き目の灰皿とバカラグラスの乗ったミニテーブルを蹴り飛ばし、灰皿に山盛りにされたフィルターやタバコの残りかすがバサっと四方に飛び散り、グラスはカキンと小気味いい音をたてて割れた。男は構わず大き目のタンスを横倒しにし、寝心地のいい森村お気に入りのベッドのマットレスをナイフでズタズタにした。物凄い音がして森村はあっけに取られその場を傍観していた。
ほんの十分ほどの間に部屋はリンチにかけられボロボロになった。モダンでシンプルな作りのオレンジ色の寝室はあっという間に色とりどりのゴミ溜めと化した。
森村は目の前の光景に体を馴染ませることが出来ず、足元がとても重くなるのを感じた。まるで自分だけが時間に取り残されていくように、足がズシリと重く、動こうとする意志さえも凌駕する。
突然森村の頭の中に何かがよぎる。息苦しい自分。倒れこみそうになるのをじっとこらえている自分・・・・一体何に?
□
・・・・確か俺は前にもこんなことがあったんだ。
サラサラチュチュンチュンピーーーーチュルチュルサラサララララ
「ホントにそんなとこから飛び降りれるのかああ!」
「・・・・・。」
高さは3Mほどの小高い崖。ゆっくりとした水のせせらぎが聞こえる。どこからか小さな森の住人たちの歌声も聞こえる。天は高く、木々の隙間から日光を惜しみなく注いでいた。
穏やかな河のせせらぎが崖の上の少年には、まるでアメリカのアクション映画のワンシーンのように今にも自分を飲み込まんとする豪流に聞こえた。
・・・・・僕は飛ぶ。飛べる。この川を越えて、森を抜けて、街の上をジユウに。
自由を覚えたばかりの少年はジユウな世界を空に求め、小高い崖にやってきた。下では心配そうに見つめる友人がいる。
「見てろ。」
「あっぶねえからさああ。やめろって!」
「我、飛翔す!ナンジイヅコニいようとも、我求めん限りナンジヲ目指して!」
いつかどこかで読んだ小難しい文章は彼のバイブルだった。
僕は飛べる。足がすくむ。怖い。怖くない。風が冷たい。少年は膝をパシっと手で叩いた。イザ!イザ!
「せい!」
ぞぶふううううんん。
■
「こんなものかな。」
男はそう言うと、森村の方を振り返りそのままの体勢でいきなり顔面に大きな拳をおみまいした。
ドムッ
と鈍い音がして森村の鼻からダラダラと赤い鮮血が流れ落ちた。どうやら鼻が折れたらしい。男は構わず、足で倒れこんだ森村の腹を打ち、起き上がらせ頬を殴った。森村に考える暇を与えず、その暴行は続いた。吐くほど腹を蹴られ、目には青タンができ、口の中はズタズタに切れ、鼻は感覚が無く鼻血が止まらなかった。タバコの灰やらマットレスの綿やら、グラスやブランデーの瓶の破片やらが散らばり放題の部屋に倒れこみながら、森村は少しだけ破傷風の心配をした。やっぱり整理整頓はしとくべきかもしれない。
「こんなものかな。」
男は寝室の破壊行為を終わらせたときと全く同じ口調で全く同じ台詞を言い彼にハンカチを渡した。森村はわけもわからずハンカチを受け取り鼻を押さえた。
「さてと、行きましょう。」
「・・・・」
森村は玄関に連れて行かれ、シューズボックスの上にたたまれて置かれていた赤いチノパンツを穿くよう命令された。
どこかの田舎の品のない小僧のようになった森村は男に連れられて外に出された。玄関から廊下からエレベーターから、拭っているハンカチの下から溢れ出る血がまるでヘンデルとグレーテルのパン屑のように落ちていった。
森村は車庫に連れて行かれ、自分の車の助手席に入れられた。いつのまに男が自分の車のキーを手に入れたのかも森村にはわからなかった。彼の私事は実に無駄がなく簡潔だったのだ。
運転席に座った男はスムーズに鍵を回し、サイドブレーキを引きシフトレバーをドライブに持っていった。まるで十年来の愛車を運転するように。
車は公道に出る。そのとき男は初めて自分の名前を森村に名乗った。
「一応、あなたには名前を知ってもらいます。この世界であなたが知った最期の人になるわけですからね、私は。」
こうやって二人は出会い、今に至った。
森村アゲインは全く抗う事をしなかった。相手の力量に臆した、そういうわけではない。今まで数えるのもイヤになるくらいのクズのような輩の犠牲ではびこってきた自分の人生も四十手前になり、ようやく落ち着きはじめたときだ。
彼は非常に虚しかった。普通の四十の男には考えられない、活力ある時期のはずなのに森村の体は枯渇していた。それだけ激動の人生を歩んでいたからかもしれない。自分の魂は今までの人生ですでに磨耗しきってしまったのかもしれない。そんな気さえするほど森村の体は変わってしまっていた。
そんなときに現れたこの得体の知れない男に殺されると直感したとき、
「まあそんなもんかもしれない。」
そう思ったことがより一層彼を乾かせた。
相変わらず何の変化も見せない。のどかな風景だ。右側に座る森村の横の窓から見える景色はずっと同じような風景だった。
緑色の若葉、大きな鉄塔、青い空、高い山。そして風の音、クラシック音楽。
「あんた誰に雇われたの。」
「・・・・」
思い当たる節はある。最近、風俗店や裏ビデオ経営の件で悶着があった上星会だ。
しかしここと揉めるにしてはやり方がストレートすぎる。こんなやり方なら戦争になることは間違いない。それはいくら血気盛んな朝鮮系マフィアである上星会も望まないはず。
金井は静かに前を見て、森村の問いを無視した。無視したというよりは、答える義務はないといった感じで流したというのが正解かもしれない。
「私がやったのは石油のつまったドラム缶に火種を注いだようなものです。」
十分に間を置いてから金井は静かに答えた。そんなことには全く興味がないみたいに、静かで単調な口調だ。
「上星会じゃないのか。」
「・・・・ふふ。」
金井は笑った。二コリともせず、口元の筋肉を最小限度動かして。
・・・・機械のような男
出会ったときからそんな印象だった。汗をかいたり、涙を流したり、顔を赤らめたり、そういった人間的なファンクションがあますことなく欠落してしまっているような。
どれだけ走ったろう。森村の頭は思考を閉ざし、痛みを麻痺させ、無感覚になっていった。どれほど考えてみても、それはもはや自分には関係ないことだと悟ったからだろう。推量は判断を鈍らすだけ。森村は身をもってそれを知っている。
□
森村の父親は小さな貿易商を営んでいた。そのためか幼少の頃、森村は家族共々韓国に住んでいた。本籍は日本であるが、バブル経済の真っ只中、彼の父親は一念発起し、韓国に一家で渡り、質の良い本革コートのオリジナルブランドを作ることに成功した。
以前から付き合いのあった韓国人たちとも協力して、出来た高級牛革コートは早速自国である日本に出荷することになった。
しかし、バブル経済に培われたネームバリュー至上主義である日本ではそんな無名のブランドなど全く相手にされず、彼の自社ブランドはどんなに質の良いコートであっても売れることはなかった。
安易な考えで、莫大な借金を作った父親は母と子を日本の母方の実家に帰し、一人韓国に残り、借金を返すことを決意した。森村アゲインはそのことをほとんど覚えちゃいない。自我が目覚める前の事だ。彼は生まれる前から自分の父親はいなかったと認識していた。それは幸せなことではなかったし、たくさんの辛苦を彼に浴びせた。森村の生き方はそれで決定されたのかもしれない。彼は過去を振り返ることをしなくなり、ただ眼前に広がる光景と自分の力を信じるようになっていった。
■
「もうすぐ着きますよ。」
不意にそう言って、金井は森村の顔の目の前に大きな右の手のひらを広げた。森村は一瞬ひるみ顔をそむけたが、そのときこめかみの辺りが再びピクンと反応するのを感じた。電気信号が金井の行いに咄嗟に反応したんだ。ヤバイことはもう起こっているというのに。
金井はその右の手で優しく肩を叩いた。体格の割にゴツゴツとした大きな手は、力をこめれば森村の骨も折りかねない感じがする。金井の方をこれ以上見る気もないので森村はまた代わり映えの無い景色に目を落とした。
高い山だ。穏やかな曲線を描いた青い山。
「・・・・」
・・・・あれは
虫が這い出るように背中に寒気が走った。足元が沈んでいく。自分だけが助手席ごと空中に投げ飛ばされたように、体の力が抜け全身が重たく、視界が不安定になっていく。
・・・・思い出した。
傘 少年と森
「はやーくー!」
かんかん照りの太陽の下、虫取り網を持った少年はまだ二階にいるであろう友達の支度が出来るのを待っていた。
緑豊かな山がそびえる田舎の牧歌的な風景。どこから道路なのかわからないじゃりの撒き散らされた未舗装の道。視界一面に広がる田園では春に植えられた苗がすくすくと成長し深緑の稲穂を風に揺らせている。油蝉が長閑に鳴き続け、夏の太陽に照らされ続けた空気はじっとりと重い。
「もうちょっと!後二分!」
子供にとって二分は最高に貴重な時間だ。どれだけ遠くに行けることか。どれだけたくさん泳げることか。少年はじれったい思いで一杯になりながら庭に落ちている小さな石ころを蹴飛ばした。
深い深い。少年にはその森は広すぎて、飲み込まれそうな魔力に圧倒されていた。落ち葉がミシリと足元で響くたび、心臓の音が高鳴る。少年は一人迷子になり、薄暗い森の中にポツネンと取り残されていた。さっきまで一緒にクワガタをとりに来ていたはずの少年たちの姿はなく、ヤンキースの帽子を被った少年は一人ぼっちで薄暗い森に彷徨いこんでしまった。
何かを叫んだかもしれない。涙をふりまいたかもしれない。無茶苦茶に走り回ったかもしれない。絶望感に支配されようになるのを必死にかき消しながら、目の前に見える道らしき道を歩いた。
どのくらい歩いたろう。遠くに暮らす父親から送られてきたオレンジのブランドスニーカーは草や土に汚され、奇妙な斑模様に変色していた。このまま自分はここから出られないんじゃないだろうか。少年の小さな体にこの森のサイズは不釣合いなくらい大きかった。 幼い少年はそのとき初めて世界が広いことを知ったのだ。その大きさは自分などがあっというまに消えていってもわからないくらいで、そしてなにごともなかったように過ぎ去っていくのだ。死というものを傍らに感じた初めてのとき。少年の瞳から涙が溢れる。悲しいわけじゃない、ただ悔しかった。ちっぽけな自分にはあまりにも世界が広すぎて、自分の力では世界の片隅にあるこんな森ですら抜けられないのだ。
彼は大きく深呼吸をした。泣いてても始まらない。死にたくなんてない。目の前に広がるものそれをひとつずつ解決していけばやがて出口は見えてくる。直感的に彼はそう思った。少年は耳を澄まし、川の流れの音を聞こうとした。この森には川があった。去年の
、母さんの運転で友達数人と訪れたんだ。激流に飛び込み、こっぴどく母さんに叱られたっけ。川があれば道が見えるはずだ。少年は眼を閉じ、体の力を抜いて、全身で音を探索した。音が聞こえる。木と木が擦りあう音、暢気な野鳥たちの鳴き声、それにまじって昔の記憶みたいに微かに流れる川の音が聞こえている。あっちだ!少年は確信し、感じた方向を全力で突っ走った。
少年は突然前方に何かが光るのを見た。それはボヤけた夢の残骸のような、弱弱しくて今にも途切れそうな光だった。
少年はもつれそうになる疲れきった足を必死で動かしながら光のたもとを目指した。遠くにあるのか、近くにあるのかはっきりとはわからない。そんな薄ぼんやりとした頼りない光でも少年にとっては生命賛歌の歌声に思えた。
光源にたどり着いたとき、そこには一人の男がいた。いや、男だったかどうか正直わからない。異様な格好だった。
真っ赤なウエスタンハットにモスグリーンのジャケットと原色の、目も痛くなるような同じ緑色のパンツ、白色の光沢のある先細のエナメルシューズ。まるでクリスマスツリーのような格好をした人がそこに立っていた。帽子の影に隠れて、顔は口元しか見えない。口元では真っ白な前歯を覗かせている。少年とその人物のいる場所には木々はなく、ポッカリと空に穴を開けて日光を注いでいた。
クリスマスツリーのような男は手袋をした手で顎をさすりながら少年の元にゆっくりと近づいていく。少年は目の前の光景に魅入られてしまった。そこから動こうとしても動けずただ立ち尽くすばかり。足が何かに憑りつかれたかのように固まってしまっていた。
男は少年の目の前に来ると、突然両手を広げた。そのまま頭を少し垂れ、膝を曲げ、少年に挨拶をしたようだった。それは不気味な鳥の戯れのように見えた。音もなく、ただ奇怪な模様の大きな鳥達が何かの儀式をしているような。
ヌっと顔を上げ、ツリー男は少年の顔をじっと見た。
「コニチワ」
とても穏やかな声で確かにそう言った。それからゆっくり白い前歯を見せ微笑んだ。
男はおもむろに手袋をとり少年の顔に右の手を広げた。大きくてゴツゴツとした手だ。それは大きくて雄大な山のように見えた。それとは反対にその手は体温を感じさせない。どんなに近づいても男の手からは何も感じなかった。
「いいかい。この手のひらを覚えておきな。そして君の頭に今見える光景を。」
少年の頭には一つの風景が映っていた。何も感じさせなかったあの手が今にも少年の顔に触れようとする刹那のところで、少年は目を瞑った。その時、確かにはっきりと一つの光景が広がっていたのだ。それは少年の見た夢の景色。
ツリー男は少年の顔から手をどけ、自分の顔を近づける。少年の目は光を失っていて、置き去りにされた大きなマリオネットのように濁った色をしている。
男の顔は真っ黒で何も見えない。それとは対照的に真っ白く浮かぶ綺麗な歯が不気味に光っていた。ツリー男は少年の顔をじっくりと見て言った。
「いいかい。君が僕を思い出したとき、僕は君を殺しに行くよ。」
死 びいどろ
「はっはっはっはあはは・・・・」
森村は笑った。思い出した。笑いが止まらなかった。金井は笑う森村を見て眉をひそめた。鼻を少し鳴らし、また前方に視界を移した。
ベンツは徐々にスピードを落とし、ある長細い建物の前に止められた。長細い建物はてっぺんのほうに小さな窓があるだけで人が住むようなものではなかった。おそらく照明塔のようなものだろう。
「着きました。降りてください。」
金井はそう言うと、森村を降ろし、一緒に端にある階段を上り広場のような場所に出た。森村はまだ笑っていて、ときどき傷が痛むせいかひどくむせた。それでも笑い続ける森村を無視して、金井は仕事を遂行することにした。
金井が雇われたのはほんの三日前の事だった。写真を見せられ、闘争に巻き込まれたようにうまく細工をして殺して欲しい。そう言われた。それほど難しい仕事でもない。承諾し、ことにおよんだ。森村という人物が誰であるかなんて興味も無い。彼は死ぬ。それだけのことだった。もし運命というものがあるとしたら、今日という日が彼の終わりの日だったのだ。自分には全く関係の無いことだった。
笑いが止まらない。思い出したんだ。あのときのことを。思い出した今日、自分は死ぬんだ。そう思うと、馬鹿らしくて、笑いが止まらなかった。あのおかしな男の予言どおり、
自分は死ぬのだ。人生なんてあっけない。死期を決められた自分の生涯になんの意味があったんだろう。すべてが滑稽で笑うしかなかった。
安全用の金網で仕切られた広場に傷だらけの森村は連れてこられた。森村は金井に金網のところに立つよう促される。
森村は空を見上げた。雲ひとつない突き抜けるような快晴の空だった。
・・・・ああ、こんな空だったな。俺が見た景色は。
「あんたさ、何か夢とかあった?」
・・・・お父さんはとうとう僕の前に来なかった。
金井はじっと静寂を保っている。左手の親指で眉間をグっと押して、森村の真正面に立った。
「俺さ、空飛びたかったんだよ。」
・・・・僕はいつから俺って言うようになったんだろう。
懐から金井は銃を取り出した。森村の家にあった銃だ。ずっしりと重そうな光沢のない銃だった。
「あいつさ、俺に見せたんだよ。妙な格好した男でさ、俺に手をかざして見せたんだよ。」
・・・・僕はいつから飛べなくなったんだろう。
左手を真っ直ぐに伸ばす。
・・・・チャ
という乾いた音がして銃口は森村の眉間に向けられた。
「俺がさ・・・こう、飛んでるんだ。真っ青な空と高い山と・・・・」
・・・・僕はまだ、やりたいことがあったのかな。
タアアアアン・・・・・・・
それは高い空に吸い込まれるように消えていった。
血の臭い。抜け殻。風の音。金網ごしに見える風景。
金井はジッポの入っていた内ポケットから携帯電話を取り出す。任務完了を告げるために。しかし不意に黒い携帯がこちらの思惑と食い違いに電子音を鳴らした。依頼主からの連絡と思い、金井は携帯の通話ボタンを押した。
「連絡はこちらからいれると言ったでしょう。」
「・・・・・・」
「とりあえず終わりました。こちらに迎えを一台用意させてください。」
「・・・・コニチワ」
・・・・君は僕を忘れている 再び君が僕を思い出すとき 僕は君を殺しに行くよ