第90話:「では、またお会いしましょう」
「はふぅ……。やっぱりパンにはワスプの体液だよな」
ワスプの体液がたっぷりかけられたパンをサーシャがうっとりとした顔で食べている。
体液をかけて食べる……。
寝起きとはいえ卑猥な発想をしてしまう俺は末期かもしれない。
ドルチェが何か言いたそうな顔で俺の事を見ているが、話し掛けたら負けな気がするのでスルー。
サーシャがしきりに勧めてくるので試しに俺も少しだけワスプの体液をつけて食べてみると、蜂蜜を少し薄めたような何とも不思議な味だった。
「いっぱい食べてくださいね~」
隣に座ったエミリーに甲斐甲斐しく「あ~ん」をされながら朝食を取っていると、シルビアやリン達が食堂に入ってきた。
朝方まで一緒のベッドに居たシルビアが俺とエミリーを見て苦笑しているが、結局「おはよう」と一言挨拶だけをして隣のテーブルにつくと、落ち着いた口調でミルに料理を注文している。
相変わらず他人の目がある所では甘える素振りを見せないシルビアだが、昨夜の彼女が見せた子猫のような甘えっぷりを思い出して思わず顔がにやけてしまう。
「シュン様、おはようございます。いよいよリメイアへご出立なさるのですね」
「あ、リン。……お、おはよう」
昨夜の大告白の返事もろくにできなかったので気まずい雰囲気になると思ったのだが、リンは終始ニコニコと笑顔を絶やさずにじっと熱い視線を俺に向けている。
逆に俺の方が気恥ずかしくなって視線を逸らしてしまった。
「い、痛ッ!」
俺とリンの間に立ち込めた妖しい気配を感じ取ったのか、頬を膨らませたエミリーとジト目のドルチェが左右から脇腹を抓ってくる。
「色男は大変だな。ま。あたいには関係ないけどな!」
サーシャが「ニシシ」と意地悪く笑いながら4つ目のパンを齧っているが、そんなに食べ過ぎて馬車に揺られて気持ち悪くなったりしないのだろうか?
お願いだから馬車の中でリバースするのだけは勘弁して貰いたい。
「うぅっ……。シュンさんもドルチェちゃんもサーシャちゃんも気を付けて行ってきてください~!」
涙を堪えて必死に笑顔を作っているエミリーに見送られて宿屋を出る。
以前はサーシャの事は「サーシャさん」と呼んでいた気がするが、今ではすっかり打ち解けて仲良くなったようだ。
もしかしたら、昨夜もドルチェと一緒にサーシャを……。
セリーヌさんとの待ち合わせの時間がシルビアとリン達が迷宮に行く時間と重なっていたので一緒に門を潜って街の外に出ると、すでにセリーヌさんが俺達を待っていた。
「すみません、セリーヌさん。お待たせしてしまって……」
「いえ、まだ時間前ですのでお気になさらずに」
今日もセリーヌさんはとってもクールだ。
シルビアとセリーヌさんが揃うとそれだけで場の空気が引き締まる気がする。
「しっかり任務をこなしてくるのだぞ。アイラ達にもよろしく伝えてくれ」
「お気を付けていってらっしゃいませ。では、またお会いしましょう」
「う、うん、行ってきます。迷宮探索頑張って。でも、無理はしないようにね」
シルビアでさえ寂しそうな顔をしているのにリンは満面の笑みだ。
正直なところリンはもっと別れを惜しんでくれると思っていたので、ちょっと拍子抜けしてしまった。
初めて出会った時は姉のシーナの事をとても気に掛けているように見えたリンが、その姉や家族が居るリメイアに行く俺に対してここまで冷静なのが何だか少し気になる。
ニッコリと微笑みながら手を振るリンの後ろでは、護衛メイドの3人が何ともいえない微妙な顔をしていた。
馬車の扱いを覚えたいのでセリーヌさんと一緒に御者席に座らせて貰う事になったのだが、元々1人用の席なのであまりスペースに余裕がなく、かなり密着して座らなければならなかった。
乗合馬車の御者にもいろいろ基礎的な事を教わったのだが、流石に2日間で覚えるのは無理があった。
セリーヌさんの負担を減らす為にも、この行きの道中の間に何としても扱えるようになっておきたい。
「本当に今回は護衛任務を引き受けてくださってありがとうございました。どうぞよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします」
冷静を装っているが、俺の心臓はセリーヌさんの隣に座ってからというもドキドキしっぱなしだった。
密着した状態のセリーヌさんからほのかに漂ってくる花の香りに脳内がクラクラしそうになる。
普段のセリーヌさんは何もつけていない感じだったが、どうやら今日は少し香水らしき物をつけているようだ。
「き、今日は香水か何かをつけているんですか?」
「はい、良い香水が手に入ったのでつけてみたのですが、……お嫌でしたか?」
「いえ、凄く良い香りだと思いますよ。俺は好きです」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
セリーヌさんが嬉しそうに微笑んでいる。
話を聞くと香水をつけたのは今回が初めてだったので、本当は内心不安でたまらなかったのだそうだ。
俺の言葉で安心したのか、普段とはうって変わって饒舌になったセリーヌさんから手取り足取り丁寧に馬車の扱いを教えて貰った。
オルトスの時とは違って上司の目が無いからか、今日のセリーヌさんはかなり大胆になっているようだ。
もしかしたら、俺達以上に今回の旅を楽しみにしていたのかもしれない。
「野営の準備は必要ないって言ってましたけど、今日中に次の街に着くんですか?」
「はい、夕方にはリメイア最南端の街トゥエルクに到着します」
どうやら今回は本当に野宿をしなくて済みそうだ。
念の為にと夜間の見張りの順番を決めたりしていたのだが必要なかったらしい。
やたらと俺と見張りをしたがっていたドルチェはがっかりしそうだが、ちゃんとした場所で寝られるのは凄く助かる。
北に向かって馬車に揺られる事約3時間、遠くにポツンと見えていた森が段々近付いてきた。
「祝福の森が近付いてきましたので3分の1といったところでしょうか。森に近付き過ぎるのは危険ですので、ここで一旦休憩して進路を北西に取ります」
祝福の森から流れてくる小川のほとりに馬車を止めると、真っ青な顔のサーシャがゾンビのようにヨタヨタと降りてきた。
案の定食べ過ぎた為に馬車に酔ってしまったのだろう。
ドルチェが出てこないので馬車の中を覗いてみると、一心不乱に木の棒をナイフで削っている。
どうやら馬車が止まった事にも気付いていないようだ。
作業に没頭している時のドルチェの集中力には毎回驚かされる。
「ドルチェ、少し休憩しないとダメだよ?」
よく馬車に揺られながらそんな器用な真似ができるものだと感心してしまう。
俺なんて電車の中で本を読む事さえ一苦労だったので、何だか羨ましい。
「シュンにぃの水……飲みたい」
足元に散らばった木くずを馬車の外に捨て終わると、ドルチェがコップを出してきたのでウォーターで注いであげると嬉しそうにコクコク飲んでいる。
最近は迷宮での休憩中だけでなく、普段ちょっと喉が渇いた時もドルチェはこうして俺の水を飲みたがる。
それを見たエミリーも同じように要求してくるので、毎日のようにかなりの数のウォーターを唱えていた事もあってか、少しずつだが順調にMPも増えていっているようだ。
「……う~……あ~……」
ゾンビ、もといサーシャを介抱していたら、それだけで休憩時間が終わってしまった。
もう少し外の空気を吸っていたいと言うサーシャと場所を入れ替わる事になったので馬車に乗り込むと、ドルチェが正面ではなく隣に座って身体を寄せて甘えてくる。
どうやら先程まで馬車の中でやっていた作業の続きはもうおしまいのようだ。
昨日一昨日と、ドルチェはエミリーやシルビアが俺とゆっくり過ごせるようにといろいろ気を使ってくれていたのだが、本当はかなり寂しかったのかもしれない。
「……花の匂いがする」
身体をスリスリ押し付けていたドルチェが、俺の腕に顔を寄せてクンクン匂いを嗅いでいる。
ずっとセリーヌさんの隣に座っていたので香りが移ってしまったのだろう。
「……同じ匂い」
ボソリと呟いたドルチェの瞳が妖しく光っている。
「シュンにぃは……今朝もリンと怪しかった」
いろんな女性と関係を持たせようといろいろ画策している様子のドルチェだが、自分の知らないところで事が進むのは嫌みたいだ。
「全部話す……その後お仕置き」
俺の膝の上に向かい合わせになるように座ってきたドルチェの目が据わっている。
こうなったドルチェはもう誰にも止められないが、リンの名誉の為にもこちらもそうやすやすと口を割るわけにはいかない。
正面からじっと目を覗き込んでくるドルチェが、なかなか俺が口を割らない事に拗ねてしまったのか唇を尖らせている。
その表情が何だか可愛らしかったので思わずキスをすると、一瞬きょとんとした顔になったが、すぐにジト目になって俺の頬を引っ張ってきた。
「やっぱり……お仕置き」
そういってニヤリと悪戯っぽく笑ったドルチェの小さな手が俺の股間に伸びてくる……。
俺は次の休憩時間までたっぷりとドルチェにお仕置きをされてしまったのであった。
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