夏の始まり
まず、僕は異性とあまり話したことがない。別に変な性癖を持っているわけではない。機会がないだけだ。
何しろ、僕達の通うこの高校は、大半が男子で、女子はわずかしかいない。だから、女子とはあまり話したことはないため、免疫というものがない。
そんな異性と話すのに免疫がない僕が、初対面の女性に名前(しかも呼び捨て)で呼ばれたら、緊張などという騒ぎではなくなる。普通に会話するのが困難になるだろう。
「こ、こちらこそ、よろしく」
その前に何がよろしくなのだろうか?今後僕は羽島さんと毎日会う予定なのか?いやちょっと待て。何故毎日なんだ。別に羽島さんはそのようなことは何も言っていない。全く、これではまるで僕がそういう願望を抱いてるようではないか。
いや、そういうことなのか?
「それで、葉一はどうしてこんな時間にここにいるの?」
悶々と考えていると、羽島さんは僕がここにいる理由を訊いてきた。
どちらかと言えば、その質問は僕がしたいのだが。
「まあ、簡単に言うと、図書室である資料を読んでたら、気付いたらこんな時間に……」
「え?もう十一時よ?先生が戸締まりを確認しに来なかったの?」
確かにそれはあるかもしれないが、先生から信頼されているのか、図書室の戸締まりを完全に僕に任されている。そうなると、僕の責任の重さがとんでもないことになるのだけれど。
「戸締まりは僕に任されてるから先生が確認することはあまりないんだ」
僕の返答に対し、羽島さんはきょとんとした顔になる。当然の反応だろう。
教室の戸締まりの全てを、一生徒に任せている学校など他にないだろう。学校と言うより、実際に特殊なのは教師の方なのだけれど。
「葉一は図書委員なの?」
「いや、違うけど」
そういえば、教室の戸締まりを任せるって委員の仕事にもないな。そう考えると、戸締まりを任されてる生徒って僕だけかもしれない。
あれ?じゃあ特殊なのは学校でも教師でもなく、僕なのか?
「まあ、色々あったんだよ」
「……そう…」
とりあえず羽島さんはその一言で察してくれたようだ。
どのような解釈をしたのかはわからないけれど。
「次は僕から質問していい?」
「やらしいこと以外ならどうぞ」
…………え?
「べ、別にそんなことは訊かないよ!」
おかしいな。僕はそのようなことを訊く印象は与えていないはずなのだが。
「ふふふ…ただの冗談よ」
羽島さんはイタズラっぽく、クスクスと笑う。その笑顔が純粋に可愛いと思えてしまうのが何か悔しい。
「それで、質問って何かしら?」
「二つあるんだけど、まず、さっきの踊りのタイトルとか教えてくれる?」
僕はダンスや踊りに詳しいわけではないが、ただ単純に、ほんのちょっとの興味本位だ。
「まあ、あれは私の独学だし、自分の気分で踊っているから、特にタイトルとかはないわね」
独学だとは言っていたが、まさかタイトルすらないとは思わなかった。何かを見てそれを真似ていたのかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
ふと、羽島さんは何かを思いついたかのように僕に詰め寄ってきた。
「せっかくだから葉一が付けてくれないかしら?」
「付けるって、タイトルを?」
「もちろん。気に入ってくれたみたいだから、あなたに頼みたいわ」
急にそんなことを言われても少し困ってしまう。あと、顔近い。
「う~ん…それじゃあ、《月下の蝶》っていうのはどうかな?」
何とか出てきたタイトル。羽島さんは気に入ってくれただろうか?
「《月下の蝶》…夜だから月下はわかるけど、どうして蝶なのかしら?」
「単純で申し訳ないけど、羽島さんがまるで蝶みたいに舞っていたからなんだ」
ひらひら飛び回る一匹の蝶。その蝶は美しく舞い、たった一匹で全てを魅了する。幻想世界から迷い込んだ一匹の蝶。僕にはそう見えたのだ
「私が…蝶?」
「べ、別に、悪い意味じゃないよ!踊り方がまるで蝶みたいにひらひらとしてたからっていう単純な理由だし」
慌てて言い訳のように理由に補足を付ける。
「別に怒っているわけではないわ。ただ、他人からは私がそんな風に見えていたんだなぁ…って思っただけ。それと、私のことは名前で水夏でいいわよ」
どうやらタイトルに関しては悪くはなかったらしい。そして名前で呼べと言われても若干の抵抗があるのだが。
「それで、もう一つの質問は何かしら?」
話を切り替えるように、水夏さんは僕に問いかける。
「これは同じ質問を返すようになるけど、水夏さんはどうしてこんな時間にここにいるの?」
僕が答えたのだから、水夏さんも答えてもいいはずだ。それに、ただ夜遅くに学校にいるだけなのだから、他人に理由を言えないということはないだろう。
「そうね…私も何て答えれば良いのかわからないけれど、何となく…かしら?」
「何となく?」
「ええ。何となく。今日この時間に、ここに来れば誰かに会える。何となくそんな気がしたの」
どうやら水夏さんは、何の確証もなく、自分の直感だけを頼りにここへ来たようだ。
だとすれば、彼女の勘はある意味合っている。実際に、こうして僕と水夏さんは出逢った。こういうのを本などの物語では《運命的な出逢い》などと呼ぶのだろう。
ここから僕らの一夏の思い出の物語が始まる。そして、物語には必ず終わりがくる。
終わりは恐らく、僕と水夏さんが別れることだろう。それで僕は満足できる。
たとえ、僕らの別れが、どれだけ残酷なものだとしても。




