介護人・7
声が聞こえている。
朝からずっと声が聞こえている。
寿美の頭のなかに意味をもたない声が鳴り響いている。
あれは誰の声だろう。英次郎の声? それとも……
「誰?」
寿美はぼんやりとしながらその声に呼び掛けていた。
――誰? 知ってるだろう
そう、寿美は知っていた。それが誰の声かを。
「あたしに何をさせたいの?」
――おまえが望むことを
「あたしは何も望んでないわ」
――何も?
「そう、何も。あたしは全てを持っている。望んでいるものは全て。だからこれ以上望むことなんか何一つない」
嘘つき。
心のなかで自分自身に唾を吐く。
今、あの人はどこにいるんだろう。本当に会社に行ってるの? それとも女のところへ?
――心のままに動くがいい。俺がそれを許す
「許す?」
――そうだ、許してやる!
はっとして目を開けた。
ふと、自分が眠っていたことに気づく。窓に目を向けるとすでに西日が刺しはじめている。
寿美はソファから身体を起こすと頭を軽く叩いた。
まだ夢のなかにいるような感じがしていた。
(あれは?)
さっき夢のなかで聞いた声を思い出そうとして、突然吐き気に襲われた。それはまるで思い出すことを身体が拒否しているかのようだ。
寿美はふらりと立ち上がった。
身体が妙に軽い。
なぜ自分が立ち上がったのか、寿美は自分でもわからなかった。それでもフラフラとある目的に向かって歩きだす。だが、その目的も自分ではわかっていない。いや、実際には今から自分のやろうとしていることを理解しているのかもしれない。ただ、それを認めたくはなかった。
意識がどこか遠くへいってしまっているような感覚が全身を包んでいる。まるで全身麻酔をかけられたようなフワフワとした不思議な感覚。
自分が英次郎の部屋に向かっていることを確信した時、寿美は自分がこれからやろうとしていることをはっきりと予感出来た。
襖を開けると英次郎が驚いた目で寿美を見ている。
寿美は黙ったまま、これまで余程の理由がなければ入りたくなかったその部屋へ足を踏み入れた。
英次郎の目に恐怖が走る。
本能で寿美がいつもの状態ではないことを感じ取っている。そして、その目は寿美の背後に立つ〈男〉の姿を捕らえていた。
「あ……あぁ……」
寿美はあえてその見えない意識に抗おうとはしなかった。ゆっくりとその両手を英次郎に向かって差し出す。
「す……す…みさ……ん」
英次郎はもうほとんど動かない身体を必死にのけぞらし、寿美の手から逃れようとしている。しかし、しょせん逃げることなど出来ない。
寿美はゆっくりと、そして確実に英次郎の喉元に両手を添え、そして一気に締めあげはじめた。
「ぐぉ……ぐぼ……」
口から泡を吹き、必死の形相で寿美の手を振りほどこうとあがいている。英次郎の体に馬乗りになり、その体を押さえつける。
寿美もまた必死だった。この手に自分自身の未来がかかっている。
(この人さえいなくなれば――)
そうだ、この人さえいなくなれば全てはうまくいく。あの人だって帰ってくる。
そんな全ての思いを腕にこめる。そして、英次郎はその腕からのがれようと必死に振りほどこうとする。それは寝たきりの老人のものとはとても思えないものだった。
どこにこれほどの力があったのか。ほんの少しでも力を緩めれば簡単に振りほどかれてしまうような怖さがあった。
「ぐぁ! ぐぃ!」
言葉にならない声が英次郎の口から漏れる。
英次郎の寿美を見る目がその恐怖を示している。
腕の筋肉が痙攣するのではないかと思えるほどの力で寿美はいつまでも締めあげた。そのほんの何分かの出来事が、まるで一時間にも二時間にも感じられた。
(死んで! 死んでちょうだい!)
自分の持つ、あらん限りの力を指に込める。
もう力の限界ではないかと思われた次の瞬間、その英次郎の腕から突然力が失われた。寿美の腕に食い込んでいた英次郎の指が離れ、その腕がだらりと落ちていった。
(終わった……終わった)
力がストンと消えていく感じがした。
ほんの一瞬だけ安心感が寿美を包んだ。
寿美はそのままの姿勢で大きく息を吸い込んだ。腐ったような匂いのする空気、それが不思議に美味しく感じられた。
寿美は硬直している自らの指を、残り少ない力で解きほぐさなければならなかった。英次郎の目は、まるでまだ生きているかのように大きく見開き寿美を捕ら続けている。
(本当に終わったの? 本当に死んだの?)
指が……いや、全身が震えている。
いつまでもその場にはいたくなかった。
寿美はふらつきながらその部屋を出るとバタリとうずくまった。もうこのまま動けないんじゃないかと思うほど疲れていた。
一つ、二つ、大きくため息を吐く。
そうしている間にしだいに心が落ち着いてきた。そして心が落ち着くにつれ、自分の行動を振り返りはじめた。
(殺した? 私がこの手で殺した?)
自分でも不思議だった。人を殺したことに対する罪悪感も恐怖感もなかった。寿美は自分の手をじっと見つめた。
(本当にこの手で私が殺したんだろうか?)
腕に痛みを感じてトレーナーの袖を捲る。そこに英次郎の抵抗の跡が痣となってくっきりと残っている。
それは自らの行動が夢でなかったことを指し示しているようだった。
「そうさ、おまえが殺したんだ」
突然の声に顔をあげた。そこに〈男〉が立っていた。
どこから入ってきたのか黒づくめの〈男〉が笑いながら自分を見下ろしている。
「あ……あなたは……」
寿美の記憶のなかに断片的に〈男〉の姿が見え隠れしていた。
「何を驚いている? 俺はいつもおまえとともにいたじゃないか」
そう……この声を知っている。いつも寿美の頭のなかで囁き続けてきた。
「あ……あなたが言った……夢を……夢を実現しろって……」
「そう、そうだったかもな」
「これが私の夢だっていうの?」
〈男〉は低く笑った。
「そうだ。これがおまえの夢だ。いや……夢というよりも夢の果てってところだな。汚れた夢の果てだ。おまえはもう夢を掴むことなど出来ない」
〈男〉の言葉は寿美の心に重くのしかかった。
夢の果て。
心が枯れていく。
「そ……そんな……」
「さあ、おまえの夢の果てを見極めるがいい!」
〈男〉の言葉に呼び出されるかのように部屋の奥からカタリと小さな音が聞こえ、寿美は思わず振り返った。それはほんの小さな音でしかなかったが、寿美にとってそれはどんな爆音よりも大きく心に響いた。
(ま……まさか)
「いったい――」
視線を男へ戻すとすでに〈男〉の姿はそこからいなくなっていた。
カタリ……
また小さな音が――
(そんな……そんな……)
生きている? 生き返った?
寿美は襖をじっと見つめた。
そんな馬鹿なことがあるはずがない。それはわかっていた。いや、わかっているつもりだった。だが、常識など通じない世界に自分が飛び込んでしまっていることを寿美は感じ取っていた。
小さな一匹の蜘蛛が這っているのが見えた。
(殺したはずなのに)
壁に叩きつけられ潰された蜘蛛。この蜘蛛も生き返ったに違いない。
そして、英次郎も……
間違いない。なによりも殺意が部屋のほうから滲みだしている。寿美への殺意。それがはっきりと感じられる。
背筋を蟲が這うようなザワザワとした感覚が襲う。
きっと英次郎は生き返り、あの襖をゆっくりと開けるのだ。そして、血走ったようなギョロリとした目で自分を睨み、蜘蛛のようにあの干涸びたような腕で床を這いながら近付いてくる。
ズルリ……ズルリ……と畳の上を這う音が寿美の頭のなかに直接聞こえてくる。
心の中にはすでに生き返った英次郎の姿が蠢いていた。
これから何が起ころうとしているのか寿美にははっきりわかっていた。
寿美は動けなかった。それが避けることの出来ない未来だと思った。
いつのまにか背後のベランダへの扉が開いたことに寿美は気づかなかった。少しずつ、それでも自然に後退りしていた寿美の身体は吸い込まれるようにベランダへと出ていっていた。
手摺りに手が触れる。
英次郎の気配がしだいに強くなってきている。
(来る……)
きっとすぐに姿が見えてくる。そして、獣が這うように自分に向かってくる。
夢が壊れていく。
夢が消えていく。
近づいてくる恐怖から逃れようとするように寿美は身体をのけぞらした。
次の瞬間、ふと自分の身体が軽くなっていくのを感じていた。
世界がグルグルと回る。
何が起きたのかわからなかった。
それでも自分の全てが終わったことだけは感じ取れた。
(これで良かったのかもしれない)
最後の意識のなかでそんなことを考えていた。




