介護人・6
意識がかすれていた。
そのかすれている意識の向こうから声が聞こえていた。
「寿美さぁあん!」
頭のなかでぐわぁんぐわぁんと鳴り響く。
――殺してしまえ、そうすりゃあんたは自由だ
(自由?)
――そう、自由だ
(でも……)
――でも? 何を躊躇う?
(そんなこと私には――)
――出来るさ、あんたなら出来る
(……)
――あの男がここへやってきた時からのことを思い出してみるがいい。おまえに何をもたらしたかを考えてみるがいい
(……)
――あの男さえ消えればおまえの望みは叶う
(私の望み……)
――そうだ。思い出せ。おまえの夢を思い出せ。
「望み」、「夢」、それはもう遠い世界の言葉のように思えた。
* * *
どうしてもあの〈男〉のことが頭から離れない。
なぜそんなにもあの〈男〉のことが気になるのかは自分でもわからない。それでも、あの〈男〉の存在を放っておいてはいけない気がしていた。由美にとって悪い何かをもたらす大きな存在に思えていた。
由美は思い切って麻里と洋子の二人に相談してみた。
「男?」
由美の強い思いは伝わらなかった。寿美のように極端な変化をみせるようなこともなかったが、その代わり麻里と洋子は由美の話にさほど興味を示そうともしなかった。
いつもと同じマンションの入り口付近。
今日もこの場に寿美は姿を見せていない。由美が寿美に会ったあの日以来、寿美は姿を見せていない。
「ええ、このマンションの人かもしれないと思って管理人さんにも聞いてみたんですけど知らないらしくって」
「それじゃ、ただこのマンションの誰かのところに訪ねてきたんじゃないの? どっちにしてもそんなに気にすることじゃないわよ」
麻里は由美の不安を軽く笑い飛ばした。もともと麻里はおおらかな性格であまり細かなことは気にしないほうだ。
「はぁ……」
「由美ちゃん、疲れているんじゃないの?」
そう言って麻里は由美の肩をぽんと軽く叩いた。
その時、突然、背後から声が聞こえた。
「……おまえが奴を連れてきたんだ」
その声にハッとして振り返る。そこには一人の老婆が立って、由美を見上げるような形で睨みつけている。
「あ……あの……」
「おまえが……おまえがあいつを連れてきたんだ!」
まるで食って掛かるような物言いで、老婆は由美に向かって叫んだ。
「ちょっとおばあちゃん!」
マンションのなかから中年の太った女性が慌てたように飛び出してくる。「急にどうしちゃったの。ほら、帰るわよ」
唖然として見つめる由美たちに女は軽く頭を下げると、グイグイと老婆の腕を引っ張りながらマンションのなかへと消えていった。
「あれって――」
「笹山さんとこのおばあさんよ」
と洋子が言った。「確か喜久子さんって言ったかしら。娘さんと二人で暮らしてるらしいわよ」
「ボケちゃってるみたいね」
麻里が顔をしかめて言う。
「若い頃、青森でイタコをやってたことがあるんですって。なんか気持ち悪いわよね。娘さんも大変だわ」
「年寄りの世話はどこでも大変よ」
洋子の言葉に、由美はふと寿美のことを思い出した。
「そういえば最近寿美さんに誰かお会いしました?」
「そうねえ、そういえば最近あまり会わないわね」
「ええ、どうしたのかしら」
さすがにこの話題に対しては二人とも興味を示したようだった。
「先日、ちょっと寿美さんをうちに呼んだんですけど、なんかとても疲れていたみたいなんです」
「お舅さんのお世話で大変なんでしょう」
「そうよねえ、この前のワイドショーでもお嫁さんがお姑さんと殺すって事件があったらしいわよ」
「怖いわねえ、でも昨日なんてワイドショーでバラバラ殺人の話があったわ」
気のせいか、二人がわざと話をそらしているような感じがした。二人はまるで由美が口を挟もうとするのを阻むように次々と言葉を継ぎ足し、みるみるうちに寿美からは話題がそれていった。
由美はその二人の会話をやりきれない思いで聞いていた。