介護人・5
日曜の朝、寿美は信人が武に向かって怒鳴っている姿をじっと見つめていた。
武が休みの時にゴルフに出かけるのはいつものことだ。お得意先の接待だと言っているが、おそらくそれは嘘だろうということを寿美は気づいていた。
だが、今朝はゴルフバッグを担いだところで信人に行く手を阻まれた。真剣な顔の信人の訴えに、武は仕方なく肩にかけたゴルフバッグをおろすと不機嫌そうにソファに腰をおろした。時間が気になるらしく、しきりにチラチラと時計に視線を投げかけている。
父親にこれほどまでに反抗的な信人を見るのは初めてのことだ。どちらかといえば落ち着いた感じのある信人が、これほどまで怒りをあらわにするということに寿美は驚いていた。そして、それと同時に信人のことを憐れにも感じた。
信人にもずっと我慢を強いらせてきた。これまで辛抱してきたことをむしろ誉めてあげたいくらいだ。
「いったいこんな生活いつまで続けるつもりなんだよ!」
信人が眉を吊り上げて言った。
寿美はぎゅっと手を握り締め、武と信人の会話を見守った。ひょっとしたらこれは自分が救われる最後のチャンスかもしれない。
(信人が言ってくれれば何かが変わるかもしれない)
小さな希望だった。
「いったいおまえは何を言ってるんだ。だいたい父親に向かってその口のききかたはなんだ。いい加減にしなさい」
武は時間を気にしながら、信人の顔を睨んだ。それでも信人はなおも食い下がった。
「あの爺さんが来てから家のなかがめちゃくちゃじゃねえか!」
「なんだ、その言い方は、おまえのお祖父さんだぞ」
「そ、そんなこと知るかよ、あんなボケた爺さん、早く老人ホームに預けてしまえばいいじゃねえか」
信人の声がわずかに震えている。
「おまえが心配することじゃない」
「母さんだって大変なんだぞ! わかってんのか?」
その言葉に寿美は胸が熱くなった。信人は寿美のことを心配して言ってくれている。だが、それに対して武は不愉快そうな顔を寿美に向けた。
「おまえがくだらないことを信人に吹き込むからだ!」
「母さんのせいにばっかりするなよ! もともと爺さんは父さんが連れて来たんだろ! 少しは責任感じろよ!」
「おまえは何を勘違いしているんだ? きちんと世話をすることこそが責任だろう」
「卑怯なこと言うなよ、母さんばっかりに押しつけてるくせに」
「父さんが面倒見られるはずがないだろう。父さんが仕事辞めてどうやって生活していくって言うんだ?」
脅迫するかのような言い方で武は信人を睨んだ。
「だからって――」
「もうやめなさい! おまえはおまえのやらなきゃいけないことがあるだろ! この家のことは父さんが決めることだ。おまえが口を出すことじゃない! 自分の立場をわきまえなさい!」
その怒号に信人の目に小さく光る涙が浮かんだ。
(終わった)
寿美は思った。
もちろん、寿美が信人をけしかけたわけではない。信人は自分の意志で武に進言してくれた。だが、武にとってはそんなことなど何の意味も持たない。
信人はちらりと寿美へ視線を向けると悔しそうな顔をしながら部屋を飛び出して行った。
「子供に余計なことを吹き込むのはやめろ」
信人がいなくなった後、そう吐き捨てるように言うと武はテーブルの上に置かれていた新聞を寿美に投げ付けた。
新聞が顔の辺りに当たって落ちた。
「私が何を言ったって言うんです? 私はあの子に何も言ってませんよ」
思わず反論した。
「じゃあ、なんであいつが俺にあんなことを言うんだ?」
「あの子だってつらいんですよ」
「何がつらいって言うんだ? あいつが親父の世話をしてるわけじゃないだろう。あいつに何の苦労をさせたって言うんだ?」
「あなたはお義父さんが来る前のこの家のことを憶えていますか?」
しだいに寿美もいらいらした感情を押さえられずになってきていた。
「なに?」
「この家がどんなふうだったか、あなた憶えていますか?」
「なに言ってるんだ?」
「こんな家じゃなかった。何もかも変わってしまったじゃないですか?」
「家族が増えたんだ。少しくらい変わって当たり前だろう」
少しくらい。本当に武はそう思っているんだろうか。この家がどれほど変わってしまったか、この人はわかっているんだろうか。
「あなたは口先だけなんだから……」
「なんだと?」
「信人だってかわいそうです!」
「なにがかわいそうだ! おまえが余計なことを吹き込んだだけだろう! 今まであいつが俺に逆らったことなどあったか? おまえがくだらないことを言わなければあいつがあんなことを言うはずがないんだ。いいか、二度とくだらないことを吹き込むな!」
「全て私にせいにするんですね」
無言のまま武は立ち上がり、寿美の胸ぐらを掴んだ。
「本当のことじゃないですか。いつもあなたは私のせいにばかり」
「親父の世話はおまえがやるんだ! それがおまえの仕事だ!」
ぞっとするような顔だった。まるで寿美が英次郎の世話に疲れていくのを楽しんでいるかのようにすら見える。
(楽しんで……)
ふと、一つの疑念が頭をよぎった。
武には女がいるのではないだろうか。そして、わざと寿美に英次郎を押しつけているのではないだろうか。寿美を疲れさせるために、そして、寿美を逃げ出させるために。
「あなたは卑怯です!」
「なんとでも言え!」
武は寿美をソファに突き飛ばし、ゴルフバッグを担ぎ足早に出ていった。
小さな疑念はたちまち大きく膨れ上がり確信へと変わっていった。
(そうか、そうだったんだ)
身体から力が抜けたように動けなかった。
おそらく寿美の勘はあたっているだろう。今日のゴルフも嘘に決まっている。
(女と会っているんだ)
ショックだった。女がいるということも当然ショックだったが、そのことに気づかれても構わないといった武の態度がそれ以上にショックだった。
壁を這う一匹の蜘蛛が目に入った。
寿美はそっとスリッパを脱ぐと右手で握り締め、壁に向かって投げつけた。
「畜生!」
スリッパは見事に蜘蛛を捕らえ、床に落ちていった。壁にはベッチャリと潰された蜘蛛が貼りついている。
「フフフ……」
寿美は小さく笑った。
何が可笑しいのか自分でもわからなかった。
意識がうすれはじめていた。
寿美はいつまでも動けずにソファに倒れ、いつしか涙が頬を伝っていくのも他人ごとのように感じていた。
* * *
あの時の寿美の変化を思い出し、由美は悩んでいた。
――つまらないことに首をつっこむんじゃない!
あの声はいったい?
寿美に対しどう接していいかわからなかった。かといってこのまま放っておいては何か大変なことが起きそうな気がする。
由美はアトリエに篭もり、机の前で絵筆を握ったまま考え込んでいた。
このマンションに引っ越してきた時、伸一にお願いして奥の小さな部屋をアトリエとして使わせてもらっている。若干小さ目のその部屋も由美がアトリエとして使うには十分の広さだ。
子供の頃からイラストレーターになりたかった。高校を卒業してすぐに伸一と結婚したため、本格的に絵の勉強をすることは出来なかった。それでも夢を捨てることはなく、独学で絵を続けてきた。その夢が叶ったのは半年ほど前のことだ。小さな賞だったが、新人賞を受賞。それから時々、出版社からの依頼で童話のイラストを描いている。
そして、何よりここで絵を描いている時間がもっとも落ち着くことが出来る。だが、この日はどうにも集中することが出来なかった。
もう一度寿美に訊いてみたほうがいいんじゃないだろうか。それともしばらく様子を見たほうがいいんだろうか。ずっと迷いつづけている。
あの時、寿美は自分の行動がわかっていなかったんじゃないだろうか。それにあの時の寿美の目、あれは誰かに操られているかのような眼だった。
操られてる?
あの男が……
(そんな馬鹿なことが――)
あるはずがない。あの男が寿美を操っているなんてことがあるはずがない。そんな簡単に催眠術なんてかけられるはずがない。
そもそも、あの男は何者なのだろう。
「お母さん、また絵描いてるの?」
娘の奈美が部屋を覗き込んだ。
高校を卒業してすぐに伸一と知り合い結婚した。もし、奈美が生まれていなければ、まだ独りで夢を追い続けていたかもしれないと思うことがある。それほどまでに由美は自らの夢に情熱を傾けていた。もちろん奈美を生んだことに後悔はないが、それでもこのまま夢を埋もらせたまま終わってしまうことだけは嫌だった。
「ねえ、お昼は私に作らせて」
奈美は女の子らしく、日曜になると由美に替わって家事をやりたがり、それを教えることは由美にとっても楽しい時間だった。もう何年かすれば家事を全て奈美に託すことが出来るかもしれない。
由美は奈美の言葉に時計を見た。
「あら、もうそんな時間なのね」
「そうよ、もうそんな時間なの」
奈美はかわいくおどけてみせる。奈美の笑顔はいつも由美の心を明るくしてくれる。
「お父さんは?」
「うん、もう起きてるよ。ソファでごろごろしてるけどね。母さんがまた絵を描いてるって言ったら、なんかがっかりしてたみたい」
そう言って奈美は笑った。
由美がイラストレーターとして仕事をしていることに伸一は反対していない。だが、それでもあまり愉快ではないように見える。伸一も昔は脚本家になりたいと言っていた時代があった。だが、いつしか伸一は夢を捨て現実の中だけに生き続けている。もちろん、生活を支えてくれているのはその伸一だということは由美もわかっていたし、脚本家としての夢を諦めたからといって軽蔑するわけでもないし、ましてや嫌いになるはずもない。ただ、伸一自身はそれを負い目と感じているらしく、由美が夢を語るのを嫌っているようなところがあった。伸一が毎日のように酒を飲んで帰ってくるようになったのも、由美がイラストの仕事を始めた頃からだ。
「それじゃ、待ち惚けを食らってお腹を減らしてるお父さんのために何か美味しいものを作ってあげないとね」
由美は一瞬だけでも悩みを忘れようと精一杯笑顔をつくってみせた。