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夢喰い  作者: けせらせら
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介護人・4

 一目見たときから寿美の様子がいつもと違うことに由美は気付いていた。

 うつむきがちの顔、濁った目、何かにとりつかれたような重い感じ。

 つい先日まで誰よりも明るく見えた寿美の変わりように由美は驚き動揺した。今日は化粧すらしていない。染みのついたトレーナーに汚れたジーンズ。いつもの寿美では考えられないスタイルだ。

――女性はどんなときでも綺麗でいたいと願わないといけないのよ。たとえそれが家族であろうと、いえ、誰もいなくたって鏡にうつった自分を綺麗にしようという気持ちをもたなきゃ

 由美が寿美と知り合った頃、寿美はいつでもそう話していた。

 あれは誰の言葉?

 とてもそれが今、この目の前にいる人のセリフとは思えない。

 午前十時、夫と小学校に通う奈美を送り出した由美にとって、もっとも落ち着ける時間だ。この時間ならばゆっくり寿美と話をすることが出来る。そう思って寿美を招いたのだった。由美は寿美から先日のことをもっとはっきり聞きたかった。しかし、寿美の顔を見てそんな話を出来るだろうかと不安になっていた。

「どうしたんです?」

 由美は戸惑いを隠すよう努めながら紅茶を差し出した。

 寿美はほんの少し震えた手でカップを握ると、ゆっくりと一口飲んだ。そして、やっとホッとしたような顔をみせた。

「ありがとう」

「どうしたんです? なんか疲れているみたいですね」

 由美も寿美の家庭の事情は知っていた。以前から寿美は時折由美たちにも義父の英次郎のことを洩らしていた。寝たきりとなった老人の世話がどれほど大変かということは、由美にもある程度予想することが出来る。けれど、この急激な変わりようはどうしたことだろう。

 介護に疲れただけとは思えなかった。

「ええ、なんかもう嫌になっちゃって……」

 弱気なセリフもいつもの寿美のものとは思えない。

 由美がこのマンションに引っ越してきたのはちょうど一年前になる。引っ越してきてすぐ近所のスーパーで寿美と知り合った。その日以来、寿美とは割合仲良くしているが、あの頃の寿美はこんな弱音を吐くようなことは決してなかった。むしろ、由美たちのような若い主婦たちの相談役で、周囲を明るく盛り上げることが多かった。

「そんな……寿美さんらしくないですよ」

「私らしくない……? そうね……でも、何をどうすればいいのかわからなくなっちゃったのよ」

 そう言いながら目頭を押さえる。

「大丈夫ですか?」

「ええ……」

「老人ホームのお話はどうなったんです? この前、旦那さんに相談してみるって言ってましたよね。話してみたんですか?」

 言葉を選びながら由美は尋ねた。それに対し寿美はゆっくりと首を振った。

「……だめね」

「だめって――お話していないんですか?」

「話してみたわ。でもだめなの。あの人はお義父さんを他の人に預ける気はないのよ」

「でも、それじゃ寿美さんばかりが犠牲になることになるじゃないですか」

 由美は心から寿美のことを可哀相に思った。それは将来、自分にも当てはまることかもしれないという意識がなおさら寿美に同情させたのかもしれない。由美の両親はすでに亡くなっているが、夫の伸一は一人っ子で両親は新潟に暮らしている。

 由美の言葉に寿美は嬉しそうに力なく微笑んだ。

「ありがとう、そう言ってもらえるとうれしいわ」

「もう一度ちゃんと話をしたほうがいいんじゃないです?」

「……無理ね、あの人はもう私がどう言っても聞いてはくれないわ。あの人、きっとファザコンなのよ」

 寿美はそう言って力なく笑った。由美にはその冗談が寿美の諦めの気持ちのあらわれのように思えた。

「これからどうするんです?」

 そう尋ねた時、ほんの一瞬だが寿美の動きがピタリと止まった。その時の寿美の顔は何かを隠しているのを言いあてられた子供のように見えた。

「さ……さあ」

 寿美は口篭もった。その反応が由美の心のなかに危険信号を灯した。

(この人は何を考えているんだろう?)

 その心を読むことは由美には難しかった。

 寿美は紅茶を飲み干し、ふぅっと一息ついて部屋を見回した。

「きれいな部屋ね」

「ええ、今の時間だけです。どんなに掃除しても夫や娘が帰ってきたらたちまち散らかされちゃうんですから」

 娘の奈美は最近ではだいぶ家の手伝いをしてくれるようになってくれている。むしろ部屋を散らかすのは夫の伸一のほうかもしれない。伸一は近頃飲んで帰ってくることが多くく、そのことは由美にとって悩みの種だった。

 しかし、その由美の言葉も寿美にとっては羨ましいものだった。

「これだけ奇麗にしていられるなんて羨ましいわ」

 羨望に満ちた目で寿美は部屋をもう一度見回した。

 さっきよりも落ち着いてきただろうか。尋ねてみても大丈夫だろうか。由美は迷っていた。そして、その迷いは寿美にも伝わったようだった。

「どうしたの?」

 寿美の問い掛けに、由美は覚悟をして口を開いた。

 迷っている場合じゃない。今、聞いておかなければ後悔することになるかもしれない。

「ちょっと聞きたいことがあるんですけど……」

「なに?」

「この前もお訊きしたことです……この前、マンションの前でみんなでお話してた時のことなんですけど――」

「え?」

 ぼんやりと宙を見据え寿美は思い出そうとしている。

「その時、私たちの横を通り過ぎていった男の人のこと憶えています?」

「男の人? ……さあ」

 寿美の目が虚ろに宙をさ迷う。

「あの……黒づくめの格好で――」

「さあ……」

「あの時、確かに私たちの横を通り過ぎたんですよ。私、ずっと捜しているんですけど管理人さんも知らないって言うし、それにみんなも――」

 なぜだろう。男の話になった瞬間から寿美の態度が一変したように見える。まるで催眠術にかけられ、どこか夢の中をさ迷っているようにも見える。

(催眠術?)

「ごめんなさい、わからないわ」

 その寿美の口調までも気持ちのない空虚なものに感じられる。

(これは本当に寿美さんが言っているのかしら? それとも――)

 由美はなおも言い寄った。

「思い出してみてくれませんか?」

「さあ……」

「でも――」

 その時だった。

 寿美の顔が突然、変貌した。

「いい加減にしろ。憶えていないって言ってるんだ」

「す、寿美さん?」

「つまらないことに首をつっこむんじゃない。それがおまえのためだ」

 背筋が冷たくなるような声だった。それは明らかに寿美の声じゃない。低くしゃがれた声。

「あ……」

「何を驚いている。この俺に会いたかったんだろう。だがな、おまえなんかじゃ俺の邪魔は出来やしない。痛い目にあいたいのか」

「……」

 由美はその言葉に驚き、そして恐怖した。口を開くことも出来なかった。だが、次の瞬間には寿美の顔はもとの疲れた顔に戻っていた。

「あら、どうかした?」

 その様子は自分が何を言ったのかも憶えていないようだった。

「い……いいえ」

 由美はあえて追求するのを止めた。寿美のためというよりも正直いって怖かったのだ。寿美の変わり様が、そしてその裏にいる何者かが。

「何の話だっけ?」

 そう不思議そうに問い掛ける寿美の顔を、由美はどう答えていいかわからないまま見つめていた。


   *   *   *


 久しぶりに楽しい時間だった。

 ここ数日、ずっと部屋に閉じこもってきた。そのことが自分自身にマイナスになっていることは自分でもわかっていた。わかっていてもそこから自分の力で抜け出すことも出来ずにいた。

 岡野由美がそんな自分をほんの短い時間だけでも救い出してくれた。

 寿美は由美に対し心から感謝していた。

――これからも、たまには遊びにきてくださいね

 最後に由美はそう言ってくれた。気遣いが嬉しかった。でも、もう遊びに行くことはないだろう。あそこへ行けば自分がますます惨めに感じてしまうことだろう。

 ふと、最後に見せた由美の不安そうな顔が思い出された。

(あの時、彼女は何を言っていたんだろう)

 自分の部屋へ帰る途中、歩きながらぼんやりと考えた。

 どうしても思い出せない。何かを尋ねられたような気がするが、何を尋ねられたのか、自分がそれにたいして何と答えたのかどうしても思い出せないのだ。ただ、その後の彼女の顔。彼女は何かに怯えていた。

(何に? 私? まさか)

 それにしても、と寿美は由美の部屋のことを思い出していた。

 花が飾られ、控えめな良い香りが部屋全体を漂っていた。もともとは私の部屋もあんなふうだった。子供が部屋を散らかすといってもそんなものはかわしいものだ。

 ふと、自分の部屋の惨状を思い出してぞっとした。あんな部屋は決して誰にも見せられるものじゃない。

「おまえも部屋をきれいにすればいいじゃないか」

 その声でふと横を見ると男が立っている。

(この男は……?)

 寿美が考えたのはここまでだった。

「汚れたものは捨ててしまえばいい。美しく綺麗な部屋。それがおまえの夢なのだろう?」

 寿美は思わず小さく頭を下げた。なぜ、自分がその男に会釈などしたのか、その男が何者なのか寿美にはわからなかった。この時、寿美にはっきりとした意識はなかった。うつろな目で男を見つめ、すぐに視線を前方に移した。そして、男のことなどすぐに忘れてしまっていた。

 小さな男の含み笑いが聞こえるなか、寿美は部屋へ向かってぼんやりと歩いていった。


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