介護人・3
「知らないねえ」
由美の質問にマンションの管理人の川沼はそう言って首をかしげた。川沼は今年で68才になる。管理人になったのは六年ほど前でそれ以後引っ越してきたマンションの入居者のことは全員のことを把握している。
川沼が把握していない入居者などいるはずがない。それは由美にもわかっていた。それでも由美はもう一度訊いた。
「本当ですか? 本当にここ最近このマンションに入居してきた人はいないんですか? まだ結構若そうな人なんですけど……」
「誰かと勘違いしているんじゃないかい? ここ半年の間は引っ越してきた人は誰一人いないよ。そりゃあいくつか部屋は空いているけど、今のところ入居の予定はないしねえ」
白髪交じりの頭を掻きながら河沼は申し訳なさそうに言った。
「そう……ですか。ありがとうございました」
由美は小さく頭を下げると、管理人室のドアを閉めた。そして、ゆっくりとした歩調でエレベーターのほうへと向かう。
由美は一週間前のあの日以来、ずっと〈男〉のことを捜していた。だが、誰も〈男〉のことを知っている人はいなかった。あの時、あそこにいた他の三人ですらあの〈男〉のことを忘れてしまっていたのだ。いや、忘れてしまったというよりも、存在そのものに気づいていなかったのかもしれない。
ここ数日の間、寿美は顔を出す事も少なくなっている。会っても口数は少なく、どこか表情が暗く感じられる。
(何かがおかしい……)
嫌な予感がしていた。
その時、ポケットのなかの携帯電話が鳴り出した。
すぐに携帯電話を取り出して電話に出る。
――姉さん?
若い男の声が聞こえてきた。
弟の高村浩也だった。浩也は2年前、母が病死したのをきっかけに実家に戻り、今は近所の工場に勤務している。
「あら、珍しいわね」
――姉さんこそ、全然連絡くれないじゃないか。
「ごめん。雅子さんも元気にしてる?」
浩也の妻の雅子とは由美も仲良くしている。明るい性格で、一緒にいると心が和むような優しい子だ。
――ああ。それなりにやってるよ。
「浩也、今日、仕事なんじゃないの?」
そう言いながらエレベーターのボタンを押す。待っていたかのようにすぐにドアが開いた。
――今日は会社が休みなんだ。組合の行事があってね。
「ふぅん、それで? 何かあったの?」
――この前、母さんの部屋の荷物を整理したんだ。
「母さんの? どうして?」
エレベーターに乗り込むと4階を押した。ゆっくりとドアが閉まる。
――実は雅子が妊娠したんだ。
少し照れたように浩也は言った。
「あら、おめでとう」
――うん。それで、あの部屋を使えたらと思って……一応、あそこは母さんの部屋だし、今まではあのままにしておいたんだけど、ずっとあのままってわけにもいかないしさ……いいよな?
「そうね」
母の部屋は由美にとっても思い出深い場所だった。あのままにしておけるなら、どんなに嬉しいかしれない。だが、浩也の気持ちもよくわかる。
――で、母さんの荷物をどうしようかと思ってさ……どうすればいいと思う? 一応、しまっておけるものはしまっておくつもりなんだけど……姉さん、欲しいものとかあるか? 写真とか小物。姉さんが貰ってくれるなら母さんも喜ぶと思うんだけど。
「わかった。どのくらい?」
――そうだなぁ。写真や小物類だから……ダンボール一つくらいかな。
「それだけ?」
――他は服だよ。母さんの服なんて姉さん着ないだろ?
浩也は笑いながら言った。
「そうね。じゃあ、送ってくれる?」
――わかった。ところで義兄さんたちは元気?
社交辞令のように浩也は訊いた。
「元気よ。生まれたらちゃんと連絡ちょうだいね」
――わかった。姉さんもたまには遊びにきてくれよな。それじゃ――
浩也はそう言って電話を切った。
ちょうどドアが開き、由美はエレベーターを降りると部屋に向かった。
* * *
時折、全てを投げ出して逃げてしまいたくなる。
寿美は部屋を見回しながら、これまでの結婚生活を思い出していた。
楽しかったこともあった、そう、あったはずだ。懸命に記憶を探らなければ、すぐには思い出せなくなっている。幸せだった記憶の全てはこのよどんだ空気によってかき消されてしまった。
ステレオのボリュームをあげ、英次郎の声も気配も感じられないようにしながら寿美は茫然としていた。もちろん匂いだけは以前として部屋を満たし続けている。窓を開け放し、秋の冷たい風を部屋に導きいれたとしても、この匂いだけは消えることはない。
それでもいい。聴覚で嗅覚をごまかせるだけごまかしてしまいたいかった。
その時、聞こえるはずのないチャイムの音が聞こえた。
(まさか)
この音楽のなかで聞こえるはずがない。
気のせいだと心のなかで打ち消そうとした。だが、すぐにまたチャイムの音が聞こえてきた。今度はさっきよりもはっきりと頭のなかに響く感じがした。
誘われるように寿美は立ち上がった。そして、ふらふらと玄関に向かって歩いていく。またチャイムが聞こえる。あれだけボリュームをあげた音楽はもう聞こえていない。英次郎の声ももちろん聞こえていない。
聞こえてくるのはチャイムの音だけ。
寿美はレンズで外を確認しようともせずにドアを開けた。
〈男〉が立っていた。黒いコートを着込んだ異様な〈男〉。
4階に住む岡野由美が誰か捜していたことを思い出す。
(この人……)
だが、そんな疑問も一瞬のことだった。
「殺してしまえばいいじゃないか」
〈男〉の言葉を聞いた瞬間、身体のなかから全ての感情が消え去っていくのを感じた。
怒りも悲しみも虚しさも悩みも全てが消えていく。
そして――
(殺してしまえ……殺してしまえ……)
頭のなかで幾度となく繰り返されるその言葉。そう、これはあの時聞いた声。
(殺してしまえ)
そして、頭のなかには寿美が英次郎の首を力の限り締め続けている光景。
笑っている。私が笑っている。喜びに満ちた笑みを浮かべさらにその腕に力をこめる。これが私?
これは幻覚? 現実?
「いいや、これはあんたの夢の果て」
〈男〉の声が重く心のなかにこだましていた。




