記憶・8
野川が訪れたのはその日の夜だった。
ゆっくりと由美と伸一の顔を見比べ、野川はわざとらしく大きくため息をついた。
「本当にやめるつもりですか?」
その目は鋭く二人の表情を伺っている。
ソファには由美と伸一が奈美を挟んで座っている。
「はい」
はっきりと由美は答えた。その右手はしっかりと奈美の左手を握っている。
「もったいないと思いませんか?」
「いいえ――」
「夢だったんでしょう?」
畳み掛けるように野川は言った。
「確かに脚本家になることは若い頃からの夢でした。けど、それだけが私の夢ってわけじゃありませんから」
伸一ははっきりと答えた。もう迷いはなかった。
「奥さん、あなたはそれでいいんですか?」
野川は矛先を由美のほうに向けた。
「どういうことですか?」
「ご主人が今、夢を捨てようとしているんですよ。あなたやお子さんのために。あなたはご主人のことを愛していないんですか? 愛しているなら、夢を追うことを選ばせてあげてもいいんじゃありませんか?」
「私は主人を愛しています」
「だったら――」
「だからこそ罠にかかるようなことはしてほしくないんです」
「罠ですって?」
野川は驚いたような顔で由美を見つめた。
「あなたは本当に主人の力を認めているんですか?」
「認めていますよ。だからこそ仕事を依頼しているんでしょう?」
「そんなの嘘です」
「嘘? 何を根拠にそんなことを……」
「私の父も画家を目指していました。それがある日、突然自分の描いた絵を庭で燃やしたんです」
「急に何の話ですか。それは自分の力の無さに気づいただけでしょう? あなたのお父さんとご主人とは違いますよ」
「父は自分が夢を持っていてはいけないと考えたんです」
「どうして?」
「子供のためです」
「……子供?」
「私には双子の兄弟がいました。でも、その子は普通の子とは違っていました。普通の人間として外で暮らすことも出来ず、もちろん夢を持つことも許されませんでした。父はその子のために夢を捨てたんです。だから、絵を燃やしたんです。でも、私はそれが父にとって不幸なことだとは思いたくありません。父は家族を守るためにそうしたんです」
「……」
「あなたですよね。父を……そして琢磨を連れ去ったのは」
「何を言ってるんだか」
野川は口元をゆがめて笑った。「あなたの昔話に付き合ってる暇はありませんね」
「誤魔化さないで。あなたが誰なのか私にはわかってます。私たちを罠にかけようとしても無駄です」
その瞬間、野川の顔から笑みが消え、目に暗い光が灯った。
「きさま……」
野川の表情が明らかに変わった。まるで苦悶に満ちた目で由美を睨む。唇が捲りあがり、その顔の輪郭が崩れていく。頬の肉が腐っていくかのようにボトリと床に落ち、青白い炎に包まれ煙と化した。カーペットの焦げるような匂いが辺りを漂う。
その光景に、奈美が小さく悲鳴をあげた。
由美は息を飲み、ぎゅっと奈美の手を握る力を強めた。
周囲の空気が変わっていく。まるで空気が目には見えない大きな粒子となって、体を四方から押さえつけているような錯覚を受ける。
野川だった姿は見る間に形を変えていく。人間としての形は消え、ドロドロとした蝋の塊と変わり、くすんだ色の煙をあげている。そして、その塊は徐々に、別の形を作り始めていった。
それは由美がよく知る者の姿だった。
「夢喰……」
野川がマンションを訪ねてきたときから、それが〈男〉であることは予想していた。
黒のコートを着込み、帽子を深くかぶっている。そして、黒いサングラスの奥から人間のものとは思えない瞳が怪しい光を放っている。その視線はじっと由美と伸一を捕らえ、それから奈美へと注がれた。
ごくりと伸一が唾を飲みこんだ。伸一にもその姿ははっきりと見えている。
蛍光灯の光がパチンとはじけて消えた。
部屋を闇が包む。
〈男〉がゆっくりと奈美へ向け右手を差し出す。
「仕方ない。ならば、おまえの娘をもらっていくか」
「やめて!」
由美はそう叫んで立ち上がろうとした。だが、身体が動かない。そして、それは伸一も同じだった。
「さあ、立ち上がりなさい」
「……う……ううん……」
抵抗するように奈美は首を振った。その様子を見て〈男〉はせせら笑いながら言った。
「抗うつもりか? 無理無理。おまえにどれほどの力があるって言うんだ?」
それでも奈美は〈男〉の力に必死に抵抗しようとしている。
「さあ、立ち上がるんだ。おまえは俺とともに来るんだ」
「い……いゃ……」
「おまえは全てを捨てなければいけない。おまえの母親はおまえが消えることで夢に食い潰される。さあ!」
「い……い……いやぁぁぁぁ!」
あらん限りの力を振り絞るように奈美は叫んだ。その声が部屋に響く。
その声に驚いたように〈男〉は身をのけぞらせた。その声は由美と伸一の体の自由をも蘇らせた。
「奈美!」
由美は即座に奈美を引き寄せると〈男〉に奪い去れないようにきつく胸のなかに抱き締めた。伸一も由美と〈男〉の間に割って入る。
「純粋なるものの力ってことか」
奈美を見つめそう言った男の言葉には、まだ余裕があるように見えた。むしろ楽しんでいるようにも見える。
「きさま……!」
伸一の声も震えている。
「無駄無駄! おまえらがどんなにがんばったところでたかがしれている」
「消えろ! 奈美は渡さない!」
「ふん、夢という邪念に振り回された男が何を言うか」
あざ笑うかのように〈男〉は言った。
「な、何……」
「おまえの心のなかを覗いてみろ。嫉妬心だらけだ。おまえだけが取り残されていくことをずっと怖れていたのだろう」
「違う……違う……」
「どう違うって言うんだ。いつもおまえはこの女の絵を見て嘆いていた。違うか?」
「違うんだ! 俺はそんなつもりじゃ」
〈男〉の声が伸一の心のなかに飛び込んでくる。
「ダメ! そいつの話を聞いちゃだめよ!」
由美は叫んだ。〈男〉の言葉にどれほどの力があるのか由美は知っていた。〈男〉の言葉は耳ではなく、心の奥底に響いてくる。
「引っ込んでろ!」
〈男〉の一喝に由美は奈美を抱きしめたまま部屋の隅へ吹き飛ばされた。壁にぶつかり、そのまま床に落ちる。倒れながら伸一が頭を押さえ苦しんでいるのが見えた。
「俺は……俺は……」
〈男〉はさらに伸一に向かって語りかける。
「おまえは自分の夢に手が届かずにあっさりと諦めた。そして、同じように夢に向かって進んでいるその女を妬むようになった。おまえは夢に背を向けて歩いた人間だ。そして、おまえをそうさせたのはその女だ。さあ、おまえの全ての思いをその女にむけて吐き出すんだ。さあ」
〈男〉の言葉に、伸一は倒れている由美のほうへ視線を向けた。
「俺の……思い……」
その目が虚ろだった。夢を見ているような足取りで、ふらりふらりと由美に向かって歩きだす。
「伸一?」
立ち上がろうとしたが、身体が動かなかった。それが〈男〉の力のせいなのか、それとも恐怖のせいなのかわからない。ただ、じっと伸一が近付いてくるのを見ていることしか出来なかった。
伸一の視点が定まっていない。伸一は近づいてくるとゆっくりとしゃがみこみ、その手を倒れている由美の喉元に伸ばす。
「伸一!」
由美の呼びかけに、一瞬、ぴくりと伸一の動きが止まった。
「……俺は……」
伸一の顔が苦しみに歪む。だが――
「無駄だ! それがその男の本心だ。誰も自分の心に逆らうことなど出来はしない」
〈男〉の声が伸一の背に投げつけられる。「さあ、その女をおまえの手で仕留めろ!」
その声に促されるように再び伸一の指に力がこめられた。
「お父さん!」
由美の腕のなかから奈美が体を起こし、伸一の腕にすがった。それでも伸一の意識は戻らない。
――死ね! おまえが俺の夢をダメにしたんだ! おまえさえいなければ……
喉に食い込む指を伝わり、伸一の想いが頭のなかに響いてくる。
抗おうにも、身体が動かなかった。
(殺される……)
これが伸一の思いだったのだろうか。そのことが由美の頭のなかに渦めいていた。
「お父さん! やめて! お願い!」
奈美が必死に伸一にすがりついているのが見える。それでも伸一の力はまったく弱まることはない。
(このまま……死ぬの?)
意識がぼんやりと遠のいていく。
「これで終わりだ。おまえたちは皆、夢をつかめず消えていくんだ」
〈男〉の笑い声が頭のなかにこだましている。
死の気配が心のなかに広がっていく。
その時――
胸の周辺が熱くなるのを感じた。わずかに伸一の指の力が弱まる。
(これは……)
あの緑色に光る小さな石だった。
あの石が青白く輝き出している。その石の力に導かれるように、心のなかから呪縛が消えていく。
「いやぁぁぁぁ!」
呪縛から解かれるように一気に由美は叫んだ。
その叫び声に押されるように、伸一の身体が由美から弾かれるように離れると、力が抜けたように仰向けに倒れた。
体を押さえつけていた力が弱まっている。
「あなたの幻覚なんかに負けない!」
由美は気力を振り絞って立ち上がった。
そう、これは幻覚だ。伸一も幻覚の自分を見せられている。これは伸一の本当の思いなんかじゃない。
その石から輝き出る光が由美たちを包む。
「私はあなたなんかに負けない!」
由美は〈男〉に向かい、思いをぶつけるように叫んだ。
その声がその部屋に篭もっていた〈男〉の呪縛を解いた。
伸一もゆっくりと立ち上がる。その姿はさっきとはまったく違っていた。未だ苦しそうな表情ではあったが、その顔つきはしっかりとしている。
「由美……俺は……」
「わかってるわ。あなただって夢を捨てたわけじゃない」
「確かにおまえの夢を妬んだこともあった。でも、俺はおまえを誇りに思っているんだ。おまえたちこそが俺の夢だ!」
部屋の空気が変わってゆく。さっきまでの息苦しい空気が急速に和らいでいく。
「おぉぉぉ……なぜだ? なぜ……おまえがその石を持っている……?」
〈男〉の顔が歪んでいる。まるでその石に脅えているようだ。
(この石に脅えている? なぜ?)
理由はわからなかった。それでも、由美は石を〈男〉のほうへと向けた。石はまるで〈男〉の存在に反応するように更に輝きを増した。
「あなたは誰なの?」
「おぉぉ……」
石の放つ光に〈男〉が苦しげな声をあげる。
「あなたは何者なの? あなたのために琢磨も父も行方を消した。あなたの仕業なんでしょう? 二人をどこへやったの?」
「我はひとつの夢の形。光にもなれば闇にもなる。人間は夢に生きられなくなったとき、闇を呼び出し、そして落ちていく。それが我が存在」
その声がまるで男のうめき声のように聞こえてくる。
部屋の闇が消えてゆく。
由美はやっと気づいた。川辺洋子が〈男〉の手から逃れることが出来た理由を。
(洋子さんは本当の夢を見つけたんだ)
純粋な夢こそが、この〈男〉を跳ね除ける力なのだ。
「私はもうあなたを必要とはしない。あなたの闇を必要とはしない」
身体の一部が消え始めている。
「もうここにあなたの居場所はないわ!」
「……これで終わったわけではない」
石から放たれる光のために〈男〉の影は薄く消えはじめている。うめき声を発しながら、それでも〈男〉は言った。
「人間は夢とともに生きるものだ……憶えておくがいい……そして、人間はしょせん弱い。我は不滅の者だ。またいずれおまえの前に現われる……今のその思い……どこまで持ち続けられることか……その思いが消えたときおまえは闇に落ちる」
心のなかに響く声。
「あなたは一体何者なの? 私にとってどんな存在だというの? あなたが現れてそれからすぐに父さんは姿を消した。琢磨に何をしたの? 父さんに何をしたの?」
その時、男の影が大きく揺れた。
「我は……夢を追うもの……」
それが最後の言葉だった。
光に押し包まれ、細切れに砕け散るように〈男〉の身体は消え去っていった。
静寂が三人を包む。
石の光も消え、静かな自然な暗やみが戻ってきた。
「終わった……」
由美は思わずその場に座り込んだ。まだ、足が小刻みに震えている。
「お母さん」
奈美が由美の体に抱きついた。
「ありがとう。奈美のおかげよ」
奈美の体を抱きしめながら、伸一の顔を見つめる。
「何の力にもなれなかったな」
「ううん、ありがとう。あなたが私たちを守ってくれたのよ」
伸一は気恥ずかしそうに小さく笑った。
「あいつ、どうなったのかな」
風が吹き込んでくる窓の向こうの闇を見つめながらぽつりとつぶやく。
「どこかで……また夢を捜すんだわ」
そう、あの〈男〉は決して消え去ったわけじゃない。ただ、自分たちの前から姿を隠しただけに過ぎない。この世界のどこかで「夢」を見付け、それを喰らうために獲物を捜しているのだろう。
* * *
マンションの前には闇が広がり、深夜ということもあり人の姿は見当たらない。
肌をさすほど冷たい空気が闇を包んでいる。
その空気がかすかに揺らいだ。
闇がその部分に集まり始める。
その闇はしだいに人の姿を形作り、そしてやがて、そこにあの〈男〉が現れた。
〈男〉は顔をあげ、マンションを見上げた。
マンションの一室に明かりがついているのが見える。それはついさっき〈男〉がいた岡野由美の部屋だ。
〈男〉の目から涙が一粒頬を伝って落ちた。
(姉さん……)
あの石の力のせいだろうか。高村琢磨という名の人間であった時の記憶が蘇ってきている。あの石の光、あれは幼い頃に思った自らの夢。
その記憶が、その涙を作っていた。
――なぜ、ボクはここにいるの? どうして外に出ることが許されないの?
毎日、膨れ上がっていく疑問。
時々、病室を訪れてくれる父や母に何度も問いかける。その度、父も母も悲しそうな顔をして抱きしめてくれた。
――おまえの力は強すぎるんだ。全て私たちが悪いのだ。許してくれ。
父の言う意味は理解出来た。
自分のなかにある大きな力。それは自分でも感じている。時折、それを押さえることが出来なくなることもある。
それでも――
(どうしてボクだけが?)
その思いは強かった。
双子の姉がいるということは父から教えてもらった。姉にも自分と同じような力がある。ただ、それが自分ほど強くはない。
ほんの小さな力の強さの違い。それが同じ日に生まれた二人の運命を分けた。
誰も運命からは逃れることは出来ない。幼いながらもそれを理解しようとした。だが、理解は出来ても、心のなかではそれを受け入れることは出来なかった。
自らを呪った。
自らの力を呪った。
自ら存在を呪い、世界を呪い、己の夢を呪い。
力が自分に襲い掛かった時、自分は自分ではなくなった。そして、自らの存在を確立させるため、自らの力の源であった父を殺そうとした。だが、父はいち早くそのことに気付き、自らの命と引き換えに、<夢喰い>となった自分を封じた。
――一緒に行こう。おまえはこの世界では生きられないんだ。
長い眠りから目覚めた時、自分を惹きつけたのは父の力を受け継ぎながらも人間として幸せに暮らす姉の存在だった。
恨みではなかった。
もともと人間であった時の記憶など、ほとんど持ち合わせてはいなかった。
ただ、あの光のような力が羨ましかった。
〈男〉は視線を落としてつぶやき始めた。
「我は夢を追うもの……我は夢を追うもの……」
まるで自分に言い聞かせるように繰り返す。もはやこの運命から逃れることなど出来はしないのだ。
呟きとともに、人間であった記憶が薄らいでいく。
全て忘れなければいけないのだ。
「そう……我は夢を量り、夢を裁くもの」
ゆっくりと顔をあげる。その瞳には再び怪しい光が灯っていた。
「我は夢を追うもの……」
〈男〉の身体が再び、闇に溶け込んでいく。