記憶・6
翌朝、由美は奈美を連れて家を出た。
伸一はあれからずっと部屋に閉じこもったままだ。
もう一度話し合いたい。だが、今のままでは話は平行線を辿るだけだろう。
少し頭を冷やして考えたかった。
なぜ、こんなことになってしまったのか。もう一度ちゃんと自分なりに整理してみたいと思った。
新幹線に乗り一路実家へと向かう。
実家に帰るのも母が亡くなって以来のことだ。実家には弟夫婦が暮らしている。そう長い間泊まるわけにはいかないが、1泊や2泊なら喜んで迎えてくれることだろう。
秋田県能代市にある実家に着いたのは午前11時だった。
「どうしたんだよ。こんな急に」
浩也は驚いたように言った。それでもにこやかに由美たちを迎えてくれた。妻の雅子がお茶を差し出してくれた。
「よく来てくれました。お義母さんの葬儀の時以来ですもんねえ。もっと遊びに来てくださいよ」
雅子は妊娠7ヶ月、お腹もかなり大きくなってきている。
「母さんの部屋は片付いたの?」
「それが全然さ」
「全然? ずいぶん前に荷物送ってきたじゃないの」
「そりゃ母さんからのお告げがあったからな」
浩也は笑いながら言った。
「お告げ?」
「夢を見たんだそうですよ」
雅子が代わりに答えた。「枕元にお母さんが現れて、自分のアルバムや日記をお姉さんに送るようにって」
「本当? あの時はそんなこと言ってなかったじゃないの」
「なんか言いづらくてさ。それでも急いでアルバムと日記だけはダンボールに詰めて送ったんだ」
「じゃあ他の荷物は?」
「まだ押入れに詰まってるよ。一応、母さんの思い出の品だからな。なかなか捨てられないよ」
「見せてもらっていい?」
「いいけど……どうかしたのか?」
「うん。ちょっと気になることがあってね」
そう言うと由美は立ち上がった。
母の部屋は窓が西に面しているせいか、襖がかなり色あせている。由美はその襖に手をかけた。ガタついた襖を開けると、なかにダンボールがいくつも重なっているのが見えた。ダンボールには表に中身を示す紙が貼られている。そのほとんどが『衣服』だった。
その中の一つに由美の目が止まった。
どうということのないダンボール箱。それは他のものと変わったところなど何もない。それなのに由美はなぜかその箱のことが気になった。
吸い寄せられるようにその箱を押入れから取り出すと箱を塞いでいるガムテープを剥がす。
中には表に貼られていた紙の通り、母の衣服が押し込められていた。少し湿気たような防虫剤の匂い。だが、そのなかには明らかに母の香りが混じっている。
懐かしさにその一つ一つを取り出す。
ふと、その箱の一番奥に茶色くなった数枚の紙が押し込まれていることに気づいた。それを取り出し、由美は目を見張った。
『5月16日
由美と琢磨が生まれる。双子が生まれたことに先生までが驚いていた。
生まれるはずがなかった子。
きっと私たちに幸福を運んできてくれたに違いない』
あの日記だ。
おそらく切り取られた頁に違いない。この切り取られた頁は5月16日から始まっている。その中身はほぼあのノートのものと同じものだ。
(それじゃ――)
由美はすぐに次の日へ視線を向けた。そして、自分の予想が当たっていることを確信した。
『5月17日
琢磨の様子がおかしい。どこか普通の子と違っている』
『5月18日
琢磨を診てくれていた先生が突然死んだ。
いったい何が起きたというの?』
『5月19日
お父さんから琢磨を別室に移したと聞いた。
琢磨は自分と同じ力を持っているとお父さんが言っていた。
人の心を操り、命を奪う力。
お父さんが特殊な力を持っていることは知ったけど、本当にそんな力があの子にあるのだろうか』
『5月20日
お父さんから、琢磨は死んだことにすると言われた。
世間には出せないとお父さんは言う。
琢磨がかわいそう』
『5月21日
琢磨にはもう会えないの?
お父さんは何も答えてくれなかった。いつかまた会うことが出来たら……』
『5月22日
明日はいよいよ退院できる。
けど、琢磨のことだけは諦めなければならない。
琢磨は死んだことにしなければいけないとお父さんに言われた。
琢磨を連れて帰れないことが悲しい』
これではっきりした。
双子の兄弟として生まれた琢磨は亡くなったのではなかったのだ。
しかも――
『琢磨を診てくれていた先生が突然死んだ』
これは琢磨がやったということだろうか。生まれたばかりの子供に医者を殺すだけの力があるはずがない。いや、それでも琢磨が殺したに違いない。だからこそ、翌日になって父は琢磨を別室に移したのだ。
『琢磨は自分と同じ力を持っているとお父さんが言っていた』
父は穏やかな人だった。
どんなことがあっても決して怒るようなことはなかった。今思うと、あれはそういうふうに自分をコントロールしていたのかもしれない。
――人を憎んではいけない。憎しみはただの感情とは違うんだ。
父には普通の人間にはない特殊な力があったに違いない。そして、琢磨はその力を受け継いでしまった。だからこそ、父は琢磨を隠さなければいけなくなったのだ。そして、母も誰かに日記を見られた時のために一部分を破り、新たにさしさわりのない内容に中身を書き直したに違いない。
でも――
(こんなことが本当にあるの?)
自分の考えが間違っているとは思えない。それでも、あまりに現実離れしたその事実に由美は少し戸惑っていた。
それにいったい琢磨はどうなったのだろう。
(そうか……)
子供の頃のことを思い出す。
時々、両親二人で揃って出かけていくことがあった。そういう時はいつも帰ってくると母は少し寂しそうな表情をしていた。
あれは琢磨に会っていたのではないだろうか。
それならばあの日記に書かれた10年後の9月10日の記述にも繋がってくる。琢磨は9月10日に父さんたちの前から姿を消したのだ。そして、それから一週間後にあの〈男〉が姿を現した。
琢磨が消えたことにもきっとあの〈男〉が関わっているに違いない。
由美はすっくと立ち上がった。
確認しなければならない。
由美は居間に戻ると、ゴロリと寝そべってテレビを観ている浩也に声をかけた。
「浩也、あなたお母さんと知り合いだった病院の先生知ってる?」
「浦辺先生のこと?」
「そうそう。浦辺先生の家知ってる?」
「わかるよ。病院のすぐ裏。隣はコンビニになってる。前に酒屋だったとこだよ。でも急にどうしたんだよ? 浦辺先生ならもうとっくに病院辞めてるぜ。まだ生きてるかな? 生きてりゃもう70過ぎてるだろ」
「ちょっと教えて欲しいことがあるの」
「何?」
「ちょっとね。車借りていい?」
「電話すりゃいいだろ」
「直接会って話したいの。カギ貸して」
「ああ……」
浩也は起き上がると棚の上に置かれた車のキーを由美に手渡した。
「お母さん……」
奈美が心配そうな表情で由美を見上げる。
「すぐに帰ってくるから、待っててね」
そう言い残すと由美は急いで家を出た。そして、家の前に止められていた軽自動車に乗り込むとエンジンをかけ、アクセルを踏んだ。
* * *
浩也が言うように浦辺の家はすぐにわかった。
高校への通学路として何度も通った道だ。あの頃と町並みは変わり、当時の店も軒並み姿を変えている。
由美は家の前に車を停めると玄関のチャイムを押した。
しばらくして人の気配がしてドアが開いた。
「はい……どちらさま?」
由美と同じくらいの背丈の着物姿の老人が顔を出す。真っ白になった髪に顔に深く刻まれた皺。老眼鏡をかけ、ジッと由美の顔を見つめる。年は取っていても、どこか聡明な感じを受ける。それは幼い頃に何度か見たことのある顔だった。
「浦辺先生ですね?」
「はぁ……あんたは……」
そう言いながら浦辺は目を凝らした。そして――「おお、あんたひょっとして高村さんのとこのお嬢さんか?」
「由美です。ご無沙汰しています」
「久しぶりじゃなぁ」
浦辺は嬉しそうに笑い、軽く由美の肩を叩いた。「何年ぶりだろうな。いったいどうしたんだ? 確か……今は東京にいるんじゃなかったかな」
「先生に教えて欲しいことがありまして」
「私に?」
「先生に教えていただきたいことがあるんですが――」
「何だい? こんなところじゃなんだから、中に入らないか」
浦辺は由美に家のなかに入るように促した。
今は長男が病院を継ぎ、奥さんもまたそこで働いているため、日中、家には浦辺だけしかいないようだ。
それは由美にとっても都合が良かった。
「本当によく訪ねてきてくれたね」
由美を座敷に通すと、浦辺は嬉しそうにニコニコと笑いかけた。「それで私に聞きたいことっていうのは何だね?」
「教えていただきたいのは琢磨のことなんです」
「琢磨……って……」
浦辺の表情が変わった。
「私の双子の兄弟の琢磨のことです。母が私を産んだのは先生の病院ですよね。琢磨のことも知っていますよね?」
「あ……ああ……」
浦辺は困ったように小さく頷いた。
「生まれてすぐに死んだって聞いてますが……」
「そ、そうだよ。あの子は病弱だったから……かわいそうだったな」
浦辺の態度は明らかに嘘をついているように見えた。
「でも、本当はそうじゃなかったんでしょ?」
「な……何を……」
浦辺は忽ち落ち着きを失った。
「母の日記を見つけたんです。琢磨は死んだわけじゃなかったんですね。その後、琢磨がどうなったのか教えてください」
由美の言葉を聞き、浦辺はますます困惑した表情になった。
「由美ちゃん……どうして今頃になって……」
「お願いします。いったい何があったんですか? 大切なことなんです。教えてください」
由美は頭を下げ、懸命に訴えた。
真実を知らなければいけない。そうすることで今の状況を打開出来ると由美は信じていた。
浦辺は由美の言葉に押されるように一瞬押し黙ったが、やがて――
「君はお父さんのことも知っているのか?」
「父の力のことですか?」
「そうか……知っているのだね。なら話そう……あの子はかわいそうな子だった。父親の力を引き継いだのは良いものの、それを抑える術を知らなかったのだろう。あの子のために死んだ者もいた。わしは君のお父さんから頼まれてあの子を隔離した。わざと薬によって身体を弱らせた。そうしなければ力によって人を殺しかねなかったからだ。それでも何人もの看護婦や医師が危険な目にあった。私も殺されそうになったことがある」
浦辺は着物の襟元をわずかに開いて見せた。まるで指の跡がついたような形にくっきりとした痣が見えた。
「それは……」
「あの子に薬を投与しようとしてやられたものだ。未だに跡が残っている」
「琢磨はどうなったんですか?」
「あの子は10年もの間、病院の一室に閉じ込められ続けた。ところがある日突然姿を消した。煙のように忽然とだ」
浦辺は着物の襟を直しながら言った。
「いったいどこに?」
「わからんよ。ドアには鍵がかけられ、中から開けられるはずはなかった。だが、あの子は姿を消した。あの子の持つ特殊な力がそれをさせたのかもしれない。お父さんは毎日のように琢磨を探し回った。だが、見つけることは出来なかった。いや……ひょっとしたら見つけたのかもしれない。だからこそ君のお父さんもまた後を追うように姿を消してしまったのかもしれん」
「何か変わったようなことはなかったんですか?」
「変わったことか……あまり憶えてないな」
「本当に琢磨本人の力によって逃げ出したんでしょうか? 外部の人間が手を貸したってことは?」
「外部? まさか……あの子のことを知っていたのは極限られた関係者だけだ……ただ……」
浦辺は一度言葉を切り、記憶を手繰ろうとするように難しい顔をして腕を組んだ。
「何か?」
「……そういえば、その前の晩に看護婦が怪しい男を見たようなことは言っていたが――」
「怪しい男?」
「いや、それもはっきりはしないんだ。深夜に当直の看護婦が黒いコートを羽織った妙な男を院内で見たと言っていた。だが、あの子が行方を消したのは夏も終わったばかりの頃。そんなコートを着た人間なんぞいるはずがない。ただの錯覚じゃあないかという話になったんだが……」
あの〈男〉だ。
由美は確信していた。あの男が琢磨のもとにも現れたのだ。
「父が特殊な力を持っていたことは私も知っています。けど、具体的にそれはどんなものだったんでしょう?」
「それはわしにもよくわからない。だが、君のお父さんはこう言っていた。『念じることで人を操り、呪うことで人を殺すことも出来る』と」
「人を……」
背筋が寒くなり、由美は小さく身を震わせた。
「その後は私もどうなったのかはわからない」
「そうですか」
「しかし、なぜ急にそんなことを? 何かあったのかね? まさかあの子の行方がわかったのか?」
浦辺は少し脅えるような口調で訊いた。
「いえ……母の遺品の整理をしていてそのことに気づいたものですから」
由美は無理に笑って見せた。
浦辺にとって、琢磨の件はすでに過去のことだ。今更、あの〈男〉のことを話す必要もない。
由美は丁寧にお礼を言って、家を後にした。




