記憶・5
ここ数日、伸一は皆と一緒に夕食をとらなくなっていた。
いつもフラリと外出しては、一人で外で食事をしてくることが多い。今夜もまた、夕食の仕度が済む頃に、何も告げることなく部屋を出て行った。
いつものように奈美と二人だけで夕食を済ませると、由美はまた部屋に篭もり母の日記を調べ続けた。だが、5月20日を最後に琢磨の名前は一切見つけることは出来なかった。
不思議なのは父のことについても一切触れられていないことだ。その後の母の日記には毎日の事柄が、ただ淡々と書かれているだけだ。
母は何か大切な何かに気づいていたのかもしれない。今から思えば、父が失踪した時、母はそれほど慌てていたようにも思えなかった。
(どういうこと?)
もう一度5月16日近辺の日記を読み返す。ふと、そのノートが不自然なことに気が付いた。
5月16日から新しい頁に変わっているのだが、5月15日と5月16日の間には明らかに数枚に渡ってノートが切り取られた跡がある。
これはどういうことだろう。しかも、それまではたいしたことがない日でも必ず何かしら書き記してあったものが、5月17日から5月22日までの記述は何もない。
その時――
ふと、居間のほうから何が倒れるような物音が聞こえた。
由美はすぐに部屋を出た。
居間のソファの陰に誰かが倒れているのが見えた。
パジャマ姿の奈美だということはすぐにわかった。
「奈美!」
驚いて由美は奈美に駆け寄った。
「お母……さん」
奈美は苦しそうに由美を見上げた。
赤い顔。
そっと額に触れると、その熱が手に伝わってくる。
(いけない)
夕食の時もあまり元気がなかった。
最近はいつも元気がないことが多かったので気づかなかったが、きっと熱があったためだろう。
由美は奈美を抱き上げるとソファに寝かせ、すぐに部屋の隅にある受話器を掴んだ。そして左手で電話帳でかかり付けの藤倉医院の番号を探した。
一昨年、開業したばかりの若い先生で、これまでも何度か奈美が風邪をひいた時には見てもらっている。
すでに午後8時を過ぎている。それでも電話に出た藤倉医師は――
――では、これから連れて来てください。
と、いつものように柔らかい口調で言ってくれた。
仕度をしていると、いつの間にか伸一が帰ってきて奈美が倒れているのを覗き込んでいる。
「どうしたんだ?」
「熱があるみたいなの。今から藤倉先生のところで診てもらわないと」
だが、そんな由美の言葉にも伸一の態度はそっけなかった。
「そっか」
「ねえ、あなたも一緒に行ってくれない?」
すると途端に伸一は嫌な顔をした。
「俺が? おまえ一人で大丈夫だろ?」
「だって奈美を連れていかなきゃいけないのよ」
「だからって別に俺が行く必要はないじゃないか」
まるで迷惑そうな顔をして言う。
「私一人で奈美を抱きかかえていけっていうの?」
思わず口調が荒くなった。
「俺に突っかかるなよ」
「突っかかってなんていないわ」
「俺は仕事があるんだ。プロットもまだ完成していないんだぞ」
「奈美より仕事のほうが大切だって言うのね」
「そんなこと言ってないだろ」
「もういいわ!」
由美は部屋から奈美のコートを持ってくると、奈美を抱きかかえるようにしながら袖を通させた。そして、自らもコートを羽織ると、奈美を抱き上げた。
奈美は相変わらず苦しそうにハァハァと大きく息をしている。
その姿を伸一は何も言わずにボンヤリと眺めている。そんな伸一に怒りがこみ上げてきた。
「あなたがそんな酷い人だと思わなかったわ!」
由美は伸一にそう言うと、奈美を抱きしめながら部屋を出た。
* * *
(俺は何をしているんだ?)
伸一は相変わらずパソコンの前に座り、ぼんやりと奈美のことを思った。
自分で自分の気持ちがわからなかった。
なぜ、一緒に行こうと言ってやれなかったのだろう。
以前の自分ならば、どんなものよりも奈美を優先させていたことだろう。
(俺は変わったのか?)
一緒に着いて行くべきだった。伸一の心のなかにわずかに後悔の念が渦巻いていた。
どんなに仕事が忙しいからといっても、自分は奈美の父親なのだ。ついていって一緒にいてあげるべきだったのだ。
自責の念が涙を作った。
二時間後、由美に抱かれて帰宅した奈美はすっかりおとなしく眠っていた。顔が少しまだ赤かったが、それはまだ熱が残っているせいだろう。
「どうだった?」
ぶっきらぼうに伸一は由美の背に声をかけた。
「風邪だって。注射を打ってもらったからだいぶ熱も収まって楽になってるみたい」
由美はベッドに奈美を寝かせながら言った。
「そうか。良かったな」
だが、由美は伸一と目をあわせようとはしなかった。
「他人事なのね」
「別に他人事ってことはないけど……」
「あなたにとって大切なものって何なの?」
「何だよ、その言い方」
自分が悪いということはわかっているはずなのに、思わず口調がきつくなった。
「大きな声出さないで」
「おまえが喧嘩を売ってくるんだろう」
「出てって」
「え?」
「今日はもう何も言わないで」
由美は俯いたままで伸一の体を部屋の外へと押し出した。
「ああ……」
肯くしかなかった。
目の前でドアが閉まる。
まるで『おまえは父親失格だ』と言われているような気がしていた。
* * *
夢を見ていた。
父の姿。
再び、あの姿が思い出される。
絵を焼き捨てる父の顔。寂しそうな顔でじっと炎を見つめていた。
大切な父の絵。父の夢。
それが炎となって空に舞い上がっていく。
(どうして? どうして燃やしちゃうの? 父さんの夢なのに)
駆け寄る由美に父は言った。
――父さんの夢はこんなものじゃないんだ。それに父さんにはもっとやらなきゃいけないことがある。
はっとして顔をあげた。
目を覚ますとまだ未完成の絵が目の前に広がっている。
(疲れてるのかな)
由美はぼんやりと立ち上がり、部屋を出ると窓を眺めた。
奈美の風邪は翌日には完全に熱が下がり、二日過ぎた今日はすでに元気になって登校している。
外には雪がちらちらと舞っている。
伸一はいつものように野川との打ち合わせに出かけている。奈美が家にいる間は出来るだけ一緒にいてあげたい。先日のような、娘の体調にも気づいてあげられなかった自分が恥ずかしかった。
(それにしてもあの夢は?)
聞き覚えのある声だった。確か父が行方を消す数日前のことだ。
(父さんは何を言っていたんだろう)
由美は思い出そうとするように首を傾げた。だが、それが記憶から蘇ってくることはなかった。由美は深呼吸をするともう一度キャンパスへ向かおうと振り返った。そして、由美はそこに立つ男の姿に驚いて悲鳴をあげた。
「キャッ!」
すぐにそれが伸一であることに気づいた。伸一が居間の入り口に立ち、疲れたような表情で由美を見つめている。
「な――いつ帰ってきたの?」
思わず由美は時計に目をむけた。午後3時。もうすぐ奈美が帰ってくる時間だ。
「ついさっき……」
「打ち合わせは終わったの?」
「ああ……」
伸一はいつにも増して口数が少なく、由美を見つめた。その伸一の視線に由美は何か悪いことが近付いてきていることを感じ取った。
「どうしたの?」
由美が訊ねると伸一はどう言っていいのかわからなそうに口篭もっていたが、やがてぽつりと言った。
「ちょっと、話があるんだ」
「話?」
「うん……ちょっと」
そう言って伸一はソファに腰を下ろして由美を見た。「座ってくれないかな」
伸一に促されるままに由美はその正面に座った。耳の奥で誰かの笑い声が聞こえたような気がした。
伸一はすぐには話を切り出そうとはしなかった。
由美は奈美のことが気になっていた。こんな時間に伸一が帰ってきて話をするということは奈美に聞かれたくないことだからだろう。それなら奈美が帰ってくるまえに済ませてしまいたい。
「あの……話って何?」
促すように声をかけた。だが、伸一はちらりと視線を由美に投げただけですぐに目をそらした。
「うん……」
何か言いづらいことを言おうとしている。それが由美にも伝わってくる。
「打ち合わせはどうだったの? 野川さん、何て言ってた?」
沈んだ空気を振り払おうとするように由美は言った。
「もう一度、直すように言われたよ。ドラマも今季じゃなく、次のシーズンに持ち越すって……今回は別の人に回すそうだ」
「そう……厳しいのね」
「プロっていうのはそういう世界なんだ」
その声はどことなく寂しげだった。
「……あまり無理しないでね」
「無理しないわけにはいかない。これが俺の選んだ道なんだ。何がなんでも成功してみせるよ」
由美の言葉を跳ね除けるかのように伸一は言った。
「本当、こんなに忙しいなんて思わなかった。でもそのうち落ち着くわよ」
由美はわざと明るく振舞おうとした。
だが――
「俺たち、もう終わりにしないか」
冷めた目で伸一は由美を見つめた。
「え?」
その時、伸一が何を言ったのか由美にはわからなかった。
(終わり? 何を?)
伸一は視線を落とし、テーブルの上の雑誌を見つめている。伸一の目が暗い決意に満ちた光を放っていることが気になった。
「終わりって……何のこと? 仕事のこと? でも、何が何でも成功してみせるって……」
「仕事の話じゃないよ」
「伸一……」
「もう俺たち、だめだろ」
決定的な一言だった。それが何を示しているのか今度は由美にもはっきりとわかった。
さっきまでの不安感が何を意味していたのかを由美は知った。
「そ……そんな……なんで?」
「理由はわかっているだろう」
伸一は表情を固くしたまま冷たく突放した。「おまえだって今の俺には腹を立ててるはずだ。会社を辞めてもう一ヶ月だ。いつまで経ってもプロット一つ作れないんだからな」
「そんなこと私、気にしてなんてないわ」
「俺は嫌なんだ!」
突然、伸一が大声を出した。
「伸一……」
「夢を追いかけるなら何かを犠牲にしなきゃいけないものなんだよ。余計なものは全て捨てなきゃ夢は掴めないんだ!」
「私が……余計なものだって言うの?」
喉が渇き、ヒリヒリしている。
「今の俺にとって必要なのは仕事だけだ。他のものは全て余計なものだ」
「奈美のことは?」
「あの子も同じだ。君が引き取ってくれ」
雷に打たれたようなショックだった。奈美が生まれた時、伸一は小躍りして喜んでくれたものだ。毎日、会社から帰ってくると真っ先にベビーベッドのなかで眠る奈美の元に駆けつけた。
「酷いわ……あの子のことまでそんなふうに言うなんて」
「酷いかもしれない。けど、それが正直な気持ちなんだ。わかってくれ」
今、目の前にいるのは明らかに以前の伸一ではなかった。
自分が今何よりも大切なものを失おうとしていることがはっきりと感じられた。それでも由美は反論することも出来なかった。それほどまでに伸一の言葉は由美の心に深く突きささっていた。
「出来るだけ早く、ここから出て行ってくれ」
「どこに行けって言うの?」
「マンションでも借りるといい。困らないだけの金は渡すつもりだ」
「待って。やり直すことは出来ないの?」
「無理だよ」
そう言うと、伸一は由美の言葉を拒否するように立ち上がると、由美の顔を見ないようにしながら寝室へ入っていった。由美はその伸一の足音を聞きながら、これまでのことを思い出していた。