記憶・3
(なぜだろう?)
野川はディスクの上に置かれた岡野伸一の脚本を眺めながら、ぼんやりと考えこんでいた。すでに同僚たちは皆帰宅し、事務所には野川以外誰の姿も見えない。野川のディスクの上にある蛍光灯だけが煌々と灯りをともしている。薄暗くなった事務所のなかで野川はじっとその脚本を見つめ考えていた。
(なぜ、俺はこいつにこんなにも惹かれたんだ?)
もちろん、脚本として悪くはない。受賞させたことが大きな間違いだとは思っていない。
だが――
これが本当にベストな選択だったのだろうか。
これほどまでにこの作品にひかれた理由。それがわからない。
毎回、200点近い作品が送られてくる。なかには小学生レベルとも言える稚拙な作品も混じっているが、それでも多くの作品はレベルの高いものだ。受賞する作品とそうでない作品、その差はわずかなもので、最後は運に左右されるといってもいい。ただ、逆に言えば、この作品でなければいけないなどと感じるような作品がなかったという言い方も出来る。
これまで、野川は単なる賞を企画するだけの担当であり、審査そのものはほとんどを審査員まかせにしてきた。
誰が受賞しようとたいした違いじゃない。あとはどう商品化していくかを考えていくのが自分の仕事だ。と、思い続けてきた。
それなのに、なぜ?
審査員たちが押したのは北海道に住む17歳の女子高生、歌川公香の作品、『あの人からの手紙』だった。若く新鮮味ある十代の作品。彼女が受賞すればマスコミは大騒ぎするだろう。賞の知名度は大きくアップする。ヴィジュアル的にも大々的に売り出すことが可能な存在だった。
それに一人で反対したのが野川だった。
審査員たちを前に岡野伸一の作品を手に取り力説したときのことが思い出される。審査員達も野川の態度に驚きの表情を浮かべていた。
なぜ、これほどまでにこの作品だけにひかれたのだろう?
その自分の感情が未だに理解出来ないでいる。
(俺は間違っていたんじゃないか?)
今回の選考結果について、まだ世間には発表していない。今なら取り消すことも出来るかもしれない。
――おまえは間違ってなんていない。
ふいに頭のなかに声が響いた。
「誰だ?」
驚いて振り返る。そこに一人の男が立ち、野川を見下ろしていた。黒いコートを着た怪しげな男。
――俺はおまえの野心だ。
「何だって? いったいここで何をしているんだ?」
そう言って立ち上がろうとするのを、男は左手でグイと野川の頭を押さえ込んだ。その瞬間、頭のなかに強い衝撃が走った。
――おまえはずっと望んでいたはずだ。無名の新人を自分の手で見つけだすことを。そして、その手で一流に押し上げることを。
男の黒い指が次第の伸びてゆき、野川の頭をスッポリと包み込む。そして、その指が頭をギリギリと締め付けてくる。
まるで抵抗することが出来ない。
――確かにこれまでの奴らの多くもプロとして成功している。それでも所詮は2流、3流の奴らばかりだ。おまえの夢を叶えてくれる奴などいなかった。
「だが、彼女は――」
歌川公香の作品のことを思った。あの作品ならば……彼女ならば、きっと押しも押されもしない1流の脚本家に育ってくれることだろう。
――それは錯覚だ。
男の5本の指が野川の頭のなかにズブリと突き刺さり、血と透明な液体が交じり合ったものがトロトロと顔を伝って落ちてくる。そして、そこからまるで麻薬に犯されていくような甘美な感覚が交じり合った痛みが伝わってくる。
その感覚に野川は小さく声をあげた。
「ああ……」
くちゃりくちゃりと頭のなかで脳みそをかき回されるような音が聞こえている。
――おまえの夢はあの男が叶えてくれる。
「俺の夢……」
――叶えたいだろ?
意識が遠くなってくる。
「……ああ」
――なら、俺の言葉を聞け。俺の言うとおりに動けば良い。
「俺は……いったい……どうすれば?」
抗うことの出来ないその声に、野川の心は飲み込まれていった。
* * *
ひっきりなしに電話の音が聞こえている。
「お忙しそうですね」
慌てた様子で応接室に現われた野川に、伸一はソファから立ち上がると遠慮がちに声をかけた。
「いやぁ、お待たせして申し訳ありません。今が一ヶ月のなかで一番忙しい時期なんですよ。追込みですからね――どうぞ座ってください」
そう言って野川は伸一の前に腰を下ろした。伸一も再びソファに座り直す。
「すいません、そんな忙しい時にお邪魔してしまって」
「構いませんよ。気になさらないでください。ところで今日は?」
「先日のお話、お受けさせていただこうかと思いまして」
「本当ですか?」
野川はパッと表情を輝かせた。
「ええ、よろしくお願いいたします」
そう言って軽く頭を下げる。
「こちらこそ! いやぁ、嬉しいですねえ。奥さんも賛成してくれたんですか?」
その瞳の奥で何かが光ったような感じがしたが、伸一はそれにはまったく気づかなかった。
「……ええ。まあ会社を辞めることには心配していたようですけどね。けど、私にとってもこれが最初で最後のチャンスかもしれません。悔いの残らないよう、自分で思うようにやってみようと思いまして」
「そうですよ。もちろん岡野さんの作品は素晴らしいです。それでもチャンスというのはそう簡単にめぐってくるものじゃない。才能があってもチャンスに恵まれない人というのは多いものです。で? もう会社は辞められたんですか?」
「ええ、ここに来る前に会社によって辞表を出してきました。実際に退職するのは来月末ですが、有休が余ってるので後は引き継ぎ業務のために時々出社する程度で済みそうです」
伸一の言葉を聞き、野川はますます嬉しそうに頬を緩めた。
「そうですか。それじゃすぐに仕事に取り掛かれますね」
「ええ……あの、それで仕事というのは? それより先にこの前の脚本の手直しかなんか必要になるんでしょうか?」
「いえ、あの脚本はあのままドラマ化になると思います。これから配役等を決めなければいけないので、実際に撮影に入るのはもう少し先になりますけどね。その時にはぜひご覧に来てください」
「はい」
伸一は照れくさそうに頷いた。
「岡野さんにお願いしたいのは他の仕事です。今度、うちでゴールデン枠の連続ドラマを撮ることになりましてね。その脚本をお願いしたいんです」
「ゴールデン枠の連続ドラマ?」
思ってもいなかった話に伸一はゴクリと息を飲んだ。ゴールデン枠ともなればベテランの脚本家がズラリと並び、新人が起用されるようなことは皆無といっていい。
「驚かれましたか?」
「ええ……そりゃあ」
「それだけ岡野さんの才能を買っているということですよ」
野川はそう言って快活に笑った。
「はぁ……ありがとうございます」
「さっそく来週くらいから取り掛かれますか?」
「来週?」
急な展開に伸一は驚いた。
「そうです。ちょっと期間はあまりありませんが、とりあえず来週末までにいくつかプロットを作ってもらえませんか? 出来れば三つくらい」
その言葉に伸一は戸惑った。
「そんな早くですか?」
これまではほとんど時間を気にして執筆したことなどなかった。そもそも今回受賞した作品も5年前のもの。それを最後に執筆らしいことは何一つやっていない。
「時間がなくて大変かもしれませんが頑張ってみてください」
「でも……いったいどんなものを書いたらいいのか……」
「まぁプロになるっていうのはなかなか大変なことでして。それともやっぱだめですか?」
まるで試そうとするかのように伸一を見る。
ドキリとした。
夢が手のなかからするりと逃げてしまいそうな気がして伸一は慌てた。
「い、いえ……わかりました」
「夢のため。がんばってください。岡野さんなら大丈夫ですよ」
そう言った野川の言葉がなぜかやけにそらぞらしく聞こえた。
* * *
伸一が会社に辞表を提出し、その足で野川に今後のことを頼んできたということは、由美もその日のうちに聞かされた。
それから三日。
伸一は寝室を書斎へと変え、毎日のようにパソコンと睨みあっている。
だが、プロという気持ちがプレッシャーになっているのか筆が進んでる様子はなかった。若い頃にもよく脚本を書いている姿は見てきていたが、これほどまでに苦しそうな伸一の姿を見るのは初めてだった。その姿を見るたびに、本当にこのままプロの脚本家になることが正しいのかどうかわからなくなる。
午前2時。
由美は居間で隣の部屋で執筆を続ける伸一のことを気にかけていた。
(まだやってるのかしら)
時折、カタカタと荒くキーボードを叩く音が聞こえてくるところを見ると、伸一はまだ起きて作品と格闘しているのだろう。
すでに由美は寝室を奈美の部屋へと移している。先に寝て構わないとは伸一から言われているが、さすがに伸一のことが気になって寝ることが出来ない。
「お母さん」
振り返ると奈美が眠そうな目をこすりながら立っている。
「どうしたの?」
「お母さん、まだ寝ないの?」
「うん」
「お父さん、まだお仕事が終わらないの?」
「そうみたいね……」
「忙しいんだね。お休みの日も遊べないのかな?」
週末、遊園地に連れて行く約束をしていたが、おそらく伸一は忘れているだろう。
「ごめんね」
「お父さん、大変だね」
そう言って奈美はちょこんと由美の隣に腰を降ろした。
「そうだね。でも、お父さんもがんばってるみたいだし、応援してあげよう」
「いいよ、お父さんの夢だったんだもんね」
「そうだね」
「それじゃ毎日楽しいんだね」
どきりとした。今の伸一の姿は以前とはまるで違っている。確かに夢へは近づいているのかもしれない。だが、それが今の伸一にとって幸せと呼べるのだろうか。
「今は忙しいからね」
あいまいな答えだった。それは自分でもわかっていたけれど、そういう答え方しか出来なかった。
「お母さんも無理しちゃだめだからね。身体は大切にしなきゃ」
奈美はそう言うと立ち上がって居間から出ていった。
(今は忙しいから……)
さっき言った言葉が頭のなかで繰り返された。
(今は……本当に?)
忙しいのは今だけなんだろうか。プロの脚本家としてのんびりと楽しみながら執筆するなんてことが出来るのだろうか。
(これがあの人の夢?)
行き止まりの壁が見え隠れしているような気がした。




