介護人・2
あの男は誰だったろう。
岡野由美は部屋へ戻るとソファへ身体を預け、さっきの光景を思い出していた。
あの時、由美の頭のなかに浮かんだ光景……それは亡き父の姿だった。
(なぜ今ごろ父さんのことを?)
父は由美が10歳の時、突然行方知れずとなった。
いつも物静かで、優しい父親。
由美に絵を教えてくれたのも父だった。
父に何があったのか、そしてどこへ行ってしまったのか、それは今でもわからない。
幼い頃の憧れ、そして、自分にとっての夢の残骸。それが由美の記憶に残っている父の存在だった。
そんな父をなぜ思い出したのだろう。
由美たちの傍を通り過ぎていったあの〈男〉。
由美はあの〈男〉をどこかで見たような気がしていた。いや、もっと深くあの〈男〉のことを知っているような思いさえする。
(いつだったろう)
大学、高校、中学? それとももっと前だろうか。
それにみんなのあの表情は?
寿美、麻里、洋子、彼女たちはあの時、何を見たのだろう。いったい何をあんなに恐がっていたんだろう。
他の三人も由美と同じように何かを感じたのだろうか。彼女たちのあの時の表情。それは何かとてつもなく恐ろしいものを見たような顔だった。由美が見た父の光景とはまったく違うような気がした。
(彼女たちもあの男を知っているの? 聞いてみたほうがいいのかな……)
しかし、それをすぐに考え直した。自分もふくめ、皆このマンションに来て初めて知り合ったのだ。まだ知り合ってから一年ほどしか過ぎていない。このマンションの住人ならともかく、それ以外に共通の知人がいるとは思えない。それに自分以外の三人はまったくあの男のことなど見てもいなかったように思える。
あの一瞬の間に彼女たちはいったい何を見たのだろう。
ふと窓の外へ視線を向ける。
どんよりとした低い雲が空を覆い始めていた。
* * *
涙が止まらなかった。
寿美は部屋の灯りもつけないままソファにうずくまって泣き続けていた。すでに陽は落ち、真っ暗ななかで寿美の泣き声だけが聞こえている。
なぜ、今日はこれほどに涙がこぼれるのだろう。
結婚するまで、いや、英次郎がこのマンションに越してくるまで寿美は充実した毎日を送っていた。休日はもちろん、平日ですらほとんどの間、趣味や友人との遊興に時間を費やした。友人たちをこのマンションにも幾度となく招待したこともあった。綺麗な部屋で友人たちを招きお茶を飲む。それが何よりの寿美の楽しみの一つだった。けれど、今ではもうそんなことも出来るはずもない。もし、招待したところで誰もこんな汚れた部屋には来てはくれないだろう。
すでに午後8時半を回っているが、まだ武も信人も帰っては来ない。二人とも英次郎がこの家に来て以来、帰宅が遅くなった。
(なぜ、私ばかり――)
胸のなかにやるせない思いが積もっていく。
けれど、武はともかく信人のことを責めることは出来ない。寿美ですら何か理由さえあればこの部屋から少しでも遠くへ離れていたいと思う。信人がクラブ活動を理由に遅くまで帰ってこないのも理解出来る。
(今日こそゆっくりと話し合おう)
寿美の心のなかには一つの決意があった。
(このままの生活では私たち家族はだめになってしまう)
再び幸せな生活に戻るためには、英次郎にこの家から出ていってもらうしかない。それが寿美の出した答だった。
武はじき帰ってくることだろう。昼間のうちに今日は話しがあるから早く帰ってきて欲しいと電話をいれておいた。
(どう話せばわかってもらえるかしら)
寿美は何度も武に話すことを頭のなかで繰り返した。これまでも何度か武に英次郎のことを相談したことがあった。老人ホームへ入って欲しい。そうすることによってまた幸せな暮らしが返ってくると訴えた。しかし、武の答えはいつも「NO」だった。
――なんとかなるだろう。俺にとっては大切な親父なんだ。頼むよ
寿美は武を愛していた。その武からそう言われるとがんばってみようという気持ちになる。だが、それにも限界がある。もう我慢出来ない。どうがんばってみても、これ以上は耐えきれない。
ガチャリと鍵が開く音が聞こえた。
寿美は何かに弾かれたように立ち上がると早足で玄関へ向かっていった。ぐいと袖で涙を拭き、帰宅した武の顔を真っすぐに見据えた。
「おかえりなさい」
「いったいなんなんだよ」
鞄を寿美に預けながら、怒ったように武は言った。
武はすでに寿美が何を言おうとしているかをわかっているようだった。あの顔はそういう顔だ。それでも寿美は口を開いた。
「お義父さんのこと。ゆっくり話したいの」
「親父のこと? いったいなんだよ。なんかあったのか? まったく仕事中に電話なんかよこすなよ」
とぼけている。だが、寿美はカッとなりそうになるのを押さえた。
「ごめんなさい、でもちゃんと話したかったの。最近、あなた帰ってくるの遅いし」
「仕事で忙しいんだよ。なんだよ、電気くらいつけろよ」
武はどかどかと乱暴な歩き方で居間へ入ると灯りをつけた。武が上着を脱ぎ捨てソファにどっかと腰を落とすのを見てから、寿美もその正面に腰掛けた。
「お義父さんのこと、もう少しちゃんと考えて欲しいの」
「ちゃんと考えてるじゃないか」
視線をあわそうとはせずに、武はテーブルの上に置かれていた新聞を手に取った。またあやふやにしようとしているということがその態度から見て取れた。
「ちゃんとって、いったいどうちゃんと考えてるっていうのよ。あなたは毎日会社に行ってるからどんなに大変なのかわかっていないのよ」
「仕方ないじゃないか、俺が仕事行かずにどう生活しろって言うんだ? 俺が仕事せずにどうやって家族を支えていくっていうんだ?」
「そんなこと言ってないじゃないの」
「いい加減にしてくれよ。疲れてるんだ」
「疲れているのは私だって同じよ。毎日、毎日、お義父さんの世話に追われているのよ。こっちこそいい加減にして欲しいわ。ちゃんと話をしてよ!」
新聞を広げ、目をあわそうともしない武に腹をたて、寿美は新聞をひったくった。
「なんなんだよ……いったいどうして欲しいっていうんだ?」
眉間に皺をよせ、渋々といった様子で武が寿美のほうへ顔を向ける。
「老人ホームへ預けましょう」
寿美はわざと武の目を真っすぐに見据え、その重い一言を吐き出した。「いくつか調べてあるの」
そう言うとテーブルに置いておいた茶封筒のなかから、取り寄せておいた老人ホームのパンフレットを取り出し、武の手のなかに押し付けた。
「何言ってるんだ? くだらないこと言うなよ」
「だって――」
「前にも言ったろう。駄目だ!」
武は見ようともせずにテーブルにパンフレットを投げ出した。
「なぜ?」
「そんな金どこにあるっていうんだ? ただで親父を預かってくれるところがあるっていうのか?」
「お金ならなんとかなるわよ」
「どうなんとかなるって言うんだ?」
「貯金だって少しならあるし……」
「バカな奴だな。こういうところがどのくらい金がかかるか知ってて言ってるのか?」
武はフンと鼻で笑って言った。「それとも、金は天下のまわりものとでも言うのか? あいにく世の中ことわざ通りにはいかないんだよ」
「そんなのわかってるわよ」
「どうわかってるって? 働かなきゃ金は稼げないんだ。それとも俺にもっと働けっていうのか」
ネクタイをはずすとソファに放り投げる。
「私が働くわ!」
寿美も言い返した。
「なんだって?」
武の表情がますます不機嫌そうに変わる。
「お義父さんをホ-ムへ預ければ、私だって家にしばられなくて済むでしょ。そうすれば――」
「俺の稼ぎじゃ物足りないって言うのか」
「そうじゃないわ。でも、こういう時は夫婦で協力しないと――」
「わかってないな」
「え?」
「仕事なんて駄目だ」
「なんで?」
「結婚するときに言ったはずだ。俺はおまえを外に仕事に出すつもりはない」
確かにそれは憶えている。そのおかげで結婚してずっと仕事をすることもなく、主婦業に専念してきた。それは楽なこともあり、つらいことでもあった。だが、英次郎と一日中一緒にいるよりは外に出て働いたほうがよほど良い。
「だって――」
「おまえはそんなに親父の世話をするのが嫌だっていうのか?」
寿美の言葉を押さえ付けるように武は言った。
(嫌よ!)
心のなかで叫んでいる自分がいた。だが、それを言葉にするのは難しかった。
武にとって父は特別な存在だった。母親は幼い頃に死に別れ、大学に入学するまでずっと父と二人で生活していた。その頃の苦労話は結婚する前からよく聞かされたものだ。武にとっては、金の問題以上に父親のことは嫁が世話するのが当たり前だという概念が頭にあるのかもしれない。
「そんな……そんなこと言っていないでしょ」
小さな声だった。心にもないそんな声をやっと絞りだした。もちろん、さらに言葉を続けるつもりだった。なんとか武に納得させるためにも怒らせずに話を続けたかった。けれど、寿美は次の言葉を続けられなかった。
「だったらもうやめろ」
その冷たい一言が全てを打ち切ろうと寿美にぶつけられた。武はじろりと寿美を一度睨むとその視線を自分が買ってきたコンビニの袋に向け、そのなかから陶器製の芳香剤を取り出した。武もこの部屋の匂いには気付いているのだ。だからこそ時折、こんなふうに芳香剤を買って帰ってくる。
「ラベンダ-の香りだってさ。おまえ、ラベンダ-好きだったよな」
「そんなもの買ってきたって、この部屋の匂いが消えるわけないじゃないわ」
最後の抵抗だった。
しかし、その最後の抵抗も意味を持たないことを寿美は知っていた。次の瞬間、寿美は武の力強い右手によって自分の身体が大きく揺さぶられるのを感じていた。ソファに右手をつき、自らの体が倒れるのを堪える。だが、涙が溢れ出てくるのを堪えることは出来なかった。それは頬の痛みよりも、明日からのつらい毎日を想像してあふれてきた涙だった。
玄関のドアがガチャリと開き誰かが入ってくる音が聞こえていた。
足音から息子の信人だということはすぐにわかった。
信人は開いたドアの前で立ち止まると、ソファに顔を埋めて泣き続ける母とその母を睨み立ち尽くす父を見て「またかよ」とぽつりと洩らし、すぐに自分の部屋へと入っていった。
私の夢は……
自分の泣き声を聞きながら寿美は思った。
自由でいられること。誰にもしばられず、誰にも押さえ付けられることなく自由に生きること。
遠い夢の奥にあの〈男〉の姿が見え隠れしていた。