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夢喰い  作者: けせらせら
27/38

逃避・9

 眠れなかった。

 洋子はベッドのなか、じっと天井を見上げていた。真っ暗な天井が自分の人生を押しつぶしてしまうような感じがしていた。

(あれで良かったのかしら)

 洋子は今朝の事件のことで、和美はもちろん直子のことも問い詰めようとは思わなかった。言ったところでどうなるわけでもない。むしろ責めないことで彼女たちの気持ちが少しでも変わってくれればと願った。

 まだ、ほんの少し彼女たちと暮らしていけることに希望を持っているのかもしれない。

(バカね……諦めが悪いんだから)

 と、洋子は自分自身を笑った。

 もう今朝のことは忘れてしまおう。

――嫌なことは眠って忘れてしまえばいいのよ。

 幼い頃、亡き母がいつもそう言って眠るまで一緒にいてくれた。

 それなのになぜか眠れない。

 何かが気になっている。

(何が?)

 帰宅した時、和美は洋子が何も言い出さないことにほんの少し驚いた様子を見せていた。けれど、それは洋子にとって気になるようなことじゃない。

(眼? そうだ……直子ちゃんのあの眼……)

 和美がおどおどしたような様子で洋子の心をさぐろうとする一方、その隣に立つ直子はどこか冷めたような表情でじっと洋子を睨んでいた。あの冷たい眼が洋子に不安を与えたのだ。

(どうしてこんなに不安なんだろう)

 あれは7才の少女のする眼ではない。

 まるで何かが取りついたような、そんな感じまでしてくる。

 だが、次の瞬間、洋子の思考はキッチンからの大きな物音で妨げられた。

 その物音に洋子はベッドから飛び起き、すぐさま部屋を飛び出した。ドアを開けた瞬間、同じように部屋から飛び出してきた和美と眼があった。

 そして、第二の物音。それはさっきよりもさらに大きなものだった。二人は先を争うようにキッチンの扉を開けた。

 その光景に洋子は目を疑った。

 それは今朝以上の衝撃を洋子に与えた。

 床に散らばった食器の数々。ワイングラスもケトルも全てその本来の形を失い、床に散乱している。食器棚は扉を失い、耐震用に取り付けた金具までも引きちぎられ床に倒されている。そして、何よりも洋子にショックを与えたのはその散乱した状態のなかでにこやかに微笑んで立っているパジャマ姿の直子の存在だった。

「直……」

 洋子はもちろん和美も驚きを隠すことが出来なかった。

「お姉ちゃん」

 直子はにっこりと微笑むと、手に持った皿を力任せに床に叩きつけた。パシンという音とともに破片が飛び散る。

 その直子の姿はまるで悪魔に取りつかれているかのように二人の目には映った。

 もし、その場に由美か奈美がいたならば、直子の傍らに立つ男の姿を見ることが出来たかもしれない。だが、洋子にも和美の目にもそこには直子の姿しか映ってはいなかった。

「お姉ちゃんもやろうよ」

 直子は無邪気な笑顔を見せて言った。

「直子、もういいから!」

 耐えかねたように和美が叫んだ。

「どうして?」

「そんなことしちゃだめ!」

「どうして? この人を追い出すんでしょ。二人でいっしょに協力してこの人を追い出すんでしょ。どうして止めるの?」

 そう言うと直子はさらにコーヒーカップを掴み二人へ投げ付けた。カップはちょうど二人の間を通り抜け背後の壁に叩きつけられた。破片が洋子の頬をかすめ、小さな傷を作った。

「直子!」

「お姉ちゃんがいけないんだよ。迷ったりするから。お母さんとの約束だけを守ってこんな女を追い出せばいいんだよ」

「直子……あなたいったい――」

「もういい! もういいわ!」

 叫んだのは洋子だった。

 すでに洋子の心は限界だった。愛する夫を失い、和美に『妾』と呼ばれ、そして今、幼い直子にまで……

 もうここに残る理由は何も残っていなかった。

「……」

 直子にかける言葉が見つからず、和美は呆然と立ちすくんだ。直子を責めることは出来ない。何よりも自分こそが洋子をここまで追いつめたのだ。

「あなたたちがどう思っているかは知っていたわ。確かに私はあなたたちのために母親になろうとしたわけじゃない……私は……私は修一郎さんのためにあなたちの母親になりたかった。そうすることが私の努めだと思ってた……でも……でも……」

 あとは言葉にならなかった。

 洋子は自分の部屋へ飛び込むと、鍵を掛けすぐにここを出て行くための支度を始めた。ほとんど理性は働いていなかった。ただ頭のなかで誰かの悲鳴と泣き声がこだましていた。


   *   *   *


 洋子が叫んで部屋へ飛び込んだ後も和美は呆然と直子を見つめていた。

 何よりも直子の行動が想像を遥かに超えていた。

 何がどうなってしまったのか。和美には今、目の前で起きていることをまだ理解出来ずにいた。

(本当にこれは直子なの?)

 今朝のことも、そして今夜のこともこれまでの直子ではとても考えられない。いつも和美の背中に隠れ、真似ばかりしていた直子がやったこととはとても思えなかった。何よりこの現状はとても直子一人で出来るようなことではない。

「直子……あなたいったいどうしちゃったの?」

 楽しそうに食器を割り続ける直子の姿を見ながら、和美は声をかけた。

「何言ってるの?」

「本当にあなたがこんなことを?」

「どうしたのお姉ちゃんったら」

 そう言って直子はクスクスと小さく笑った。

「どうしたって――」

「ほら、もうすぐあの人が出ていくよ。私たちの思い通りになるんじゃない。これでお母さんとの約束だって果たせるでしょ」

 約束。

 本当に自分は母とそんな約束をしたんだろうか。

――直子を守ってあげて。

 確かに母はそう言った。

 でも、あれはこんなことを言ってたのだろうか。

 混乱する頭で和美は必死に考え続けた。


   *   *   *


 持てるだけの着替えをバッグに詰込んだ。他のものなど持っていく必要もない。出来るかぎり身軽にここからいなくなりたかった。

(私はあの子たちの母親じゃない)

 全てを忘れて、一からやり直そう。そう心のなかで誓う。

 あれから三十分、さすがに涙は渇いている。

 洋子は心を決めて部屋のドアを開けた。和美と直子の二人が戸口に立ち、洋子に視線を注いでいる。

 勝ち誇ったような笑顔で直子が見ているのが感じられた。

「あの……」

 和美が何かを言おうとしたが、洋子は聞こうとせずに二人の間を擦り抜け、玄関へ向かった。

 もういい。もうこれでおしまい。

 たとえどんなに嘲られてもここを出てしまえばそれでいい。

 洋子は心のなかで、そう呟きながら玄関口まで出ると一度だけ振り向いた。

 嬉しそうな直子の笑顔、そして……和美の顔だけが意外だった。どこか寂しげな、そして不安そうなその表情が洋子の心に引っ掛かった。

 だが――

(いや、もういい。もう考える必要なんかない)

 洋子は自分自身に言聞かせ、すぐに二人の顔から目をそむけると背を向けた。

 ドアを開け、ドアを閉める。

 背後でドアの閉まる音が聞こえた瞬間、ふっと肩の力が抜けてくるのを感じた。

(これで全てが終わったんだ)

 これでもう意地悪な継母という悪役の立場から逃れることが出来る。そう、少なくとも彼女たちにとって洋子はそういった存在だったのだろう。そして、彼女たちもまた救われることになる。あんな悪魔のようなことをしなくても済むはずだ。

 エレベーターに向かって歩き出す。

(和美ちゃんも直子ちゃんも本当は素直な良い子のはずよ)

 そう思った瞬間、直子のあの微笑みが思い出された。

 和美はまだ罪悪感を知っていた。知っていたからこそ洋子を追い出そうとすることで自分までが傷ついていた。だが、直子は……

 なぜ、直子は突然あんなことを始めたのだろう。

 エレベーターの前に立ち、ドアが開くのを待ちながら洋子は考えていた。


   *   *   *


「やったね!」

 直子の歓喜の声を聞いた瞬間、和美はその声にぞっとした。

(違う。こんなのは違う)

 今、目の前にいるのは直子じゃない。そのことがはっきりと感じられる。直子がこんなことをするはずがない。

「あなた誰なの?」

 洋子の出ていったドアに向かってガッツポーズをつくる直子の顔を見て、和美はおそるおそる声をかけた。

「え?」

 直子はゆっくりと振り返った。その目が冷たく光っている。直子は真っすぐに和美を見据えるとさらに言った。

「今、なんて言ったの?」

「あなた、直子じゃないでしょ。誰? 誰なの?」

「ふざけないでよ。お・ね・え・ちゃ・ん」

 体が震えた。生まれて初めて本当の恐怖というものがどういうものかを知った。さっきから背筋が寒く、首筋の毛が逆立っているのが感じられる。

(お母さん……お母さん)

 心の中で亡き母に和美は祈った。とにかく、今、この恐怖から逃れたかった。

「じゃあ直子、もうやめましょう」

 恐怖心を押え込みながら和美は話し掛けた。

「どういうこと?」

 直子の顔から笑みが消えた。

「あの人を追い出すのはやめましょう」

「今更、何言ってるの? あの人を追い出そうとしてたのはお姉ちゃんでしょ」

 直子は眉間に皺をよせた。それはとても幼い子供の表情とは思えなかった。

「え……ええ、でも今になってわかったの。そんなことしてもお母さんは喜ばないわ。あたし、呼んで来るから」

 そう言って和美は洋子の後を追おうとした。

 その時だった。

「待ちなさいよ」

 冷たく暗く重々しい声が背後から和美を呼び止めた。いや、それは呼び止めるなどというものではなかった。その声を聞いた時、和美の身体は金縛りにあったかのように固まってしまった。

「な、直子?」

「いい加減にしてよね。お母さんとの約束だったんじゃないの?」

 和美の背中に直子の声が投げかけられる。

「約束?」

「そう、お母さんがお姉ちゃんの手を握って言ったことを忘れたの?」

 脅迫するような低い声。

(違う、これはやっぱり直子じゃない)

 直子の言葉にはっきりと和美は確信した。

「忘れてないわ。でも、お母さんが言っていたのはあの人を追い出すってことじゃない。それにあれはお母さんとあたしが二人きりの時に言ったことよ。直子が知っているはずがないわ。いったいあなたは誰なの?」

 ありったけの勇気を振り絞り和美は振り返った。


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