逃避・8
やはりあの〈男〉は洋子のことを狙っている。
ついさっき由美は洋子の部屋を訪ね、洋子の様子を確認した。だが、それに対し洋子はまったく感心を示そうとしなかった。疲れたような目でぼんやりと宙を見据える洋子の姿に由美は不安を感じていた。
(あの状態は寿美さんが死ぬ前に会った時と似てる)
あの瞳。それは明らかに危険な状態を示している。だが、由美にはそれに対しどうすればいいのかがわからなかった。
(どうすれば助けられるの?)
どうすればいいのか考えながら、由美はエレベーターのボタンを押した。ほんの少し間をおいてから静かにエレベーターが昇ってくる。
その間にも由美はずっと洋子のことを考えていた。
(なぜ、急にあんなふうに変わってしまったの?)
つい先日まではあれほど疲れた様子ではなかった。いったいここ数日の間に何が起こったのだろう。それがわかれば何かわかるかもしれない。
誰に聞けば?
その時、エレベーターのドアが開いた。
一瞬早く、由美がエレベーターから出てくる和美たちに気がづいた。
「あら、お帰りなさい……」
和美も直子も、由美と洋子が仲の良い事は知っている。ちらりと由美の顔を見上げると和美は軽く頭を下げ、急ぎ足で通り過ぎようとした。
由美はすぐに振り返ると和美に声をかけた。
「――あ! 和美ちゃん、待って!」
由美は慌てて和美の肩を押さえ、呼び止めた。
「何です?」
「ちょっと洋子さんの……いえ、お母さんのことで教えて欲しいんだけど……」
「お母さん?」
その言葉に和美は嫌な顔をしたが、強いて言い返そうとはしなかった。
「ええ、ちょっとさっき和美ちゃんのお家にお邪魔してたんだけど……何かあった?」
「どうして? あの人何か言ってましたか?」
探るような目で和美は由美に聞き返した。
「いえ……ちょっと……疲れてるような感じがしたから」
和美が洋子のことを『あの人』と呼んだことに、由美はほんのちょっと戸惑っていた。洋子が後妻だということは由美も知っている。それでも母親のことを『あの人』と呼ぶのは違和感があった。
「さあ、わかりません」
何も言いたくなさそうな雰囲気で和美はすぐに背を向けようとした。
「あ、待って――」
由美はさらに追いすがった。洋子の疲れてる理由が子供たちにあるのでは、と直感的に感じたからだ。
「まだ何か?」
「和美ちゃん、さっき洋子さんのことを『あの人』って言ったわね」
「……ええ」
「どうして? ひょっとして和美ちゃん、洋子さんのこと嫌いなの?」
「いけませんか? だってあの人はあたしたちにとってはただの他人ですから」
きっぱりと和美は言い切った。
「確かにそうかもしれないわね。でも、今は一緒に暮らす家族でしょ」
「家族? 違います。あの人は家族なんかじゃありません。あたしたちにとってお母さんは一人で十分なんです。あの人は必要ないんです」
「そんなふうに洋子さんのことを嫌うのはどうかしら。亡くなったあなたたちのお父さんやお母さんが、そんなことを望んでいるとは思えないけど」
「そ……それは……」
父や母のことを言われ、思わず和美は口篭もった。
「今ね、洋子さん大変な時なの。うまくは言えないけど……とにかく二人とも洋子さんのことを助けてあげて欲しいの」
「でも――」
「何も無理して親子ごっこしてくれって頼んでるつもりはないのよ。でも、せっかく一緒に暮らしているんだもの。仲良くやっていけたほうが楽しいんじゃない。あんまり親子とか、形にこだわる必要ないと思うんだけど」
「……考えてみます」
和美は由美に対しそう言うとくるりと背を向け、直子の手をしっかりと握り締めたまま歩いて行った。
(あの子たちが変わってくれれば)
由美は祈る気持ちで和美たちの背を見送っていた。
* * *
――亡くなったお父さんやお母さんがそんなことを望んでいるとは思えないけど。
そう由美に言われた言葉がいつまでも耳に残っていた。
(そんなことわかってる――)
――つもりだった。
母は優しい人だった。決して家のなかで他人の悪口など言ったこともないし、和美が同級生の悪口を言うと、すぐに悲しい顔をした。なぜ、これほどまでに他人に優しく接することが出来るのかと、何度不思議に思ったことだろう。
もし、この場に母がいれば、きっと悲しい顔で和美を見ることだろう。
和美は部屋に戻り、じっと膝を抱えてこれからのことを考えていた。
(あたしがやっていることは、本当に直子を守ることになるの?)
ついさっきまでの決意が、由美の一言でグラグラと揺れていた。
帰ってきて居間のソファに座ってぼんやりと宙を見つめている洋子の後姿を見た時、和美は自分の心が躊躇していることに気がついた。
(あの人をいじめて何になるの?)
自分に問い掛ける。
「お姉ちゃん……どうしたの?」
直子のあどけない顔が、なおさら和美の心に突きささった。
(あたしはこの子を守ろうとしてたのに……)
だが、実際にやっているのは家のなかをボロボロにしているだけなのかもしれない、と和美は思った。
自分が何を求めているのか、どう進めばいいのか和美はわからなくなっていた。
* * *
ドアが開く音が聞こえたのは由美が部屋に戻って間もなくだった。由美はすぐにそれが奈美だということがわかった。
だが、いつもならすぐに聞こえる元気な声が聞こえてこない。
「奈美?」
由美は思わず声をかけた。
「……」
やっと聞き取れないほどの小さな声が玄関先から聞こえてきた。
「奈美?」
いつもと違う様子に、由美は玄関口へ急いだ。
不安が押し寄せていた。
奈美は玄関口に蹲り、自らの体を抱きすくめるような形で震えていた。真っ青な奈美の顔を見た時、何が起きたのかを心のどこかで悟っていた。
(あの〈男〉だ)
由美は奈美に駆け寄ると、その小さな体を抱きしめた。
「おかぁ……さん……」
絞りだすようなその声が、そして、その瞳が全てを物語っていた。由美に抱き締められると、奈美は恐怖に耐え切れなくなったように泣きだした。
「大丈夫、大丈夫よ。お母さんがついているからね」
「あの……あの男の人――」
奈美はそれでも涙を懸命に押さえながら言った。
「うん」
「お母さんが言っていた男の人……さっき……見た……」
「……」
「あの人……何なの? 怖いの! とっても怖いの!」
ぞくりと背筋が寒くなった。
奈美の気持ちが痛いほどわかった。そして、それと同時に〈男〉に対する怒りが心のなかで湧き上がってきた。
由美は奈美を抱き締めながら、早急に忘れてしまった子供の頃の記憶を呼び覚まさなければと改めて思うのだった。




