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夢喰い  作者: けせらせら
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逃避・6

 直子の姿を捜し、和美はいつもよりも早く家を出た。

 それが自分のせいだということは和美もわかっていた。

 母が死んでからはずっと和美が直子の面倒を見てきた。

――直子のことをお願いね。守ってあげて。

 死ぬ一週間前に病院のベッドのなか、痩せた手で和美の手を握り締めながら言った母の言葉を懸命に守り続けてきた。

(でも……これがお母さんのの求めた結果なの?)

 和美は困惑していた。

 洋子に対する自分の態度にこれまでは何の疑問も持たなかった。それが当然だと思っていたし、それこそが自分のとるべき道なのだと確信していた。しかし、今朝のことは洋子にとってはもちろん和美にとっても大きな衝撃だった。

(まさか、あの子があんなことするなんて)

 直子はこれまでいつも和美の背中にいた。そして、直接洋子を攻撃するのは和美の役割だった。その直子があんなことをするなど和美にはとても信じられなかったのだ。

 和美が出てくる時もまだ洋子は泣き続けていた。その姿はあまりに惨めで見ていられないものがあった。

 和美は急ぎ足で駅前の公園の前に来ると立ち止まり直子の姿を探した。いつも帰宅する時には直子はこの公園で和美の帰りを待っていた。そして、やはり朝日を浴びた木陰のベンチに直子の姿はあった。

 和美はぼんやりと座っている直子のもとへ急いだ。

「直子」

 和美に気づくと直子は顔をあげ笑顔を見せた。

「お姉ちゃん!」

 その笑顔に改めて今朝の犯人が直子であることを確信せざるをえなかった。

「直子……あなた――」

「あの人泣いてた?」

 その笑顔はあまりに残酷に見えた。

「……うん」

「本当はあの人が泣いてるところ見たかったんだけどさ。ちょっと恐かったんだ」

「……」

「でも、効果はあったんだね」

 直子はさも嬉しそうにはしゃぐ。その姿に和美は胸が痛んだ。

(あたしのせいだ……)

「ねえ、直子……」

「何?」

「直子はあんなことやらなくていいの」

「なんで?」

 驚いたように和美を見る直子の眼に、和美は胸が締め付けられるような気がした。

「だから……もう直子はあんなことしないで。お願い」

「どうして?」

「どうしてって――」

「だってお姉ちゃんだってやってるでしょ。あの人を追い出すんでしょ」

「――直子――」

「そうすればお母さんのためなんでしょ!」

 その言葉は和美にとって頭から冷水をかぶせられたようなものだった。

――お母さんのため

 自分のやってきたことは本当にお母さんのためなんだろうか。

「……直子、あの人を追い出すのはあたしがやるわ。直子は何もしなくていいの」

「でも――」

「いいの。直子があんなことしちゃだめなの」

 心のなかにある迷いを押さえ付けるように、静かに、だが強い口調で和美は言った。

「……」

 直子はなおも何か言いたそうな目で和美を見ていたが、和美の強い口調に仕方なさそうに小さく頷いた。


   *   *   *


 霧が全てを包んでいる。

 その霧のなか、由美は道を求めあたりをさ迷っていた。

 これが夢だということははっきりとわかっている。それなのに夢から逃れることが出来ない。

 由美はなおも霧のなかをさ迷い続けた。

 どこからか強い圧迫感を感じる。

(何なの?)

 由美は恐る恐るその圧迫感の感じる方向へと足を向けた。

 霧の向こうにうっすらと人影が見えてくる。

(誰?)

 そこに二人の男の姿があった。

 一人はあの〈男〉……そして、もう一人は……

(あれは……お父さん?)

 その光景には見覚えがあった。

 幼い頃、この光景は見たことがある。

 〈男〉をまっすぐに見つめる父の眼差し。

 〈男〉が笑っている。


 涙があふれていた。

 いつ眠ってしまったのだろう。

 洗濯機の音が止まっている。ほんの数分だけのつもりでキャンパスに向かったはずだったのだけれど……

 由美は時計を見て、それから目の前の絵を見て愕然とした。

 夢に見たその光景がはっきりと描きだされている。モノクロな、まるで墨絵のような世界。そのなかに描かれた二人の男。

 右手にはしっかりと絵筆が握られている。

(私が描いたの?)

 油絵の具で汚れたその手は、はっきりと目の前の作品が由美の手によってかかれたことを物語っていた。

 そして、その絵はゆっくりとではあるが由美の記憶を呼び戻そうとしているようだった。


   *   *   *


 さすがに仕事に出る気にはなれなかった。

 洋子は工場に電話をいれると、バケツに水を汲みゴム手袋をするとキッチンにうずくまった。

 このままでは駄目になる。

 幾度も吐きそうになるのを堪えながら、洋子はキッチンの床を磨きながらそう考えていた。

 どんなに努力しても、あの子たちは自分を認めようとはしないだろう。たとえあの子たち二人だけで生きてゆくことが出来ないにしても。

(それなら――)

 努力なんて意味がない。

――すまない、君にばかり苦労をかける。あの子たちを……頼む。

 洋子が駆け付けた時、すでに修一郎はほとんど意識も消えかかっていた。病院のベッドのなか、修一郎は必死に洋子に手を延ばした。あの修一郎の言葉を忘れてしまおうと洋子は目を閉じると頭を振った。

(私はこれまで十分努力したはずよ)

――そう、もう十分だ。あとは思い通りに行動すればいい。

 一瞬、頭のなかに声が過ぎった。

(誰?)

 上体を起こし辺りを見回す。

 誰もいるはずがない。そう、誰も……

 だが、その声はさらにしっかりと心の奥に染み込んでくるように聞こえてくる。

――思った通りに行動すればいいんだ。

(思った通り……)

 もし、今の生活を全て変えることが出来るならどんなにいいだろう。けれど、変えられるはずがない。

――なぜ?

(ここが私にとっての生活の場だから。そして、ここにはあの子たちがいる)

――それなら……

(それなら?)

 頭のなかに光が射し込むように何かが見える。それが何なのか洋子自身にはよくわからなかった。ただ、それがとても眩しく、とても理想的なものに見えた。

 それはほんの一瞬の出来事だった。

 すぐに現実が洋子の心を引き戻した。

 まだ掃除が終わりきっていない汚れたキッチンが視界に飛び込んでくる。そして再び嘔吐感に襲われる。

(いつまで続くのだろう……)

 そんなことを思いながら、洋子はまた床を研き始めた。ただ、心のなかでさっき見た光の向こう側の光景を思い出そうとしていた。


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