逃避・5
いったいどれほどの時間が過ぎただろう。
やがて、気持ちの落ち着きによって正常な思考が取り戻されてくる。
(何なの……いったい)
もう何もかもを捨てて逃げてしまえたらどんなに楽だろう。
汚れ、散らかったキッチンの真ん中にしゃがみこんだまま、洋子は茫然と辺りを見回した。
(いったい誰が……こんなことを)
そう一瞬思ったが、そんなことは考えるまでもない。
この家には自分と和美と直子の3人しかいないのだ。
これほどまで自分が和美に嫌われていたのかと、洋子は自分自身が嫌になってきた。昨日、帰ってきてからずっと和美は部屋に閉じこもって出てこようとしない。直子もやはり和美にくっついて出てこない。
(明日になれば――)
そう思っていたのだけれど……
ハッとして顔をあげ、壁に掛かった時計に視線を向けた。
午前七時。
和美たちはまだ眠っているだろうか。
(昨夜、ちゃんと話したほうが良かったのかしら)
ちらりと考えはしたものの、とても出来るような状態ではなかった。何より言ったところで聞いてくれるかどうか……。それこそ母親ぶるなと言われそうで恐かった。ここに来て以来和美とも直子ともまともに口をきいたことがない。修一郎が生きていた頃でも二人は決して洋子に笑顔を見せようとはしなかった。修一郎と笑顔で話している時でも洋子が輪のなかに入ろうとすると途端に冷たい視線を向ける。そんな時、いつも自分一人がとり残されたような淋しい気持ちになった。
修一郎も和美たちには何も言わなかった。
――もうしばらく我慢してくれないか。いつかきっとあの子たちだってわかってくれると思うんだ。
いつも修一郎はそう言って洋子を慰めようとした。
(いつか……)
そんな日が決して来ないことを洋子はあの頃から覚悟していた。けれど、修一郎が死んだ今になってまで、なぜ、それでも我慢しなければいけないのだろう。家政婦のように扱われ、無視され、嫌われ、そして――
つぶれたトマトの汁がキッチンの床をうっすらと赤く染めている。
何から片付けたらいいのだろう、と洋子はキッチンを改めて見回した。
(ひどすぎる……)
その光景にあまりに自分自身が惨めに思えてくる。
(なぜ、私がこんな目にあわなきゃいけないの?)
それは怒りと淋しさが入り交じった感情だった。洋子は立ち上がるとキッチンに背をむけて子供たちの部屋へ向かった。
このドアの向こうで洋子を嘲笑っているのだろうか。
ドンドンとドアを叩く。
ほんの少し間があってドアが開いた。
「なんなの?」
眠そうな顔で和美がドアを開けた。
「どうして……どうしてあんなことするの?」
悔しさと惨めさで再び涙があふれだした。
「え? 何言ってんのよ……」
まるで何のことかわからないというような表情で和美は聞き返した。
「ど……どうして……あんなこと……」
「昨日のことならもういいじゃないの。今頃何言ってるのよ」
「とぼけるの? 私のことを嫌いなのはわかるけど……でも……でも……」
「え? あたしが何したって――」
そう言い掛けて和美ははっとしたように部屋を見回した。そして、直子の姿がないことを確認すると部屋を飛び出した。すぐさまキッチンのドアを開け、驚いたように立ちすくんだ。その驚きを隠せないようなその表情に洋子はとまどった。
(違う……? 和美ちゃんじゃない)
それは軽い衝撃だった。
やったのが和美でなければ、残るは一人しかいない。
いつも和美の陰に隠れていた直子がこんなことをするなど予想していなかった。もちろん直子も自分のことを嫌っていることは感じていた。けれど、まさか直子がこんな行動に出るなど考えられなかったのだ。
そして、それは和美も同じだった。
和美は驚いたようにキッチンを見回し、それから洋子へと一瞬視線を移したが、すぐに避けるように顔をそむけた。
「これって――」
洋子はおそるおそる声をかけた。それが和美のやったことではないことは、すでに明らかだった。しかし、それに反発するように和美は口を挟んだ。
「あたしがやったの!」
そう言いながらも和美は洋子の顔をまともには見ようとしていなかった。
「でも――」
「あたしがやったの! それでいいでしょ」
和美は明らかに直子をかばっていた。いや、かばうことなど出来ないことも和美にはわかっていた。だが、このまま直子がやったことにしておきたくはなかったのだ。その気持ちは洋子にも伝わった。
「……」
洋子は言葉につまった。
責めてみてもしょうがない。問い詰めることが出来たとしても、それで彼女たちの気持ちを変えることが出来るわけじゃない。
和美に疎まれ、そして直子にまでこれほど嫌われている。そんな自分が今はただ情けなかった。
* * *
「どういうことなんだよ」
朝食のテーブルにつくとともにぶっきらぼうに伸一が言った。
「どういうことって?」
「決まってるだろ。奈美のことだよ」
ほんの少し伸一は眠っている奈美に聞こえないように声のトーンを落とした。
「何が?」
「おまえ、昨夜のこと憶えてないのか? あんなふうに泣くなんてかわいそうだと思わないっていうのか?」
伸一の目は明らかに由美を責めていた。
「そんなこと言ったってどうしろって言うの? 私に責任があるって言うつもり?」
「おまえに責任がないなら誰にあるんだ? おまえの親父さんの話だっておまえがしたんだろ。それにあの男ってなんだよ」
「ゆ、夢でしょ」
まだあの〈男〉のことを伸一に話すのは抵抗があった。あの〈男〉の存在を伸一は信じてくれるだろうか。
「たとえそれが夢だとしても、そんな男のことを夢にまで見て子供が泣くか? おまえが何か奈美に吹き込んだんじゃないのか?」
「何言ってるの――」
「おまえ、最近おかしくないか?」
どきりとする一言だった。
「ど、どういうこと?」
「管理人のおじさんに聞いたんだ。おまえが変な男を探してるってな。いったいなんなんだよ、そいつは」
「……」
「言えないのか?」
「あなたは信じてくれないわよ」
「なんだと?」
「その男の話をしたってあなたは信じてくれないわ。きっと私の妄想や空想の産物だって笑うに決まっているもの」
「空想の産物? そんな馬鹿な話で奈美を怖がらせたのか? 奈美に馬鹿馬鹿しいことを吹き込むのはやめろ!」
「だって――」
「お母さん!」
突然、ドアが開き奈美が顔を出した。すでに学校へ行く支度を済ませている。
「奈美……」
「やめてお母さん……喧嘩しないで……私、大丈夫だから」
その大きな瞳に涙が溜まっている。
「大丈夫よ奈美、べつに喧嘩してるわけじゃないの」
由美は奈美に近付くとそっと抱き締めた。
「ねえ、お父さんも聞いて」
「なんだい?」
さすがに伸一も奈美には声を和らげる。
「私、昨夜、本当におじいちゃんとお話したんだよ」
「奈美……」
「あれはただの夢なんかじゃない」
「……」
「おじいちゃん、黒いおじさんがやってくるって言ってた。そのおじさんがきっと私たちのこと迎えに来るって言ってた。でも、私行きたくない。そのおじさんって悪い人なんでしょ」
「大丈夫、大丈夫よ。奈美のことはお母さんとお父さんがちゃんと守ってあげる」
由美は非難の篭もった伸一の視線を背中に感じながら、奈美を抱き締める腕にぎゅっと力をこめた。




