逃避・4
泣き声が聞こえる。
(誰?)
夢うつつの状態で由美はぼんやりとその声の主を探した。
夢のなかの誰か? 違う……それじゃ誰?
そう考え、由美は改めてはっとして飛び起きた。
「奈美?」
その啜り泣くような泣き声は明らかに隣の部屋から聞こえてくる。
「な……なんだ?」
さすがに伸一も眠りを妨げられたように、不機嫌な声を出す。その声よりも早く由美はベッドから出ると、隣の部屋へと飛び込んだ。
「奈美! どうしたの?」
奈美は由美が近付くと耐えかねたように由美の胸へと飛び込み、声をあげて泣きだした。
「お母さん……お母さん!」
「どうしたの? 奈美?」
「……ぁだ!」
「え?」
「行っちゃ……やぁだ!」
決して由美を離すまいとするかのように奈美は由美の身体にすがりついた。
「なに? どうしたの? お母さん、どこにも行かないよ」
「だ……だって、さっきおじいちゃんが――」
やっと少しずつ奈美は涙を押さえ話はじめた。
「おじいちゃん?」
「そう、お母さんのお父さん……」
奈美の言葉に由美はどきりとした。由美の父は由美がまだ奈美くらいの年令の頃に死んでいる。写真もほとんど残っていないため奈美は由美の父を知るはずがない。
「お母さんのって……奈美、知らないでしょ」
「うん……でもおじいちゃんが自分で言ったよ。自分は『奈美のおじいちゃんだ』って、そう言ったの」
「……」
「それで、『お母さんがあの男に連れて行かれないように奈美が守ってあげなさい』って」
心臓が止まりそうだった。
父のこともそして、あの〈男〉のことも奈美には一言も話してはいない。それなのにいったいなぜこの子は知っているのだろう。
「夢だよ」
いつの間に背後に来ていた伸一がそっと奈美の髪を撫でながらつぶやいた。奈美は疑うような目で伸一を見返している。
(本当に?)
その目はそう語っている。そして、その気持ちは由美も同じだった。
「きっと昼間に恐いテレビでも見たんじゃないのか?」
「ううん、そんなことない」
「それじゃ、お母さんに恐い話でもされたのかな?」
「ううん」
なおも奈美は首を振る。
「それじゃ……まあ、なんでもいいや。とにかく奈美は悪い夢を見たんだ。そんな夢は早く忘れてしまいなさい」
伸一の言葉に奈美はちらりと由美に視線を送り、それから小さく頷いた。その姿はあまりに大人びて見え、由美がどきりとするほどだった。
(この子は知っている。伸一さんが理解するはずがないことを知っている。だからこそあえて言い返そうとはしなかった)
おそらく夢のなかのことも、そしてあの〈男〉のこともうすうす感付いているのではないだろうか。そう、少なくともあの〈男〉が危険な存在だということはわかっている。
由美は奈美に対し何も言ってあげることが出来なかった。
母の日記は少しずつ読み続けている。
日記はそれほど詳細ではなかったが、毎日の出来事が端的に書かれていた。
まだあの〈男〉のことについての記述は何も見つけることは出来ない。それでも必ず自らの記憶のなかに隠されている鍵を見つけることが出来ると信じている。
(それまで待っていて)
由美はそっと毛布を奈美の身体にかけると、悪い夢を見ないように祈りながらしっかりとその手を握りしめた。
* * *
何かが洋子の眠りを妨げた。
瞼を開けると、顔を上げて枕もとの目覚まし時計に目を向ける。
午前5時。
いつもならまだ目覚めるような時間じゃない。
洋子は再び、目を閉じて眠ろうとした。だが、すぐにまた目を開けた。
(誰……?)
キッチンのほうから何か物音が聞こえたような気がする。
洋子はベッドから起きると、そっと部屋を出た。
薄暗い廊下を灯りも点けないまま進んでいく。
キッチンのドアの前まで来た時、ゾクリと背筋を何かが這うような感覚が走り、洋子は思わず足を止めた。
まるでこのドアを開けることを体が拒否しているかのようだ。
本能が何かを感じ取っている。だが、それが何なのかはわからない。
ほんの少し、迷ってから洋子はドアに手をかけた。
ドアを一気に開けた瞬間、何かが飛んできて洋子の頬に当たった。
(何?)
一瞬、それが何なのかわからなかった。
まだ薄暗いキッチンに洋子は目を凝らした。
あちらこちらからカサカサと何かが動くような音が聞こえてくる。
(何? 何なの?)
全身の毛が逆立ってくる。
それでも恐々壁のスイッチに手を伸ばす。その指先が何かに触れた。小さな棘のあるような妙な感触。
思わず洋子は手を引っ込めた。
足が震える。
勇気を奮い起こし、洋子は再び壁に手を這わせた。今度は何にも触れることなく、スイッチに指が届いた。
ホッとしてスイッチをいれる。
灯りがキッチンを灯す。
その光景に洋子は息を飲んだ。叫び声をあげることさえ出来なかった。
冷蔵庫のなかのものは全て引っ張り出され、そこにソースやマヨネーズが足の踏み場もないほど撒き散らかされている。
そして、キッチン全体に無数の黒い小さな塊が蠢いている。ゴソゴソ、ゴソゴソとキッチンの床や壁を、何十……何百のゴキブリが這いまわっている。
「あ……ああ……」
足が竦む。
全身に鳥肌が立ち、今にも逃げ出したくなる衝動に駆られた。
だが――
その瞬間、洋子の目に一つのものが飛び込んできた。床に転がったコーヒーカップ。そのなかにまでゴキブリが溢れている。それは生前、修一郎が愛用していたものだ。
洋子は唇を噛んだ。
(負けるもんか!)
洋子は窓に走り寄った。途中、足の下でグシャリとゴキブリが潰れる感触が伝わってきたが、今はそんな小さなことに構っている場合じゃない。
窓を開けると、部屋の隅に置かれた棚の脇にかけられていた箒を握り振り回す。
床や壁を這っていたゴキブリたちが一斉に飛び立ち、洋子のほうへ向かってきた。
「キャァァァ!」
さすがに洋子も悲鳴をあげた。それでも瞼を閉じ、下を俯いたままで箒を振り回す。何も考えてなどいられなかった。ただ、修一郎のことだけを考えていた。あの人のために、今、こんなことで逃げ出したりしちゃいけない。
箒が床を叩き、壁を殴る。
倒れた椅子に脛をぶつけ、床に撒かれたマヨネーズでズルリと滑りそうなっても、洋子は休むことなく箒を振り回した。
やがて……息が切れ、洋子はガクリと膝をついた。
洋子は肩で息をしながら、ゆっくりと瞼を開けた。
そこにゴキブリの姿はなかった。まるでさっきの光景が嘘のようにゴキブリは消えていた。
(あれは……)
ただの幻覚だったんだろうか。
ただ、散らかったキッチンだけが目の前に広がっていた。
洋子は呆然としたままその場にしゃがみ込んでいた。