逃避・3
和美は決して口を開こうとはしなかった。
帰りの電車のなかでも、帰ってきた後も洋子に謝るどころか悪いことをしたという自覚すらないように見える。
洋子も強いて和美に対して何も言うことが出来なかった。
――私からちゃんと言ってきかせますから。
自分が言った言葉を思い出して可笑しくさえなる。
(あの事務員が言ったように私が何か言ったところで聞くはずがない)
そのことは洋子にもよくわかっていた。
それなのに――
(どうしてあんな不様なことをしてまで守ってあげたいと思ったんだろう)
思ったというのは間違った考えかもしれない。あの時は何も考えはしなかった。ただ、事務員の行動を止めなければいけないと本能的に身体が動いたのだ。
和美が言ったように母親ぶろうとしているのかもしれない。
(もう何もかも嫌になりそう……)
洋子は目を閉じ、バタリとソファに倒れこんだ。涙が後から後から零れて止まらなかった。
和美の言葉が頭のなかで渦めいている。
――あんたは黙ってて!
『あんた』と呼ばれたことがこれほどまでショックだとは自分でも思わなかった。これまでだって、別段あの子たちの母親になりたいと切望したことはなかった。修一郎を愛しただけ、その修一郎に子供がいただけ。それだけのことだったはずなのに。
(私、あの子たちの母親になりたかったの?)
ヘンデルとグレーテル……
青い鳥……
母親が子供を捨てるお話はなんだったろう?
子供の頃は童話の一つ一つを全て憶えていたのに。
(今の私は童話に出てくる意地悪な継母みたい)
* * *
いつものように部屋に閉じ篭っていた。
洋子が自分の言葉にショックを受けていることを和美は知っていた。そして、その姿は和美が望んだ通りのものだった。万引きをしたのも、捕まったのも、洋子が呼び出されることも全て計画通りのものだった。
それなのになぜこんなに後味が悪いんだろう。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
事情を知らない直子が和美の顔を覗き込む。
「なんでもない」
いつだって直子は和美の真似をする。だから今日のことだけは直子には教えたくなかった。洋子を傷つけるためにやったことだけれど、直子までが万引きで捕まるようなことにはしたくなかった。
「なんかあったの?」
「べつに……」
「あの人泣いてたよ」
「……」
「さっきこっそり覗いてみたんだ。ソファに倒れて泣いてた」
直子は嬉しそうに言った。洋子を苛めることが正しいことと信じ込んでいる。
「そう……」
それにしても――
――お願いします! お願いします!
あそこまでして洋子が自分を守ろうとするとは思っていなかった。
(なぜ?)
洋子が父の妻となってから、ずっと和美は洋子を無視しつづけてきた。直子も和美の真似をした。決して洋子に大切に思われるような存在ではなかった。それは和美もはっきりとわかっていた。
(それじゃどうしてあんなふうに頭を下げられるの?)
和美には不思議でならなかった。
和美は初めから洋子を嫌いというわけではなかった。もし、立場がもっと違うものだったなら、むしろ仲良くなっていたかもしれない。けれど、この場合の立場は二人にとって最悪のものだった。
――今度、新しいお母さんがくるんだ。
父の修一郎にそう言われた時、和美は何を言われたのかわからなかった。そして、次の瞬間にはそれを冗談だと信じ疑わなかった。それほどまでに和美の頭のなかには亡き母の記憶がまだ鮮やかに残っていたのだ。しかし、その週の日曜日、修一郎は洋子を和美たちに引き合わせた。
(どうして……どうしてなの?)
驚きに何も言えなくなっている和美の前で父は笑顔で洋子に自分たちを紹介した。そう、笑顔で……
その笑顔は和美の心に深い傷となった。
(お父さんはもうお母さんのことを忘れている)
もちろん、母の死は洋子のせいではないし、父が結婚することに特に反対するつもりはない。ただ、自分だけは決して亡き母親のことを忘れるものかと決意したのだ。
それでもまだ修一郎が生きている間は問題はなかった。
(この人はお父さんの奥さん。私とは何の関係はない)
そう割り切ることで父に対するいらだちも全て押さえることが出来た。しかし、その修一郎が死に、和美の洋子に対する気持ちは明らかに変わってきた。
(なぜ、この人がここにいるの? 母でもなく、父もいなくなり、なぜこの人だけがここで私と一緒にいなければいけないの?)
そして、その気持ちはいつしか洋子を追い出さなければいけないという義務感へと変わってきたのだった。それは洋子を無視することから始まり、ついに自分が罪を犯すことで洋子を追い詰めるというところまでやってきたのだ。
けれど――
和美は洋子があんなふうに頭を下げるとは思っていなかったのだ。
――こんなところで母親ぶらないで!
なぜ、あんなひどいことが平気で言えるんだろう。自分でも不思議だった。
(もし、あたしがあの人を認めたら?)
けれど、そんな『もし』は何の意味も持たない。あたしは決してあの人を認めない。そう、それがあたしに課せられた使命なのだから。




