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夢喰い  作者: けせらせら
20/38

逃避・2

「これ、お母さんの描いた絵なの?」

 古いスケッチブックを開き、奈美は興味深げに聞いた。

「ええ、そうよ。お母さんが子供の頃に描いたの」

「子供の頃? 奈美くらいで?」

「そうね、その絵なんかは奈美の歳の頃に描いたものかしらね」

 裁縫をする母とその傍で丸くなった猫の姿が描かれている。あれはいつだったろう。この頃にはもう父はいなかったかもしれない。

 子供の頃、日記を書く習慣はなかったが、ほぼ毎日のようにスケッチブックにその日の出来事を何かしら描きこんでいた。由美にとってはこうした一枚一枚が記憶をたどる貴重な思い出の品だった。

「お母さん、上手ね」

 さも感心したような顔で奈美はスケッチブックをめくっていく。

 由美が昼間の間にもう幾度となく眼を通したものだ。だが、由美が思い出しかけている絵の数枚がどうしても見つからない。

(確かにこの頃にもっと違う絵を描いたような気がする)

 実際、この時期に描いたスケッチブックだけが他のものよりも枚数が少なくなっているのだ。まるで誰かがその一部を破いて捨ててしまったように薄かった。

「奈美、ちょっと貸してくれる?」

 由美はもう一度、そのスケッチブックをはじめからめくり始めた。

 仲の良かったクラスメート、飼っていた三毛猫、そして、父と母の笑っている姿がここにある。それから町の彼方に消えてゆく夕陽……この絵が初めての色つきの絵だ。次はもう母の裁縫をしている絵になってしまう。

(この夕陽の絵……ここで何かあったんだ)

 思い出そうとするたびに、きりきりと頭がしめつけられはじめる。

――お父さんはいる?

 庭で遊ぶ由美に声をかけてきた男の顔が一瞬、思い出された。

 誰?

 そう……誰かがあの日訪ねてきた。あれは誰だっただろう。

(思い出さなきゃいけない……思いださなきゃ……)

 ふと、母の日記のことを思い出した。

 あれを読めば何かわかるかもしれない。あの日のことも何か書いてあるかもしれない。


   *   *   *


 烏の鳴き声で由美は目を覚ました。

 午前6時半。

 今朝はやけに烏が煩く騒いでいる。

 由美はベッドから出て、そっとカーテンを開けた。

 途端にベランダで一羽の烏が由美に気づき、敵意剥き出しにガァと大きく鳴いて飛び立っていった。最近、烏が増えたと管理人の川沼がぼやいていたのを思い出す。

 ガァガァと鳴きながら烏が空を飛んでいる。

 ふと視線を落とすと、マンションの入り口付近に人が集まっているのが見えた。

(どうしたんだろ……)

 なぜか不安が胸を過ぎる。

 昔からこういう嫌な予感はやけに当たることが多い。

 由美は一瞬迷った後、ジーンズにセーター姿に着替えて部屋を出た。ジッとしていられなかった。エレベーターで1階に降りると、皆が集まっているところに近づいていった。

 ひんやりとした空気が肌を刺す。

「あの……おはようございます」

 一番手前にいる女性に声をかけた。何度か顔をあわせたことのある年配の女性だ。「何かあったんですか?」

「あ……あれよ、あれ!」

 女性は少し興奮気味に上空を指差した。

 由美は女性の指差す方向に視線を向けた。

 何十羽という烏が空を舞い、電線に足をかけている。

「烏……ですか?」

「違いますよ。ほら! あそこ!」

 女性はさらに強く言った。

 由美はもう一度、女性の指差す方向を見上げた。

 すると電柱と電柱との間、電線に引っかかって揺れている一際大きな塊が見えた。それが何なのかすぐにはわからなかった。

 だが、その塊をじっと見つめ、由美はハッとした。

 ボロボロに破れた着物。そして、その着物から伸びているのは紛れもなく人間の腕だ。まるで電線に絡みつくように引っかかっている。

 その周りに烏が群がり嘴でついばんでいる。

(あれは……)

 由美はやっとそれが笹山喜久子とその娘の変わり果てた姿であることに気がついた。


   *   *   *


 足が震えている。

 朝、マンションで起きた事件のせいではない。そんなことなど、洋子はとっくにすっかり忘れてしまっていた。

 なぜ、こんなふうに足が震えるのだろう。小刻みに震える自らの足を押さえ付けるように添えられたその両腕さえも小さく震えている。

「まったく、いったいどういうしつけをしてるんですかねぇ」

 事務員の言葉にデパートの事務所の一室で洋子はなおさら頭を低くした。目の前のテーブルには洋子が呼び出される原因となった栗色のトートバッグが置かれている。

「どうも、もうしわけありません」

 隣では対照的に和美が悪怯れた様子もなく無言のままゆったりと座っている。そして、その姿を初老を迎えたような事務員は腹立たしげに横目で見ているのだった。

「だいたい、なんだねその態度は。普通ならもっと素直に頭を下げるもんだ。それがどうだろうね、自分がやったことがまるでわかっていないじゃないか。それとも万引きくらいどうってことないとでも思ってるのか!」

 バシリとテーブルを平手で叩かれ、その音に洋子はびくりと身をかたくした。

「す、すいません……」

「ほら、頭を下げるのは親のあんただけだ。当の本人はケロリとした顔をしたもんじゃないか」

 呆れたように事務員は和美を見つめた。

「こんな人親じゃないよ」

 突然、吐き捨てるように和美がつぶやいた。

「なんだって?」

「この人はあたしの親でもなんでもないんだよ」

 和美の言葉に、驚いたように見つめる事務員に向かい洋子はなおも頭をさげた。

「すいません」

「どういうこと?」

 事務員は怪訝そうな顔で洋子に訊いた。

「あの……私、義理の――」

「――ただのお妾さんだよ」

 和美はそう言うと視線を洋子に向けた。「べつにあたし、あんたのことを母親だなんて認めたつもりないから」

 初めて聞くはっきりとした反抗の言葉に、洋子は改めてショックを受けた。もちろんこれまでにも和美たち姉妹が洋子を嫌っているということはわかっているつもりだった。だがその反面、いつかわかってくれるという希望も持ち続けてきた。今、その希望が打ち砕かれていくのを感じていた。

「つまり……あんた後添えってこと?」

 さすがに事務員も声のトーンを落として洋子に訊ねた。

「は……はい」

 『妾』、『後添え』という言葉に洋子はますます恥ずかしそうに俯いた。

「そうかい、それで旦那は? 今日は仕事?」

 その態度はまるで洋子では話にならないというような感じがあった。

「いえ、主人は一年ほど前に亡くなりました」

「え? じゃああんただけでこの子を育ててるの? そりゃあ大変だねえ」

 事務員の声に同情が混じる。

「は、はぁ……」

「そうか……それじゃ、まあどうしたものかねえ……」

 さすがに事務員もどう対処するか迷ったように首をかしげた。

「さっさと警察に連絡したらいいじゃないか」

 わざと事務員を怒らせようとするかのような言い方で和美が口を開いた。途端に事務員の顔色がさっと変わる。

「なんだって?!」

「おじさんがどう思ってるのか知らないけど、いつまでもぐちぐち喋ってないでさっさと学校にでも警察にでも連絡したらいいじゃない!」

「和美ちゃん――」

「あんたは黙ってて! ノコノコこんなとこにやってきて。そんなことで母親ぶるのはやめてよ」

 和美の一言一言が胸に突きささる。だが、その和美の言葉に腹をたてたのは洋子以上に事務員のほうだった。事務員は一瞬殴りかかるのではないかと思うほどきつい眼で和美を睨むと、すぐに受話器を手に取った。

(いけない!)

 洋子は本能的に事務員の手を押さえていた。

「すみません! それだけは! お願いします!」

「いや、あなたには悪いが、この子は警察に預けたほうがいいと思いますよ。自分がやったことの意味が全然わかっちゃいないんだ。はっきりと自分がどういうことをしたのか教えてやったほうがいいと思うね」

「でも、まだ中学生なんです。私からちゃんと言ってきかせますから」

「無理だよ。こう言っちゃなんだけど、この子はあなたのことを母親とも認めていないじゃないか。そもそも中学生なら立派に物の分別ついてますよ。この子は悪いこととわかった上でやってるんだ。あなたがどう言って聞かせても無駄ですよ」

「で、でも……お願いします! お願いします!」

 なぜ、ここまで頭をさげているのか自分でもよくわからなくなっていた。けれど今はとにかく和美のことを守ってあげなければいけないという気持ちだけが強くわきあがっていた。

 事務員の手を両腕で強く掴み、そのまま土下座するような姿で頭を下げる。そんな洋子を見て事務員はやっと受話器をおろした。

「まったく……仕方がないね。それじゃ、今度のことはここだけのことで収めてあげてもいいですがね」

「ありがとうございます」

「ただ、次に同じようなことを起こしたら、その時は間違いなく警察に連絡することになるからね」

 そう言って事務員はちらりと和美を横目で睨んだ。その眼は和美がまた同じことを繰り返すだろうことを確信しているようだった。


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