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夢喰い  作者: けせらせら
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介護人・1

 お母さん。

 ボク、考えたんだ。

 病気が治ったら、ボク、あの空を飛ぶんだ。

 あの大きなジャンボジェットの運転手になるんだよ。


   *   *   +


 田川寿美は五階にある自分の部屋の前に立ち、深くため息をついた。

 すぐに入ることに抵抗を感じていた。

 さっき見た幻覚、あれを振り切るためにもすぐさま部屋のなかへ入りたかった。だが、そこにあるものこそが、その幻覚の原因であることを寿美は知っていた。

 だが、いつまでもこんなところに立っているわけにはいかない。

 寿美はまたひとつ大きくため息をつくと、意を決してドアノブに手をかけた。

 ドアを開くと、すぐに独特の匂いがプンと鼻をついてくる。いつまでたっても慣れるはずのないこの匂い。それどころか匂いは日に日に強くなっていくようだ。いつかこの匂いが自らの体にしみついてしまうような怖さを感じる。

 寿美はその匂いが充満する自らの部屋へ入ると急いでドアを閉めた。この匂いを近所の人に知られることが怖かった。

 気を張っていなければすぐに吐き気が襲ってくる。

(違う、私が望んでいたのはこんなものじゃない)

 一年前までは玄関先には大好きなラベンダーの香りが常に漂っていた。いつでも友人たちを招くことが出来るように、部屋を片付け、花を飾り、部屋の香りにはなによりも気を使っていた。

 寿美ももう36歳になった。19歳で結婚してすでに17年、一人息子の信人もすでに中学一年になっている。49歳の夫、武は建設会社の営業部に勤めている。高校生の時に武の勤める会社のバイトをやったのが武と出会ったきっかけだった。結婚するときは13歳という年の差のため両親に反対されたりもしたが、結婚生活は寿美にとって幸せといえるものだった。

 そう、半年前までは……。

 半年前、突然、武の言い出したあの言葉が始まりだった。

「親父が倒れたんだ」

 その時は、田舎で独り暮らしている義父、英次郎のことを可哀相だと思いもした。けれど、その時でさえ義父と一緒に暮らすことになろうとは思いもしなかった。夫の武が一人っ子であることは出会ったときから聞かされていた。だが、武はずっと実家に帰るつもりも、同居することもないと断言してきたのだ。その武が英次郎を引き取ると言った時、寿美は裏切られたのだと実感した。それでも寿美は耐える事にした。これまで自由に幸せを満喫してきたのだ。少しくらい義父に親切にしてあげるべきなのかもしれない、という程度の軽い気持ちだった。ただ、その時もこれほどまでに酷いことになろうとは予想していなかった。

 自分の考えが甘かったということに気づくまでは一ヵ月も必要としなかった。

 86歳という高齢のため英次郎はすでにボケはじめていた。そして、風呂に入ることもシーツを替えることも、寿美の望むことは全てといっていいほど頑固に拒否した。それでも寿美は出来るかぎり清潔にするように試みた。だが、一ヵ月後、寿美の努力もむなしく、部屋のなかからはあの爽やかな香りは全て消え去っていた。

 老人のどこか黄ばんだ空気が絶えず部屋を包み込んでいる。

 寿美はソファに座ると頭を抱え、すぐに煙草に火をつけた。煙草を覚えたのは英次郎がやってきて二ヵ月が過ぎた頃からだった。武の吸う煙草の匂いが部屋に充満する匂いをわずかながらも消し去ってくれることに気付いたからだ。

 煙草を燻らせることでほんの短い時間だったが、この部屋のなかに義父の匂い以外の香りの空間が作られる。寿美はぼんやりとその煙のなかでさっき見た幻覚、そして声のことをのことを思い出していた。

――殺してしまえばいい。おまえの夢を叶えるんだ!

 あれは誰の声だったろう。どこか自分自身の声に似ていたようにも思われる。

 私の夢……「夢」という言葉自体を忘れかけていた。いったい私の夢はなんだったろう。

 そして、何よりもあの時に頭のなかに浮かんだあの光景。寿美ははっとしてそのおぞましい光景を打ち払おうとした。

 あんなものはただの幻覚でしかない。あんなものを私は望んでいない。

 その時、寿美を呼ぶ声がかぼそく聞こえてきた。

「……寿美…さ…ん」

 聞きたくもないしわがれた声。

 寿美はすぐには動こうとはしなかった。一度呼びはじめれば決して止めることはないことを、これまでの経験で知っている。そして、それはいつも寿美にとって大事な用件ではないこともわかっていた。

「寿美さぁ……ん」

 少しずつ声は大きくなっていく。苦しそうにゲホゲホと痰がからんだような咳をしながら、それでも寿美を呼ぶことを止めようとしない。

(いっそこのまま死んでくれれば……)

 そんな思いが頭をかすめる。

「おぉぉぉ……ぃ!」

 声はますます大きくなっていく。

(本当にボケているのかしら)

 時折、英次郎が芝居をしているのではないかと思うこともある。英次郎には寿美がいるのかどうか理解出来ているに違いない。だからからこそ、あれほどまでに声をはりあげるのだ。

「す……すぅみ…さぁあん!」

 寿美は煙草を灰皿になすりつけるとやっと立ち上がり、ゆっくりと奥の部屋へ向かって歩いていく。一歩部屋に近付くごとに匂いが強くなっていく気がする。うんざりするような悪臭。またいつものようにしわがれた声で喋りだすに違いない。そして、いつものように汚れ切ったその手で寿美の身体に触れようとするのだろう。その想像するだけで鳥肌が立つ。

 襖の前で一度立ち止まると、寿美は覚悟を決めるかのように小さくため息をついた。

 決意を決めて襖に手をかける。襖を開けると、どっと汚れ切った空気が寿美へ向かって流れだしてきた。むせかえるような匂い。吐いたことも何度かあった。だが、何度吐こうと、どれほど涙を流そうとこの匂いが消えることはない。この男がいるかぎり。

(この男が……)

 寿美は目の前に横たわる英次郎を見た。

「す……寿美さぁあん」

 嬉しそうにかすれた声で笑う。ぞっとするような笑顔。もう何千年も生きつづけているかのようなしわが刻み込まれたようなその顔。

(まるで妖怪だわ)

 英次郎がこのマンションにやってきたばかりの頃、寿美は心のなかですでに葬儀のことを考えていた。

 棺桶は入るだろうか?

 戒名にはいくら掛かるのだろう?

 どうせ半年ももつはずがない。すぐにこのマンションから葬儀をださなければいけないことになるだろう。

 そんな寿美の心配もまったくの無駄だった。英次郎の身体は衰えることはなかった。急激な速さで衰えてきたのはむしろ頭のほうだった。

 あれから半年が過ぎた。今ではすっかり部屋は汚れきり、三年前にこのマンションに引っ越してきた時の面影もない。

 寿美は部屋に入ることなく英次郎に声をかけた。

「なんですか? お義父さん」

 自分でもぞっとするほど冷たい声。以前はこれほどまで冷たい声を出せるなんて自分でも思っていなかった。それでも英次郎はうれしそうに笑顔を見せ寿美に右手を伸ばした。浴衣からぬっと伸びたその痩せた床ずれで赤くなった手が目的もなく空を掴む。

「な……なんだ。いたのかい」

 痰がからんだような声。枕カバーがよだれで汚れている。

「だから、何の用です?」

「い……いや……なに……」

 たいした用などあるはずがない。ただ、常に誰かの気配を感じていたいだけなのだ。いつもならこのまま襖を閉め、無視することで終わる。一度声をかけることで英次郎はまたしばらくの間は寿美を呼ばなくなる。だが、この日は違っていた。英次郎の布団がいつも以上の異臭をはなっていることに寿美は気づいてしまった。

(まただ……)

 怒りよりも先に悲しみがこみあげてくる。

 三週間ほど前までは身体を支えればなんとかトイレにつれていくことが出来た。だが、ここ数日英次郎はトイレに行きたいとは訴えることがなくなった。訴える事無くそのまま布団のなかで排泄する。最初は我慢出来ずに仕方がなくしているのかと老人用のおむつをつけさせたのだが、それがむしろ逆効果になった。英次郎はますますトイレに行きたいと訴えようとはしなくなってしまった。

「お義父さん、トイレに行きたかったんですか?」

 怒りを押さえながら寿美は言った。言ったところでどうなるものでもない。英次郎に寿美の言葉などもうほとんど通じてなどいないのだ。

 英次郎はその寿美の言葉にただ笑いかえすだけだった。

 寿美は吐き気を押さえながら、部屋のなかへと足を踏み入れていった。


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