逃避・1
身体が重いよ。
どうして? どうしてみんなそんな悲しそうな顔をするの?
いったいいつまでこんなところに閉じ込められていなきゃいけないの?
ボク、外に出たいよ。
ねえ、ボク、治らないの?
* * *
川辺洋子にとって由美が持ってきた話はあまりに突飛すぎて、どう答えていいかわからないものだった。田川寿美、杉原麻里の二人の死に由美は混乱しているのだろう、というのが一番素直な感想だった。
麻里の運転する車は夫の勝人を駅まで送っていく途中、対向車と激突した。対向車に乗っていた若い自動車販売員を含めた3人が即死だった。整備不良でブレーキが効かなくなったのが原因だとニュースでは報道されている。仲の良かった麻里が死んだということは、洋子にとってもショックな出来事だった。だが、それはあくまでも事故であり、とても由美の話に同意出来るようなものではなかった。
「そりゃ、二人ともかわいそうだったけど……そんな……殺されたなんてことは……」
どう言えばいいものか言葉を選びながら洋子は答えた。
由美にとっても洋子のその反応は予想出来るものだった。〈男〉のことを知っているのは自分一人しかいない。この状態でこんな話を洋子に信じろというほうが無理だろう。しかし、だからといってそのままほうっておけるわけでもない。あの〈男〉は次の獲物が洋子であるとはっきりと告げている。
「確かに警察だって二人が殺されたなんて言っていないわ。寿美さんは自殺だし、麻里さんは事故。私だって今から警察に飛び込んでこんな話をしようなんて思ってない。でも、あの男が私たちを狙っているのは事実よ。信じられるような話じゃないのはわかっているけど、あの男は人間じゃないわ。死神みたいなものよ」
由美は懸命に訴えた。
簡単に納得してもらえるとは思ってはいない。けれど、少しでもあの男の危険性を頭の片隅にとめておいて欲しかった。
洋子は困ったように由美を見つめ、それから軽く頷いた。しかし、その心のなかでは由美の言う男に対する危険性を感じ取っているというよりも、由美のことを心配する気持ちのほうが強かった。
「由美さん、あなた、疲れているのよ」
「そんな――」
「あなたがそんなふうに思うのも無理ないかもしれないわね。あまりにも突然だったから……」
死んだ二人のことを思い出すように、ふっと眼を伏せた。
その様子を見て由美は洋子に自分の気持ちが伝わっていないことを感じた。
(仕方ないかもしれない。そんなに簡単に信じてもらえるはずはないわ)
その話がいかに現実離れしたものかということは、自分自身でもよくわかっている。
「洋子さん、私の言うことが信じられないのも仕方ないわ。でも、もし私が言うような男があなたに近付いてきたなら……そして、これまでとは違ったおかしなことが起こるようだったら注意してちょうだい」
由美の訴えるような言葉に、洋子は素直に頷いた。
由美が帰った後、洋子は深くため息をついた。
(彼女があんなふうに思うのも無理ないわ)
そして、時計を眺めてさらに深くため息をつく。
他人の心配をしている場合ではなかった。
そろそろ子供たちが帰ってくる時間だ。
* * *
今更ながらに思い出すのは、父が突然、義母と義弟を連れて来たときのことだ。
「新しいお母さんと弟だ。仲良くしてあげるんだよ」
父の言葉に、まだ八歳の洋子は戸惑うしかなかった。それは母が死んでまだ1年しか過ぎていないある春の日だった。
その時はまだそれがどういうことなのか見当もつかなかったが、高校を卒業間近の頃、かつて父が長年浮気をしていたことと、母の死が自殺だったことを知った。
父のことが許せなかった。
(父さんが母さんを殺した)
その思いから、高校を卒業してすぐに洋子は家を出た。それ以来、父とは顔を合せていない。
心のない家族という形であるくらいならば、一人で生きていくほうがいい。
今、またあの時と同じような気持ちになっている。
ただ、今回は立場がまるで逆になっている。
「新しいお母さんだよ」
と、夫の修一郎に二人の娘を紹介されたのは三年前。洋子がまだ29歳の時だ。今年、中学二年の長女の和美と小学5年生の直子。二人ともあまり洋子に馴染んでいるとは言い難い。しかし、それも全て覚悟したうえでの結婚だった。
だが、夫の修一郎が一年半前に死に洋子の気持ちは一気に沈んだ。
(なぜ、こんなことに……)
何度そう思ったことだろう。
突然の事故だった。新聞やニュースにも大々的に取り上げられたことのある電車の脱線事故。その事故は多くの怪我人と一人の死者を出した。その一人が修一郎だった。
修一郎を失った悲しみは強かった。けれど、それ以上にこれからの生活に対する不安や戸惑いのほうが強かった。
いかに血が通っていないからといって、義母である洋子が二人を放り出して逃げ出すなんてことが許されるはずがない。夫の修一郎の両親は既に他界しており、さらには兄弟もいない。身近な親戚もいないため、子供たちを預けることは出来なかった。
残された道は自らが二人の母として残ることだった。責任感の強い性格が洋子をこれまで支えてきた。しかし、いつまでも耐え続けられるものでもない。
修一郎と結婚し3年経った今となっても、和美と直子は洋子を母親として認めてくれなかった。学校から帰ってきても、洋子に対しては決して必要以上のことを喋ろうとはしない。
それでも修一郎が生きている間は、洋子に対して必要以上に反抗するような態度は見せなかった。だが、修一郎が死をきっかけに二人はしだいに洋子に対し、あからさまに嫌悪感を示すようになってきている。
柱時計が六時半を示す。
結婚前にアンティーク品の好きだった修一郎と、二人で骨董店をまわって手に入れたものだ。
子供たちが夕方前に帰宅することは、ほとんどといっていいほどなかった。二人とも洋子と顔をあわせることを避けているのだろう。それは洋子にとっても同じ気持ちだった。修一郎が死に保険金がはいってきたことで、今のところは無理して働かなくても生活を維持していくことくらいは出来る。だが、マンションに閉じこもっているのが嫌で、今年の春から近所の会社でパートとして働きはじめた。朝9時から午後2時までの仕事だが、出来れば少しずつ時間を増やしていきたいと思っている。そのほうが子供たちと顔をあわせる時間も短くすることが出来るからだ。
(でも、このままでいいの?)
このまま、あの子たちと生活していけるのだろうか。修一郎が死んでから、ずっとそのことばかり考えてきた。
答えはまだ見つからないけれど……でも……
自分がどうしたいのか、どうすれば自分にとって一番いいことなのかそれが考え付かない。いや、答えは見えているのかもしれない。ただ、その答えを正面から受けとめるのが恐い。
――なぜ?
それは――
ハッとして顔をあげた。
今、誰かが頭のなかに入り込んできたような気がしたのだ。
(気のせい……よね)
洋子は立ち上がり、夕飯の準備を始めた。
どうせ、あの子たちはほとんど手をつけないに決まっている。コンビニから買い込んできたお菓子や菓子パンを部屋に溜め込んでいることを洋子は知っていた。だからと言って作らないわけにはいかないから。
(良い母親になりたい)
そう思った時期だってあった。そのためにも二人の間に子供を作るのはやめようと修一郎と話し合ったこともある。
それなのに――
バタンというドアの開く音のあとに、ぱたぱたと二人の足音が聞こえてくる。
(帰ってきた……)
気持ちが深く重く沈む。
「おかえりなさい」
キッチンのドアを開け二人に声をかける。だが、洋子をちらりと横目で見ながら、和美と直子は無言のまま奥の部屋へと入っていった。
修一郎が死んで以来、ほとんど会話らしい会話を交わしたこともない。
(私はいったいなんなんだろう……)
包丁を握り締めながら、洋子はこれからの自分を行く末を思い悩んでいた。