喪失・9
思い出そうとするたびに頭が痛くなる。
誰かがそれを思い出すのを邪魔しているかのようだ。それでも由美はダンボール箱のなかから思い出の品々を一つづつ取出し、記憶をたどろうと試みていた。
(私はあの男のことを知っている)
今朝になってやっと由美はそう確信するようになった。
知っているからこそ、自分だけが他の人とは違う感じで今度の事件に向き合うことが出来るのだ。そして、それには父のあの時の姿もまた関わっているはずだ。昔、大好きだった父親のことまでも由美の記憶のなかから消えかかってしまっていたのは、それにあの〈男〉が関わっているからだろう。
由美はしまっておいた小学校の頃のノートを1ページづつめくりながら、記憶を呼び起こそうとしていた。ノートの隅に書かれた落書やメモからクラスメートや教師、そして母のことなど自分でも驚くほどさまざまなことが思い出されてくる。だが、それが父のこととなるとまったく思い出せなくなってしまう。まるで、父に関する記憶だけが鍵付きの金庫にでも封じ込められてしまっているようだ。そして、きっとその金庫の中身も鍵もあの〈男〉が握っている。
笹山喜久子にも、何度か話を聞こうと訪ねてみたが、部屋のチャイムを押してみても誰も出てきてはくれなかった。彼女はきっとあの〈男〉の存在に気づいているに違いない。そして、自分との関係も何か知っているのかもしれない。
その時、ふと誰かの声が聞こえたような気がした。
(誰?)
声に引き寄せられるかのように、由美はベランダに出た。
そういえば――
昨夜、あの〈男〉はいったいあんなところで何をしていたのだろう。それに、もう一人誰かの人影があったような気がする。
あれは誰だったのだろう?
昨夜のことを思い出し、由美は再び駐車場へと眼を向け全身が凍りついた。
麻里がふらふらとした足取りで駐車場へ向かっている。しかも、その手を引いているのは――
(あの男だ!)
黒づくめのあの〈男〉が乱暴に麻里の手を引き、駐車場へと向かっている。そして、麻里は抵抗することも出来ない様子で引きずられるようについていく。まるで死神に見入られた姿のように見える。
(だめ! その男について行っちゃだめ!)
それが何を意味するのか、由美は本能的に悟っていた。
「麻里さん! 麻里さん!」
叫んでみても麻里は振り向こうともしない。むしろ振り返ったのは〈男〉のほうだった。ベランダの由美のほうを振り返り、そして勝ち誇ったようににやりと笑うとぐんぐんと突き進んでいく。
由美は二人の後を追うために急いで部屋を飛び出した。
* * *
自分自身がどうなってしまうのか、麻里にはまったくわからなくなっていた。ただ、自分を引いて歩いて行く勝人に身を任せるしかなかった。
なぜ、この人は引き返して来たんだろう。これまでは一度として引き返してくるなんてことはなかったはずなのに。そうだ、きっと全てこの人は知っているんだ。私が車に細工したことも、そして、私と彼とのことも。
終わりだ……もう全てが……
「さあ、一緒に行こう。運転は君がするといい」
運転席のドアを開け、勝人は麻里を押し込むと自分もすぐに助手席側から乗り込んできた。逃げ出すことも出来ず、麻里は言われるままにハンドルを握った。
「で……でも……」
ハンドルがやけにべたべたしている。
「さあ、何をしているんだ?」
くぐもった勝人の声が麻里を急き立てる。その声に思わず麻里は隣に座った勝人へ顔を向け、そして低く悲鳴をあげた。
「ひぃ!」
真っ青な顔、そして、そのパックリと裂けた首筋からはどろどろとどす黒い血が流れ出ている。突然、ピシリという音とともにフロントガラスに蜘蛛の巣状の大きなヒビが入り、まるで車自体が生きているかのようにそこから血がポタポタと滴り落ちる。
勝人がその手を麻里の肩に乗せた。
「何を驚いているんだ? 全てはおまえの計画どおりのことなんだろう。俺のこともそして彼のことも」
「彼?」
勝人の死んだような視線に促され、麻里はバックミラーを覗き、そして自分の夢が消えていくのを感じ取った。
振り返った麻里の目に飛び込んできたのは。首から血を流して後部座席に横たわっている男の姿だった。それが麻里にとってもっとも愛すべき男の変わり果てた姿だということはすぐにわかった。
切断された頭がまるでサッカーボールのように、後部座席の足元に無造作に転がっている。その死んだ眼差しが運転席の麻里を恨めしそうに見上げている。
その光景に麻里は先日見た夢を思い出していた。
(終わった……私の夢は……すべて)
絶望が深い闇となって心に広がっていく。
――さあ、行くんだ。おまえの夢の末路へ向かって
頭のなかに響くその声に押されるように麻里は前を向いてエンジンをかけた。これが運命ならば従うしかない。
もうバンパーがひしゃげていても、エンジンが煙をあげていても気にする必要はない。何があろうとこの車は問題なく走っていくだろう。うなりをあげ、スピードに乗りあの坂道を下っていくことだろう。
(そう、それが私の運命なんだ)
心の重荷が自らの夢とともに消えていくのを感じながら、麻里は迷わずアクセルを踏んだ。
* * *
由美が駐車場に駆けつけた時、すでに麻里の運転する車はその角を曲がり走り去っていった後だった。由美は荒くなった息を整えながら、ゆっくりとそこに立つ〈男〉に近付いていった。
「やあ、惜しかった。一足違いだった」
〈男〉は由美へ身体を向けるといかにも楽しそうに口を歪めた。その深くかぶった帽子の奥で爛々と眼が光をおびているのがわかる。
「彼女に何をしたの?」
心のなかにある恐怖心を押し隠して、由美は〈男〉に向かって言った。
「彼女の夢を喰っただけさ」
「夢を喰う?」
「そう、現実を教え、その夢のはかなさを教えてあげたんだ」
「あなたが寿美さんのことを殺したのね」
もうはっきりと確信していた。今、自分の目の前にいる男が寿美を殺し、また麻里を殺そうとしている。
「だから?」
「あなたは何者なの?」
「焦る必要はない」
「なんですって?」
「おまえもおまえの娘も俺が喰ってやる。その時に俺が誰かを教えてやる。だからそれまでじたばたせずにおとなしくしていることだ」
奈美の顔が頭に浮かび、それが怒りへと変わった。
「ふざけないで! あの子だけはぜったいあなたになんか渡さないわ!」
それでも〈男〉はせせら笑うように言った。
「おまえに俺の邪魔が出来るとでも思っているのか?」
「ええ、ぜったい邪魔してやるわ。ぜったいあなたになんか負けやしない!」
「勇ましいな。おまえの力がどれほどのものか楽しませてもらうよ……ただし、まだおまえの番じゃない」
「私の番じゃないって……どういうこと?」
「次はおまえじゃない。川辺洋子だ」
「洋子さん? 洋子さんに何をするつもり?」
「聞いてどうする? あの女を助けるか?」
「ええ」
「無理だ。おまえにはどうすることも出来ない」
「何をする気なの?」
「焦るな。ゆっくり楽しめ」
男はそう言うと笑いながら、すぅっと風のなかへ溶け込むように消えていった。