喪失・8
江口広にとってその日は何から何までピントのずれた朝の始まりだった。
(なんであんな女の夢を見たんだ?)
赤信号を睨みながら江口はいらだちをぶつけるように軽くハンドル部分を叩いた。
江口にとって杉原麻里はただの遊び相手に過ぎなかった。ふと思い出した時に会ってベッドを共にする相手、セックスフレンドの一人、それ以上の存在ではなかった。だが、いつものように相手はそれ以上を求めてくる。
その相手の感情は江口にとってはただただ――
(面倒くさいだけだ)
そうなれば江口は別れることにしていた。そして、二度と思い出すこともなくなる。それがいつものパターンだった。
ところが今朝はどうもこれまでとは違っている。
これまで別れた女の夢など見たことは一度もなかった。
(俺が本気になってる? まさか)
それだけは簡単に打ち消せる。もともと麻里に対して特別な感情など持ったことはない。それに今朝の夢はそんな夢じゃなかった。もっと違う意味の夢のような気がする。
江口も具体的には憶えてはいなかった。ただ、やけに後味の悪い陰湿な夢だったような気がしてならないのだ。
その夢のために江口は朝早く麻里のマンションへ向かって車を走らせることになったのだ。
こんな行動も江口にとっては初めてのことだった。
(まったく……俺は何やってるんだ)
なぜ麻里のことを気にしているのか自分でもわからなかった。
気になっている理由はただ一つ。どこか麻里に『死』の匂いを感じたから。
女と遊び、捨てることなどこれまでだって幾度となくやってきたことだ。だが、そのために死なれるようなことだけは避けたかった。
信号が青になり、江口は勢いよくアクセルを踏む。
(生きてることだけ確認すりゃあそれでいい)
信号を通り過ぎシフトチェンジの後、アクセルをさらに踏む。この坂さえこえればすぐにマンションが見えるはずだ。
そう思った時、江口の視界に一台の車が入ってきた。やけにふらふらとそして物凄いスピードで坂を下ってくる。
(なんだ?)
江口は目を丸くした。
シルバーのスカイライン。それが自分の販売した車だということはすぐにわかった。そして、それを運転しているのは――
* * *
洋服ダンスをひらき、気に入った服を幾つか並べてみる。
麻里の心はすでに自由にはばたき、江口のもとへ飛ぼうとしている。自分が犯した罪のことも、そしてその罪の犠牲となった者のこともまったく頭になかった。今は愛する男のことだけが麻里にとっての全てだった。
愛する男、そしてお腹の子供、全てはうまくいくだろう。
(そう、それが今の私の夢)
夢?
なぜだろう。急にずしりと心が重くなる。本来ならその一文字こそが人の心を明るくするというのに……。
――おまえに夢は似合わないからさ。
頭のなかに低く声が響く。
「誰?」
思わずその声に反応した。
――おまえだってわかっているだろう。
「な、なんなの?」
――おまえがやったことの意味を、そしてその結末を。
「どういうこと?」
――おまえは全てを知っている。そうさ、俺がおまえに一度見せてやったから。
一瞬、何かのワンシーンが頭のなかに蘇る。
あれはなんだったろう。そう言われてみると確かに何か重大な自分の未来を忘れているような気がしてくる。
その時、チャイムの音が鳴り響いた。
(今頃……誰?)
不安感が全身を包む。
――さあ、行けよ。全てをおまえの目で確かめるんだ。
頭のなかに広がるその声に突き動かされるように麻里は玄関へと向かった。そして、相手を確かめることなくドアを開き――
「ちょっと忘れ物をしたんだ」
にこやかに微笑む勝人の顔がそこにあった。
「忘れ物?」
「ああ」
そう言って勝人はさらに笑顔をつくる。だが、その笑顔に押されるように麻里は背筋が冷たくなるのを感じた。勝人は笑っている。それなのになぜこんなに恐く感じるのだろう。なぜ?
これまで何があっても途中で引き返してくることはなかった。
「忘れものって……?」
「さあ、なんだったっけか……忘れ物を忘れてしまったなぁ。それよりもせっかく引き返してきたんだ。ドライブがてら送っていってくれないか?」
「え?」
「頼むよ。やっぱりおまえに送ってもらいたいんだ」
その時、やっと自分が怯えている理由がわかった。
眼が笑っていない。顔全体は明るく笑顔をつくっているが、その眼だけは決して笑っていない。それどころか、むしろ――
(死人の眼)
どんよりと曇り、感情という輝きを失っている。
「さあ、一緒に行こう」
勝人の腕が伸び、麻里の手首をぎゅっと掴む。ひんやりと冷たい手。そして、有無を言わさず歩きだした。
逆らうことが出来なかった。