喪失・7
意識が半分眠っているような気分だった。
深夜、勝人が眠った後に麻里はこっそりと部屋を出ると、暗くなった駐車場へと向かった。マンションを出るとひんやりとした空気が全身を包む。それでも麻里の足取りは変わらなかった。
まるで夢遊病にでもかかったかのような足取りで体を前に進める。
マンションの南側に設置された駐車場には、他の車とともに勝人の銀色のスカイラインがひっそりと佇んでいる。
麻里は見慣れたその車に近づくと、そっと銀色の車体に触れ、決意の篭った眼差しでジッと見つめた。思えばこの車が江口との出会いのきっかけだった。あの出会いがなければ、再び熱い恋を胸にすることもなく、きっと今でも不満を抱えたままで毎日を暮らしていたことだろう。
(私は間違ってなんていない)
麻里はボンネットを開けると静かに作業をはじめた。
若い頃から車の運転は好きだったが、整備についての知識は皆無と言っていいほど何も知らなかった。タイヤを交換したこともなければ、エンジンルームを自分で開けたことすらなかった。いつも整備は他人任せで、ガソリンスタンドでボンネットを開けてくれと言われても、どうすればいいか迷うほどだった。それなのに今夜はまるで違っている。
ジャッキで車体を上げると底に潜り込んでブレーキオイルを抜く。さらにはタイヤをはずし、ブレーキパッドまでも磨耗してほとんど役にたたないものに取り替える。
すでに深夜1時を回っている。
駐車場に人の姿は見えない。深夜とはいえ、普段ならばこんなことをしていれば誰かに見つかってもおかしくはない。だが、今夜に限ってはそんな心配も必要がないように思われた。誰かが現れても麻里に気付く人はいないだろう。
(いるはずがない。だって――)
この夜、麻里には協力者がいた。麻里の視界のなかには一人の〈男〉の姿があった。黒いハットを被り、黒いコートを着込んだ一人の〈男〉。
〈男〉は麻里が作業をする脇に立ち、その作業をずっと見守っている。
(あの男が私に道を示してくれる)
――そうだ、あとは俺がやってやる。おまえの望み。おまえの夢を俺が叶えてやろう。
〈男〉の笑い声が頭のなかに広がっていく。
麻里は黙々と作業を進めた。
本来ならば出来るはずのない作業が、今、自分の手により進められていく。
その先にあるものは――
(私の夢)
今はただ江口ことだけが麻里の心を占領していた。
麻里は男の目が嘲笑うかのように自分を見つめていることなど、気にすることもなく一心不乱に作業を続けた。
* * *
伸一はまだ帰ってこなかった。
きっと今夜もどこかで飲んで帰ってくるのだろう。
由美はキャンバスの前に座り、生前の父の姿を思い出していた。
初めて〈男〉を見た時に由美の頭に浮かんだ光景。
十歳の頃、突然父が自分の描いていた絵を庭に運び出し、火をつけて燃やしたことがあった。
絵を誰よりも愛し、画家を目指していた父。
それは幼い由美にとって信じられない姿だった。
――どうして? どうして燃やしちゃうの?
そんな由美に父は笑っていた。だが、その笑顔はとても弱々しく寂しげに見えた。
父が姿を消したのは、それから二日後のことだった。
(父さんは夢を諦めたんだ……)
いつしか由美は父のあの姿をそう思うようになっていた。
ずっと忘れていた。
由美にとって父は『破れた夢』の象徴だった。
ずきりと頭が痛む。
何かを思い出そうとしている。そしてそれを思い出させまいと何かが邪魔をしているようだ。
由美は夜風にあたろうとベランダへ出た。ひんやりとした空気が身体を包み込み、熱を奪っていく。すでに季節は冬を迎えようとしている。
その時、由美は微かな人影を見たような気がした。それはほんの一瞬で、それが誰なのかはわからなかったが、マンションの駐車場の片隅に人影があったことは確かだった。そして、さらに、背筋がぞくりとするものを由美の視線は捕らえた。
あの〈男〉が立っている。
そして、にやりと不気味な笑顔を浮かべ由美のほうを見つめているのだ。
その姿はまるで由美を嘲笑っているかのようだ。
――いずれおまえの夢も砕いてやる
頭のなかに声が響いた。
(私の夢……)
由美は慌てて部屋に戻ると奈美の部屋へと飛び込んだ。
奈美はベッドですやすやと眠っていた。
由美はほっとして奈美のベッド脇に腰をおろすとそっと奈美の頬に手をあてた。
(この子だけは誰にも渡さない。そのためにも――)
あの日のことを思い出さなければいけない。
* * *
睡眠時間は少ないはずだった。
作業は明け方近くまでかかってしまった。だが、これほどまでにぐっすりと気持ち良く眠れたのは久しぶりだった。
普段、低血圧で朝の弱い麻里が今日だけは朝から活発に動き回っている。
「今日は機嫌がいいみたいじゃないか?」
勝人がそう話し掛けてきても、今朝は笑って対応することが出来る。
「いつもそうよ」
そう、これからはいつでも機嫌よく笑っていられる。この人の顔を見るのもこれで最後だから。
こんな自分の気持ちを勝人が気づいているはずがない。そんな鈍感なところにも今日だけは感謝していられる。
頬が自然にゆるむ。
たとえいつも綺麗にしている爪が少し割れていても、その爪の隙間についた黒い油汚れが落ちていなくても、機嫌の良さは変わらない。
もう少し。そう、もう少しで自由になれる。
(もう少しであなたと一緒に)
江口のことを思った。
朝食を用意し、白いワイシャツを用意して、さらに一度だってしてあげたことのないネクタイ選びもしてあげる。
「ずいぶんサービスがいいんだね。なんかいいことでもあったの?」
さすがに勝人もいつもと様子が違うことには気づいていた。だが、麻里はそんなことなどおかまいなしにごまかした。
「さあねえ」
「なんだよ、教えてくれたっていいじゃないか」
「自分で考えてみたら?」
そう、職場に行き着くまでにはきっと気づくから……いえ、駅の駐車場までも行き着くことなど出来ないけれど。
「ふうん、それじゃゆっくり考えてみるよ。頼むから僕が帰ってきたときにも機嫌よくしててくれよ」
「そうね」
麻里は軽く笑いかえし、勝人のどんと突き出たお腹を指で突ついてみせた。
「そうだ、せっかく機嫌がいいんだ。今日は送ってもらおうかな」
思わず麻里の笑顔が凍り付いた。
「どうして?」
「たまには君の運転する車で行くのもいいんじゃないかと思ってさ」
「な、何言ってるの? そんなこと今まで一度もしたことないじゃない」
「だから今日は特別にさ」
「無理よ。私、他にやらなきゃいけないこともあるし……」
すっかり笑顔は消え去っていた。
(冗談じゃない!)
麻里は懸命に勝人に考え直させようとした。
「冗談だよ、いくらなんでもそんなことさせるわけないだろ。そんなに驚くようなことじゃないだろ」
麻里のあまりの驚きに勝人はすぐにそう言った。
「え、ええ……」
背中を一筋汗が落ちるような感じがしていた。
(ごまかさなきゃ……そう、ごまかさなきゃ)
「どうかしたのかい? 急に顔色が良くなくなったみたいだ」
「だ、大丈夫。気にしないで……ちょっとした貧血だと思うわ」
麻里は頭を押さえて、ソファに座り込んでみせた。
「そう?」
「少し休めばすぐよくなるわよ」
「……そう」
勝人はまだほんの少し麻里の身体を気にしているようだったが、すぐに出勤の時間が迫っているのに気づいた。
「いけね、こんな時間だ。それじゃ、もう行くよ」
「ええ」
「それじゃ、行ってきます」
勝人は鞄を抱えるとばたばたと玄関口まで走って出ていった。
ドアの閉まる音がする。
麻里はそっと起き上がると、キッチンから顔を出して玄関に勝人がいないことを確認すると急いで鍵を閉めた。そして、すぐにベランダへ出るとそっと隠れるようにして駐車場へ視線を移した。いつもならばあまり目立たないシルバーのスカイラインが今朝はどれよりも目立っているように感じられる。そして、その『動く棺桶』ともいえる車に今、勝人が乗り込もうとしている。鞄を投げ入れるように助手席へ置き、その太った身体に窮屈そうにシートベルトをかけている。
(さあ、早く……早く行って)
麻里は無意識のうちに拳をにぎっていた。
まるで麻里の念力が通じるかのように、ゆっくりとスカイラインが動きはじめる。マンションを出れば坂を下りきるまで信号機はない。そして、その坂を下る時、勝人がかなりのスピードを出すことを麻里は知っていた。
坂を下りはじめるまで気づかなければ……
「やったわ!」
スカイラインが家の陰に隠れ見えなくなったその瞬間、麻里は思わず立ち上がった。もう大丈夫だという気持ちが心を占めていた。
おそらく運転をはじめて少しの間だけはブレーキに違和感を感じることはないだろう。幸いにも今日はマンションを出るのがほんの少し遅れたために電車の時間ギリギリだ。もし、異常を感じたとしてもそれはほんの小さなもので勝人がわざわざそのために戻ってくることも、その場で調べることもないだろう。そして、次にブレーキの異常を感じ取ったその時にはすべての運命は決まっている。
麻里はまだ拳を強く握ったままでいた。
さっきまでは緊張のため、そして今は勝利を噛み締めるため。