喪失・5
翌日、勝人が出ていくのを見送ると麻里はすぐに江口へ電話した。
また留守番電話だろうか……
一回、二回……そして
――はい……もしもし……
眠そうな江口の声が聞こえてきた。
午前7時50分。まだ眠っていたようだ。
「あの……麻里です」
――え?
「ご、ごめんなさい。今日、休み?」
――ああ……
「あの――」
――昨日のことならまだ何にも言えないよ。
受話器の向こう側から大きな欠伸の音が聞こえてくる。
「あ、ううん。そ、そのことじゃなくて」
――何?
「ちょっと伝えておかなきゃいけないことがあって……」
江口は何も答えてはくれない。
「あのね……」
迷っていた。子供が出来たことを言うべきだろうか。けれど、もしこのことがかえって江口を自分から遠ざけるようなことになりはしないだろうか。
5年前の出来事が麻里の決心を鈍らせていた。もし、あの時のようにおろすように強要されたら……
そんな不安に鼓動が早くなる。
――どうしたの?
「あ……いえ……」
言うべきか黙っておくべきか、迷いで唇が震える。
――何か話があるんだろ。早くしてくれないかな。俺、これから用事があるんだ。
冷たい声。
その声に思わず――
「ごめんなさい。もういいの、ちょっと声が聞きたかっただけだから」
麻里は江口に妊娠していることを告げるのをやめた。
――……そう。それじゃ――
何のためらいもなく江口は電話を切った。その江口の電話の切り方に孤独を感じた。
(あの人はもう私を愛していないの?)
けれど、自分自身その考えを認めたくなかった。
(そんなはずがない。彼は私を愛してくれている)
そっと腹部に手を当てる。
ここに江口の子供が宿っている。
麻里はいつまでも江口の愛を信じようとしている自分が情けなくなっていた。
* * *
江口が麻里に電話してきたのはちょうど一週間後の昼十二時を少し回った頃だった。その前日、麻里は医者に行き、子供が出来たことは紛れもない事実となっていた。
――今から出て来れるかな?
久しぶりの江口からの電話に麻里は驚きを隠せなかった。
(やっぱりこの人は私のことを愛してくれている)
思わず麻里は声を弾ませた。
「え、ええ、いいわ。どこにいるの?」
――すぐそばのコンビニにいるよ。
「わかった。すぐ行くから待ってて!」
麻里は電話を切ると急いで部屋を出た。
頬がほてっている。
麻里は足早に階段を駆け降りると江口が待っているコンビニへと急いだ。駐車場の奥に江口の白いスカイラインが止まっているのが見えた。
麻里はほんの少し歩みをゆるませると息を落ち着かせながら車に乗り込んだ。
「こんにちは」
麻里が助手席に乗り込むと、江口はチラリと麻里に視線を投げただけで何も言わずにエンジンをかけ、すぐに車を発進させた。そのいつもと違った様子に麻里はほんの少し不安を感じずにはいられなかった。
いつか見た夢の切れ端が頭の隅をよぎる。
「どうしたの? そんな黙っちゃって」
麻里はわざと明るくふるまった。だが、その効果はなかった。
江口は口を開こうとしない。それどころか麻里の顔を見ようともしない。その江口の横顔に麻里はそれ以上話しかけることは出来ずにうつむいた。
エンジンはうなりをあげて国道を走っていく。それはいつもの江口とのドライブコ-スとは違っていた。そして、車内の雰囲気もまったく違っている。麻里ははまったく押し黙ったまま運転を続ける江口をちらちらと横目で盗み見た。いつもならばその営業で鍛えた喋りで麻里は江口の話を聞き続け、ステレオから流れる音楽など江口の話のBGMにすぎない。しかし、今日はやけにステレオの音が高く響いて聞こえる。
(なぜ黙ってるの)
沈黙が胸を締めつける。
麻里はついにその沈黙に耐えられなくなった。
「ねえ、いったいどうしたの? どうしてそんな黙ってるの?」
「……」
「何か言って」
江口は麻里のほうをちらりと横目で見てからゆっくりと口を開いた。
「もう終わりにしたいんだ」
その言葉に息を飲む。
車に乗り込んだ時から、その言葉を覚悟していた。それでも、目の前の現実に素直に頷けない自分がいる。
「な、何言ってるの? からかわないで」
『嘘だよ』という、いつものようなおどけた江口の言葉が聞きたかった。
「別れよう。もうこれ以上続けられないよ」
麻里の微かな望みをも打ち砕くように江口はさらに言った。
「……ど、どうして?」
「これ以上続けてもお互い何の意味もないじゃないか」
江口の声がいつになく冷たい。
(違う……これは彼じゃない……こんなに冷たい人じゃない)
膝の上に置いた手で拳を握り、冷静であろうと努めた。
「……意味って何?」
「確かに初めは好きだってだけで良かったんだと思うよ。でも、いつかは別れるしかないじゃないだろ。未来のないつきあいはお互いにとってプラスにならない」
「だからって……どうしてこんなに急に――」
「急じゃない。この前から考えたんだ」
「それじゃ前に言ってた話って……」
「そうだよ。お互い良い思い出にしよう」
「思い出……そんな……」
どう反論していいか頭のなかで言葉を捜す。
(私のお腹にはあなたの子供がいるのよ!)
そう叫びたい気持ちを麻里は必死に押さえた。そんなことを言っても江口が振り向いてくれるはずがない。
「仕方がないさ」
キキキーっという小さな音をあげて車は止まった。どこをどう回ってきたのか、窓の外にはいつの間にか見慣れた風景が広がっている。
このままドアを開けて外に出れば、二人の関係は終わってしまう。
「もう少し待って!」
咄嗟に声を上げた。
その時、麻里の頭のなかに微かなイメ-ジが広がっていた。それはあまりにぼやけていて、麻里にとってもその本当の意味は理解出来てはいなかった。だが、それだけが江口を自分につなぎ止めておける唯一の手段だということだけは理解出来た。
「何を待てって?」
「私が結婚してるからそんなこと言うんでしょ?」
「……それだけじゃないけど――」
「もう少し待っていて! そうすればきっとあたしたちうまくいくようになるわ」
その麻里の言葉に江口は怪訝そうな表情で彼女を見た。
「何を言ってるんだ? 俺たちはもう――」
「大丈夫! きっとうまくいくわ。だからもう少し時間をちょうだい!」
あくまで終わりを告げようとする江口を制止するように麻里は叫んだ。その勢いに江口は驚いたように言葉を飲み込んだ。麻里はそのまますばやく車を降りるとドアを閉める前にもう一度叫んだ。
「今度! 今度会うときには全てうまくいくわ。だからぜったい待ってて!」
そして、すぐに江口に背を向けた。