喪失・4
麻里は江口からの電話を待っていた。もう三日、毎日のように江口へ電話をかけ続けているが、いつも留守番電話になって、江口が出ることはなかった。
(なぜ出てくれないの?)
切なさで胸が痛む。
江口の顔が見たかった。江口と話がしたかった。早く江口に相談したかった。留守番電話の声が流れるたびに、麻里は折り返し電話が欲しいとメッセージを残した。だが、それでも江口から電話がくることはなかった。
あれ以来、勝人が暴力的な行為をすることはまったくなかった。まるで悪い夢を見たような気持ちがしてくる。しかし、麻里の心のなかにはしっかりと勝人を恐れる気持ちが刻み込まれていた。
(どうすればいいの?)
もう離婚を言い出すことは出来ない。もし、再び離婚を口にすれば、今度こそ本当に殺されるかもしれない。
そっと首元をさすった。
首元にはあの時の指の跡がまだ痣になって残っている。これこそがあの夜のことが現実だったという証だった。
痣はいずれ消えるだろう。だが、心のなかに植え付けられた勝人に対する恐怖心が消えることはないだろう。
(いっそのこと逃げてしまえば――)
でも、江口はどう思うだろう。快く受け入れてくれるだろうか。
早く江口と話がしたかった。
* * *
江口から電話があったのはそれから二日後の昼間だった。
――いったいどうした? 何かあった?
江口の声は少し警戒しているようだった。
「ちょっと話したいことがあって……」
――何?
「会いたいの。会って話したいの。これから会えない?」
――無理だよ。俺だって忙しいんだ。
「そう……そうね」
――話があるなら今言ってくれないかな。
直接、江口の顔を見て話したいという気持ちは強かったが、それでも麻里は口を開いた。今はともかく江口に話を聞いて欲しかった。
「あの……この間、主人と話をしたの?」
――話って? まさか――
「あ、べつにあなたのことを話したわけじゃないの。ただ別れたいって切り出したの」
――……それで?
「……殺されかけたの」
あの時の苦しみが思い出される。
――殺されって……そんな旦那じゃなかったんじゃないのか? パソコン以外に何の興味もない大人しい人だって言ってたじゃないか。
驚いたように江口が言った。
「私だってそう思ってたわ。あの人があんなことするなんて……でも、実際殺されかけたのよ。今度また離婚を言い出したら殺すって言われたわ。私、どうすればいいの?」
江口からの答えはなかった。それでも麻里はさらに続けた。
「ねえ、いったいどうすればいいの? 私、あの人と別れたい。別れてあなたと一緒になりたいの」
麻里は訴えるように言った。
――ちょ、ちょっと待ってくれよ。そんなこと急に言われたって。
「どうして? 私のこと愛してないの?」
――そんなこと言ってないだろ。
「だったら私を助けて」
――ま、待ってくれよ。そんなこと言われても俺だって困るよ。
江口は迷惑そうに言った。
「じゃあ、私とのことはどういうこと? ねえ、私のこと愛してくれてるんでしょ。私が殺されてもいいって言うの?」
――少し、考えさせてくれ! また連絡するから。
それだけ言うと江口は一方的に電話を切った。
麻里にとって江口の対応は心を不安にさせるものだった。なぜ、江口はあれほどまでにうろたえたような声をだしたのだろう。
愛し合っている。そう今までずっと信じてきた。
(遊び? 私はあの人にとって便利なだけなの?)
考えたくなかった。
(違う! あの人は私を待っていてくれる)
麻里は必死にそう思い込もうとした。
* * *
勝人は相変わらずだった。
いつものように時間通りに家を出て、そしていつものように帰ってくる。会話もないままにテレビを観ながら食事をし、食後はすぐにパソコンに向かい、そして、眠る。退屈なドラマのワンシーンを録画したビデオを、何度も繰り返し見せられている気がしてくる。
麻里は隣のベッドでぐっすりと眠っている勝人を見つめながらあの夜のことを思い出していた。
穏やかな寝顔。
あの夜のことが嘘のように感じられる。あれは本当にこの人だったのだろうか。
あの時の首を絞められた跡はやっと消えた。けれどあの時の衝撃は決して忘れられないものとして記憶に刻み込まれている。
もし、また別れ話を口にすれば――
(本当に殺される)
あの時の勝人の顔を思い出し、麻里は身を竦めた。思い出すだけであの時の恐怖が蘇ってくる。
突然、吐き気が襲ってきた。
麻里は口を押さえながら寝室を飛び出すと、トイレへと駆け込んだ。
「ぐぅ……ぇ……」
甘酸っぱい胃液が押し出されてくる。
(これは……)
その瞬間、それが何であるかを悟った。
調べるまでもない。この感じは以前にも一度経験している。あの時は産むことは出来なかった。
江口の顔が脳裏をよぎる。
父親が江口であることは間違いない。
告げるべきだろうか……。産むことを許してくれるだろうか。もう二度とあんな辛い思いはしたくない。
新たな不安が心になかに広がっていた。