喪失・3
首筋につけられたキスマークがはっきりと見てとれる。
麻里は鏡に向かい、そのキスマークをファンデーションで隠すべきかどうかを迷った。だが、結局そのままにしておくことに決めた。
(どうせ、あの人は気づくはずがない)
これまでもそうだった。もちろんこれまではファンデーションなどで隠してはいたが、もしそうしなくても気づかなかったに違いない。むしろ今日、気づくようなことがあればあの人のことを考え直してもいい。
(気づかなければあの話を切り出してみよう)
麻里にとっての小さな、そして重大な意味のある賭けだった。
勝人はいつもの時間に帰り、いつものように食事をした。そして、麻里の予想通り勝人はそのキスマークに気づいた様子はなかった。もちろん麻里は一切キスマークを隠そうとはせず、むしろどんな角度からでもキスマークが見えるように、いつもよりもシャツのボタンを一つ多くはずしていた。だが、それは何の効果もなかった。
勝人は食事が終わると、いつものようにパソコンに向かった。その勝人の態度は麻里にとって極めて腹立たしいものだった。
ついに麻里は勝人の横に立ち、いらだちを押さえ切れずに問い掛けた。
「何か気づかない?」
それがいかに馬鹿な行為だということはわかっていたが、勝人の態度に我慢することが出来なかった。
「何か? 何のこと?」
勝人は一瞬ちらりと麻里に目を向けたが、すぐにパソコンの画面に視線を戻した。
「何か変わったことがないかって聞いてるの」
「さあ、髪でも切った?」
のんびりとした勝人の声が麻里の心をいらつかせる。
「いいえ、そんなことじゃないわ!」
「どうしたの? 何か怒ってる?」
不思議そうな顔で勝人は麻里のほうへ顔を向けた。
「べつに怒ってなんかいないわ!」
「じゃあ、どうして怒鳴るの?」
この人は本当にわかっていないのだろうか。それともわざととぼけているだけなのだろうか。
「あなたって本当に私のことなんてどうでもいいのね」
「そんな――」
「もう嫌!」
賭けは終わった。「私たちもう終わりにしましょう」
「なんだって?」
思わず勝人は麻里の顔を見た。初めて勝人の顔に驚きと焦りの表情が見て取れた。
「別れたいの」
「じょ……冗談だろう」
ひきつったような無理な笑顔が勝人の顔に見えた。
「冗談でこんなこと言うはずがないでしょ!」
「や、やめてくれよ……まったく冗談にしちゃひどいよ」
冗談で済まそうとしている。あやふやにしようとしている。結婚するまえからそうだった。何か難しい問題が起こると常に冗談ではぐらかそうとする。けれど、今がチャンスかもしれない。
「いいかげんにして! 私は本気で言ってるのよ! あなたのそういうところが一番嫌なのよ!」
「……」
勝人はうつむき黙り込んでしまった。
「何か言ったらどうなの!」
「……」
「都合が悪くなると黙ってればいいと思って! あなたと一緒にいてももうつまらないのよ。私はもっと自由に生きたいの!」
脳裏に江口の顔が浮かぶ。そうだ、あの人と一緒ならば心は満たされる。こんな思いはしなくてもいい。
その時だった。
「……だめだよ……」
俯いたままで小さく勝人がつぶやいた。「そんなことを許すと思ってるのか?」
その口調は静かだが、これまでとは違っていた。
「許すも何も――」
「僕は認めないからな!」
そう言って勝人が顔を上げた。これまで聞いたことのない強い口調だった。目にうっすらと涙が浮かんでいる。
「な、何言ってるのよ。もう嫌なのよ!」
「勝手なこと言うな! 僕がいつ君の自由を奪ったっていうんだ!」
「それは――」
「うるさい! 口答えするな!」
麻里は思わず怯んだ。こんな勝人の姿を見たのは初めてだった。涙をためたその目はしっかりと麻里を見据えている。
勝人はさらに続けた。
「僕は……僕はずっと君のことを自由にさせてきたじゃないか!」
「あたしが言っているのは――」
「黙れって言ってるんだ! 僕の気持ちも知らないで! そ……それをそんなふうに……貴様!」
そう言うと勝人は立ち上がり、麻里に近づいてきた。そして、その腕を麻里の首に伸ばした。突然のことに麻里は防ぐことなど出来なかった。いや、わかっていても何も出来なかったかもしれない。
勝人の指はしっかりと麻里の首に絡みつき、恐ろしいほどの力で締めあげられ声を出すこともままならない。
「や…やめて……」
息苦しさのなか、勝人にこれほどの力があったということに麻里は驚いていた。麻里は必死になって勝人の腕を外そうともがいた。だが、その腕は麻里の力ではびくともしなかった。
「二度と別れるなんてこと言うんじゃない!」
恐かった。これほどに勝人に恐怖したことはなかった。意識がしだいに薄れていく。
(殺される……)
その時、麻里は死を覚悟した。
だが、意識が消えかけたその瞬間に喉から圧力が消え酸素が肺に流れこんできた。そして、麻里の身体はそのままばたりと床に叩きつけられた。
「ぐぇほ……ぐぇふぉ」
苦しさで涙があふれてきた。その苦しさが生きていることを実感させた。蹲り喉を押さえながら、なぜかキスマークのことを考えていた。
(この人は見ただろうか?)
だが、それについて勝人は何も言おうとはしなかった。
「いいな、僕は死ぬまで絶対おまえと別れないからな」
そして、勝人は背を向けた。
死ぬまで、そう勝人は言った。その言葉がやけに強く頭に刻み込まれた。
* * *
由美はじっとキャンパスに向かっていた。
こうしていると嫌なことの全てを忘れていられる。
「また絵を描いてるのか?」
背後から声をかけられ、由美はびくりと身体を震わせ振り返った。伸一が戸口に立っている。思わず壁の時計に目をむけた。すでに夜の11時を回っている。
「あ……おかえりなさい。ごめんなさい気がつかなかった」
「まあ、いいさ。俺よりも絵のほうが大事なんだろ?」
皮肉めいた伸一の言葉に由美は眉をひそめた。
いつになったらこんな言い方を止めてくれるんだろう。それとも自分が慣れてしまうほうが早いんだろうか。
それでも由美は素直に謝ることを選んだ。言い合いをするよりも謝ってしまったほうが簡単だ。
「ごめんなさい」
「もう何時だと思ってるんだ? 奈美は?」
「もう寝たわ」
由美は立ち上がると、伸一の押し退ける形で部屋を出た。酒の匂いが漂っている。またどこかで飲んできたのだろう。
「なんだ、土産買って来たっていうのに」
「起こさないであげて」
「ずいぶん優しいお母さんみたいなことを言うじゃないか」
「からまないでよ」
「からんでなんかいないだろ!」
ムッとした顔をして伸一は由美を突き飛ばした。由美は壁に寄り掛かり、なんとか踏み止まった。
(怒っちゃだめ)
由美はいつものことだと自分に言聞かせた。
「そう、わかったからお風呂湧かすから待ってて」
「ふん、何でもかんでもわかったようなこと言いやがって」
伸一は舌打ちしながらソファに倒れこんだ。そして、部屋の隅に置かれたダンボール箱に気づくと――
「あれは何だ?」
「弟から届いたの。母さんの物だって」
浩也から母の荷物が届いたのは今日の昼間だ。中には母のアルバムや小物が入っている。
「何だ、ゴミか」
詰まらなそうに伸一は言った。
その言葉に思わず言い返したくなるのをグッと堪えた。何を言ってみても今の伸一には伝わるはずもない。
由美はその姿を横目で見ながら、これからの自分の人生はどうなっていくのだろうと思うのだった。