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夢喰い  作者: けせらせら
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喪失・2

 翌日、勝人を送り出すと麻里はすぐに出掛ける準備をはじめた。勝人が帰ってくる心配はまったくなかった。何が起ころうと途中で引き返してくる人ではない。駅までは車で行き、そこから市役所までは電車で20分。以前、定期券を忘れた時でさえもマンションの下で気づいたくせに戻ることをしなかった人だ。極端なほどに自分のたてた予定が崩れることを嫌う。

 心がウキウキと弾んでいる。久しぶりの気持ちだった。

 約束まではまだ2時間以上もあるというのにすでに支度は出来てしまった。インディゴブルーのスーツを着込み、お気にいりのオープンハートのイヤリングを身に着けて江口を待った。麻里はその格好のまま、ベッド脇にうずくまると窓から差し込む暖かな日差しを身体にあびた。

――話があるんだ。

 何の話なんだろう。ふと、気になった。

(どんな話でも構わない。あの人に会えるなら)

 こんな時は時間がたつのが嫌に遅く感じる。

 ふいに眠気が襲ってきた。

(やだ、なんでこんな時に……)

 江口が迎えにくるまでには時間は十分ある。それでも眠りたくはなかった。どんなに早く江口が来ても良い状態でいたい。

 しかし、その睡魔は麻里が抗うことを許さなかった。

 麻里の意識はゆっくりと夢のなかへと吸い込まれていった。


 声が聞こえてくる。

「誰?」

 人の影がうっすらと見える。

「誰なの?」

 その影はゆっくりと歩み寄ってくる。黒のハットをかぶり、黒いコートを着込み、サングラスをかけた異様な姿の男。

「だ……誰?」

 なおも、麻里は声をかける。だが、男はその麻里の問い掛けには答えようとはしなかった。

 男は麻里の前に来ると立ち止まった。

 身体が震えてくる。なぜ、こんなに怖いのだろう。麻里は恐怖で男の顔を見ることが出来なかった。ただ、男の足元を見つめ考え続けた。

(この男は? ここは?)

 そして、麻里の心はしだいにほぐれていった。

(そうだ、これは夢だ)

 そう考えれば怖いことなんてない。ほんの少し眠ってしまっただけ。すぐに目覚めればこの男だっていなくなる。

「夢だって?」

 頭の上から声が聞こえ、麻里は思わず男を見上げた。男のにやにやと笑った顔が見えている。

 言葉が出なかった。男はもう一度言った。

「夢だって? そんなふうに楽観視しているわけか?」

「いったい……」

「そう恐がることはない。俺はあんたの味方だ」

 静かな物言いだった。だが、その口調とは裏腹にその男の秘めた不気味さはひしひしと麻里にも伝わってくる。

「味方?」

「そう、あんたの味方だ」

「どういう意味なの?」

「意味? あんただってわかっているだろう。ほら」

 男は今まで後に回していた手を麻里に向けた。サッカーボールくらいの大きさのものがゴロンと麻里の目の前に転がった。

「え?」

 麻里には一瞬、それが何なのかわからなかった。

「それが何かわかるだろう。それがおまえの夢だ」

 その言葉を引き金に、麻里の目はその物体が何であるかを捕らえた。

 それは――


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 麻里にはその声が誰のものなのか一瞬わからなかった。そして、それが自分の声だとわかった時、麻里は身体の力が抜けていくのを感じた。

(夢……そう……夢だ)

 麻里は自分がついうとうとと眠ってしまったこと。そして、江口を待っているのだということを改めて自分に言聞かせた。言聞かせなければならないほどあれは現実身をおびていた。

(それにしてもあれは?)

 最後にあの男が麻里によこしたあれはなんだったろう? 最後に目にしたはずだ。だからこそあれほどの恐怖を感じたのだ。

 しかし、それほど怖かったものを、今はすっかり忘れてしまっている。

(いいわ。どうせ夢なんだもの)

 悪い夢ならば忘れてしまったほうがいい。今は嫌なことは忘れて楽しいことだけを考えたかった。

 そう、江口のことだけを。

 まだ十一時を回ったばかり。

(少し心を落ち着かせよう)

 麻里はキッチンへいくとほんの少しワインをグラスにそそいだ。そして、それを一息で飲み干した。

 喉を熱く赤いワインが流れていく。

 一息つくと身体から余計な力が消えていくのを感じられる。

(これで忘れてしまえる)

 麻里はそう思いながら、さらにワインをグラスにそそいだ。


   *   *   *


 江口はいつものように優しかった。

 口調とは裏腹のその優しさこそが麻里にとって魅力だった。

「仕事、大丈夫なの? サボってて上の人に怒られない?」

 ホテルのベッドのなか、江口の胸に寄り添いながら麻里は問いかけた。時刻はすでに午後2時を回っている。

「大丈夫、営業中だからね」

 江口は麻里を抱き寄せながら笑ってみせた。

「これも営業なの?」

「そうだよ。お得意様にはいつも親切にしておかないと」

「あら、あたしはお得意様ってわけ?」

「そう」

 そう言って江口は麻里に熱く深いキスをした。

 この一時が麻里にとって退屈な生活を忘れさせてくれる唯一の時間だった。若々しい江口と一緒にいることで自分自身までが時間を遡れるような気がしてくる。

「そういえば……話があるって言ってたけど、何?」

「ああ……」

 江口は咄嗟に視線をそらした。「今日はやめとこう」

「何か言いづらいこと?」

「いや……たいしたことじゃないんだ。また今度にしよう」

 その『今度』という言葉がやけに嬉しかった。

「今度? いつ会えるの?」

「さあ……」

「あなたっていっつも突然になって連絡してくるんだもの。どんなに私から電話しても会ってくれないくせに」

 麻里は江口の表情を見ながら言った。

 いつも突然に電話をかけてきては会おうとする。そして、真直ぐにホテルへ向かう。今日のように前日に電話がかかってくることなど珍しい。

(この人は私の体だけが目的なのかしら)

 そう思うこともあったが、それでも江口と一緒にいるだけで麻里は幸せに感じられ、それ以外のことはどうでもよくなってしまう。

「突然、会いたいと思うからさ。でも、いつだって会いたいと思ってるよ」

 そんな優しい言葉にいつもごまかされてしまう。それでも麻里は江口のことを愛していた。この一瞬が永遠であればいいと願うほどだった。もちろんそんなことがありえないことは麻里だって知っていた。

 江口は麻里の細い体を引き寄せた。江口の唇がそっと首筋を這う。そっと瞳を閉じて、麻里は小さく声をあげた。


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