喪失・1
いったいいつになったら退院できるかなぁ
ボク、お母さんと一緒に見つけた石、いつも大切にしてるんだ。あれはボクの御守りなんだ。
これでボク、元気になれるよね?
どうしたの? どうして泣くの?
* * *
麻里が部屋に駆け込んだ時、確かにテーブルの上に置かれたピンクの携帯電話は鳴り響いていた。つい一週間前にダウンロードしたばかりの着メロのサビの部分が電子音によって何度も奏でられている。
麻里は蹴り飛ばすように靴を脱いで居間に飛び込むと、予めそれが誰からのものか知っているかのように急いで電話を取った。
「はい――」
その電話は麻里の予想通りの相手からだった。
――やあ、俺、江口……だけど、今、忙しいの?
麻里が電話に出ると相手はさぐるような喋り方で名乗った。
「大丈夫。今、私一人だから」
息が切れているのを隠すようにしながら麻里は言った。
――そう。良かった。
安心したように少し声のトーンが変わる。
「どうしたの?」
――久しぶりに会おうかと思って……
その言葉に麻里は思わず嬉しくなった。
江口広から電話がくるのは3週間ぶりだ。しかも、いつもは麻里のほうから電話して会ってもらってばかりだ。
「いつ?」
こうして電話しているだけでワクワクしている。ここ一ヵ月はろくに話すことすら出来なかったのだから仕方がない。
――明日の昼、仕事でその辺まで行くからその時に
「うん、わかった」
――それじゃ――
「ね、ねえ――」
切られそうになり慌てて声をかける。
――なに?
「仕事忙しいの? 最近なかなか会えなかったわね」
――ああ、ちょっとね、今も仕事中なんだ。ちょっと抜け出してきたんだ。悪いけど詳しい話は明日するから
ぷつりと電話が切れた。
江口と知合ったのは九ヵ月前。それまで乗っていたセダンが故障し、買い替えることにしたことが原因だった。あまり車には興味のない夫の勝人の代わりに麻里が中古車業者をまわり、そのセールスをしたのが江口広だった。
江口は30歳になったばかりの麻里よりも三歳若く、麻里はその若々しく爽やかな存在に心を動かされた。
「それにしてもツイてますよ」
試乗してる時、助手席に座った江口はそう言って爽やかな笑顔を見せた。
「何が?」
「こんな綺麗な奥さんとドライブ出来るんですからね」
「まあ」
「いや、どっちかというとツイていないのかな。いくら綺麗だって他人の奥さんなんですからねえ」
そう言われて思わず顔を赤らめた。
それがお客に対するリップサービスだとはわかっている。それでもそういうセリフは嬉しかった。
麻里が江口と男と女として関係を持ったのはそれからわずか三日後のことだった。
ほんの小さな火遊びのつもりだった。しかし、それ以来、麻里の心は冷めることなく日に日に江口にのめり込んでいった。
夫の勝人に対する罪悪感もすぐに消えていった。
勝人は麻里よりも一歳年上の31歳。市役所に勤めている。結婚して5年、今では夫婦の関係もなく、ただの同居人程度にしか見ることが出来ない。
むしろ江口のためならばこの家庭を捨ててもいいと思っている。幸いにも勝人の間にまだ子供はいない。結婚当初はまだ25歳と若く、子供はもっと先につくればいいと考えていた。そして、30歳になった今は別の理由で子供をつくろうとは思わなくなっている。
(あの人の子供はいらない)
だが、子供がいるいないに関わらず勝人が離婚に承諾してくれるだろうか。それに離婚の原因が麻里の浮気にあると知られれば、慰謝料を支払わなければいけなくなるかもしれない。まだ、それらのしがらみを全て無視してまで江口と二人でやり直すまでの決心はつかなかった。
(いっそのこと死んでくれればいいのに)
そんなことを考えることがある。
もし、完全犯罪ということが可能なら――
(やってるかも……)
ふと、そんなことを考えている自分がおかしくなった。
何を馬鹿なことを……。自分に殺人などと怖ろしいことが出来るはずがない。
――出来たとしたら?
そんな声がどこからか聞こえたような気がした。
「まさか」
まさか、自分が本気でそんなことを願うはずがない。いくらなんでもそんなことを望むほど残酷な女ではない。
麻里は写真立てに飾られた結婚前の自分と勝人の姿をじっと見つめた。
あの頃は冗談でもこんなことを考えたりしなかった。
いつからこんなふうになってしまったんだろう。
* * *
勝人の帰りはいつも早かった。
結婚して以来、帰宅が十時を過ぎたことなど数えるくらいしかない。遅くなる時には必ず電話をいれる。そんな自分とはまったく違う生真面目さが結婚当時は魅力だった。
(どうしてこんな人と一緒になったんだろう)
5年前、麻里は建設会社の事務員だった。それほど熱心に勤めていたわけでもなく、仕事は結婚までの腰掛程度としか考えていなかった。
(良い男を見つけて早く結婚しよう)
毎日、そんなことばかり考えていた。
勝人が麻里にとって理想のタイプだったわけではない。そもそも勝人と結婚したのは麻里にとってちょっとしたハプニングだった。勝人と出会う少し前、麻里には結婚を誓い合った恋人がいた。相手は大手広告代理店の営業マン。一度は妊娠し、仕事を辞めようとしたこともあったが、その時はまだ彼のほうが結婚に躊躇していたこともあって、泣く泣く中絶することとなった。いずれは幸せな家庭を作ることが出来る。それはもう目の前だと信じていた。だが、そんな麻里の思いを裏切るように、その男は他に女を作り、そのあげく相手に子供が出来たからといって簡単に結婚してしまった。それは麻里にとって文字通り人生を変えるほどの失恋となった。ちょうどその頃、仕事上の付き合いで勝人と知り合った。見るからにまじめそうな勝人の姿が新鮮に思えた。
(この人なら浮気なんてしない……他の人に取られることもない)
勝人と結婚したのは、そんなほんのはずみでしかなかった。
もちろん、勝人のことは嫌いというわけではない。そのおだやかな性格は麻里の傷ついた心全てを癒してくれるのではないかと感じられたし、決して麻里の自由を奪うことはないだろうと思えた。だが、日を追うごとに麻里は勝人に満足出来なくなっていく自分を感じていった。
「どうかしたの?」
三杯目のご飯を口にいれながら、勝人は銀縁眼鏡のその奥にある穏やかな目を麻里に向けた。162センチの麻里よりも勝人は3センチ背が低い。その割に食事の量は多く、でっぷりと太った体は昔の映画に出てくるマシュマロマンを思いおこさせた。
「え? 何が?」
「なんかぼうっとしてるよ。何か悩みでもあるの?」
「ううん、べつに」
「ならいいんだけど」
そう言うと勝人はすぐにテレビのバラエティー番組へと視線をうつし、もう麻里には興味を失ったかのようにげらげらと笑いはじめた。
麻里はそんな勝人の様子をじっとうかがった。
なぜ、この人は毎日帰ってくるんだろう。私はこんな人のことなど望んでなんていないのに。
いつもそう思ってきた。
むしろよく5年も結婚生活が続いたものだ。
江口との出会いが、勝人との結婚が大きな間違いだと麻里にはっきりと気づかせることになった。江口は麻里を捨てた男にどこか似ていた。
(私が求めていたのはただの気分転回でしかなかった。もうこの人の役目は終わった)
今は早く江口に会いたかった。
このまま江口との関係が続けば、勝人は江口のことを気づくだろうか。勝人とはここ半年間ベッドを共にしていない。勝人から麻里の体を求めてくることもなかった。だが、自分の変化に勝人が気づいてもおかしくはない。
だが、勝人は気づかないだろうと麻里は予想していた。勝人はそれほど細やかな神経などもちあわせてはいない――というよりも、勝人もまた麻里に対しあまり多く興味を抱いているとは思えなかった。勝人が興味を持っているのはパソコンだけ。食事が終わり風呂に入るとすぐにパソコンの前に座る。それが勝人の毎日だった。
これまで髪型を変えようと、新しい服を購入しようと勝人が気づくことはなかった。そんな勝人に自分の変化をわかるはずがない。だからといって勝人が麻里を簡単に手放すとは思えなかった。勝人は『引き返す』ということを極端に嫌う性格だった。『引き返す』ということが人生を駄目にするとまで思っている。そして、離婚は当然その『引き返す』ことの一つとなる。さらに勝人は今の生活に満足している。帰ってくれば食事が待っている生活。風呂がわいている生活。放っておいても部屋を掃除してもらえる生活。
勝人にとって、自分はただのハウスキーパー程度にしか思われていない気がする。
(そんなつまらないことでいつまでも縛られていたくない)
麻里の思いは強くなる一方だった。
この日も勝人は、風呂からあがるとすぐにパソコンの前に座った。
麻里は一人寝室に入ると鏡の前に上に座り、そっと乳房に触れながら江口のことを思った。
(早く、私を連れ出して)
この五年間の失ったものを取り戻したかった。