「古賀海未:畏怖」
入校式から数日。
私達から佐藤の生活は、表面上は安定しているように見えていた。
男子区画は女子寮の一角を二重扉で隔離した箇所で、構造上の脆弱性はないが、心理的な圧迫は常時発生している。
入浴時間も制限され、洗濯は教官立会いで、移動時は我々が後方に付く。
制度としては完全だが、その実態は隔離に近い軟禁と言える。
自分が逆の立場だったらと考えると、息苦しくて耐えられないと思った。
しかし、佐藤はその運用の理由や妥当性を理解し、少なくとも表面上は受け入れている。
凡そ男性とは思えない精神力だと、徐々に私達の中で畏怖の感情が湧いてきていた。
今日は術科で10km持久走が執り行われる予定だ。
私たちは佐藤の姿態を撮影する者の可能性も考慮し、非番の人員を含めて周囲警戒を維持しつつ、彼の走行を警護していた。
私は運よく佐藤の動静監視の任務であり、その走りを目で追っていた。
初動は抑制しているようで、それほど息は上がっていない。
中盤からは少しペースを速め、それを維持し、終盤で順位調整したように見えた。
結果は6位の42分11秒、突出はしていないが男性としては驚異的な走りであることは間違いない。
「……こんなものか。」
女子生徒から佐藤に対する評価の声が聞こえる。
的確だが優秀でもなく、劣等でもない、最も扱いに困る位置だ。
私の目には、佐藤は、意図してそこに収まっている可能性を感じた。
一定の評価から外れないための最適化とも言うべきだろうか。
その時、左耳に付けていたイアホンから異常の第一報がなった。
『佐藤居室に侵入者有り。学生1名。人着にあっては、165㎝前後、中肉、制服姿、ネームプレート未着のため氏名不詳。』
居室内の挙動変化を検知した、巡回中の同僚の声が響いた。
『目的が分かるまで侵入者の動向監視を継続、教官にはこちらから報告する。盗撮の仕込みの場合はカメラの方向も注力して把握に努めろ!』
無線から山村の怒号が聞こえる。
『現時点で応援は不要、各員は持ち場継続!』
そこから、十数秒沈黙が続き、再びイアホンから声が聞こえる。
『マル被は窃盗目的、窃取はノート1冊、USBメモリ1個。間も無く居室から出ます。確保しますか?』
『静観だ。色情盗や盗撮目的でないなら静観。追いかけてそいつの居室を割れ!ヅカれるなよ!』
『了解!』
無線の内容から、佐藤の居室での盗難が発生し、何故か男性被害者であるにも関わらず静観を指示されたことが分かる。
しかし、私には意図が全く分からない。
持久走が終わり、私が控室に戻ると山村が腕と足を組んで座っていた。
その表情からは怒りがかすかに読み取れた。
「古賀戻りました。先ほどの無線の対応……静観で良かったのでしょうか?」
私の質問に対して、山村は深いため息をついた。
「……警護課員としてはありえない。しかし、今の上が『静観せよ。』と職務上の命令を出す以上逆らえん。……服務規程は最優先だ……警備部門は特にな。」
私は一瞬言葉を失い、それでも押し返すように問いを重ねた。
「……なぜ、そこまでして静観させるのでしょうか。」
山村は小さく鼻で息を吐き、椅子の背にもたれた。
「どうやら、上層部は佐藤を辞めさせたい側が優勢らしい。……男なんぞ、プログラム受講後に広報で使う程度で十分だ、あんなのは『精液タンク付き客寄せパンダ』だという連中だ。」
山村は淡々とした口調だったが、その内側にある苛立ちは隠しきれていなかった。
「……佐藤君は、あれだけ適応しているのに。」
私は感情を抑えたつもりだったが、思わず口に出た言葉には、わずかに熱が乗っていた。
山村は私を一瞥し、わずかに口角を上げた。
「まだ数週間だがな。……だが、あれは分かる。男にしておくのは、確かに勿体ない。」
「……同感です。」と私が短く応じると、山村は机の上の資料を指で軽く叩いた。
「で、だ。今回の件だが……生活指導側にも話が回っているらしい。」
「話、ですか。」
「ああ。指導担当の教官には『警察官なら自分で解決しろ』と突っぱねるように、とな。……要するに、佐藤を助けるなということだ。」
それを聞いた私は思わず眉をひそめた。
「……それは、あまりに露骨では。」
「露骨だ。だが、だからこそ表には出ない。……実務的指導、教育的配慮という建前があるからな。」
山村の言葉は冷静だったが、その実、現場の感覚とは明らかに乖離している。
私は腕を組み、しばらく考えた。
「……では今回の盗難は偶発的に起きたことではなく、試験の一環ということですか。」
「発生したのは偶然だろうが、それを奇貨として上層部が辞めさせてプログラム受講に切り替えさせようとしてるんだろうな。」
「……酷い話ですね。」
「……まぁ、それだけじゃないかもしれんが。」
山村の煮え切らない言葉に、私は思わず質問を返す。
「……どういう意味ですか。」
「簡単だ。佐藤がどう動くかを見る。……同時に、それを見ている我々がどう動くかも見ている。」
山村の視線が、まっすぐこちらに向けられる。
「命令に従うのか、逸脱するのか。……どこまでが職務で、どこからが介入か。珍しい男性に肩入れする者はいないのか。警備部として適切な人間なのか、その線引きだ。」
警護対象を守るという単純な任務が、いつの間にか多層的な評価の場に変質している可能性に、私は言葉を失った。
「……歪んでますね。」
率直にそう言うと、山村は小さく笑った。
「今さらだろう。お前はまだ昨日今日だが、それでもその中で、この組織が真っ直ぐだったことなんてあったか?」
私は否定はできず沈黙で返すと、山村は少しだけ声のトーンを落とした。
「だがな……私の読みじゃ、佐藤は、おそらく自分で処理する。」
「……そう、思われますか。」
「ああ。あの目は、受け身の人間のものじゃない。……状況を受け入れて、その上で最適解を探す類だ。」
私は、着校時の佐藤の視線を思い出し、確かに守られる側の目ではなかったと思った。
「……なら、我々はどうすべきですか。」
「少なくとも、今は……見届けるだけだ。」
即答した山村の言葉には、命令への従属と、現場としての矜持の両方が含まれていた。
私は小さく息を吐き、背もたれに体を預ける。
「……厄介な任務ですね。」
私の言葉を聞きながら、視線を資料に戻した山村の口角が、少しだけ上がっていたような気がした。
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「……前代未聞の男性入校なんだ。……余計な問題は起こさないでほしい。」
扉越しに聞こえる生活指導担当教官の声は、敢えて感情を殺しているように聞こえた。
「さて、消灯時刻が近づいている。……寮内の規律は最優先だ。」
その言葉に対して、盗難を訴えた佐藤は返事をしなかった。
「……君はもう警察官の身分だ。盗まれた蓋然性が高いという客観資料を提示しなさい。……それともう1つ、まず自分で解決する方法を考えたらどうだ。」
最後に演技臭くため息を混ぜながら、教官が言葉を投げると、ようやく諦めたのか佐藤が扉を開ける音がした。
私は佐藤が少し落ち込んでいるんだろうと思っていたが、思案の表情を浮かべた佐藤が出てきた。
ここで通常の男性であれば、悲哀か混乱が発生するものだが、佐藤は歩きながらも思考を継続しているように見えた。
佐藤はそのまま無言で居室に帰還し、私は居室の扉前で中の物音に耳を澄ませた。
何かページをめくる音、スマホで何かを撮影した音、何かを鉛筆がノートを叩く音、が交互に聞こえる。
山村の読み通り、自己解決に導くのか、私は気になって眠れず、夜通し居室の音に耳を傾けた。
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翌朝のまだ空が白みきらない時間帯から、佐藤の居室内には微かな物音があった。
指定されている起床時刻よりもはるかに早い。
規則違反ではないが、明らかに意図的な行動だ。
私は壁越しに気配を追いながら、昨夜の一連の動きを反芻していた。
報告、却下、沈黙と、男女問わず通常の被害者であれば、あの時点で思考は止まる。
だが佐藤は止まらなかったどころか、すぐに自己解決の方法を思案していたのだろう。
ほどなくして、扉が開く音が聞こえ、規則通りの動作、無駄のない足運びで佐藤が現れる。
だが、昨日までと進行方向が違い、教官室のある管理棟方面に向かっていた。
私は相勤員に目配せし、2人で一定距離を保って後を追う。
私達からの介入は禁止されているが、観察は命じられている。
その境界線を踏み外さないよう、距離と視線の角度を調整する。
佐藤は関教官の出勤時刻に合わせたかのように、教官室前で停止した。
ノック後、返事が聞こえると間を置かず入室。
迷いがないその姿は、とても入校数週間の、しかも男性の動作には見えなかった。
私は小さく息を吐いた。
警察大学校に男性で入学出来たというのは、温情や性別的優位があったのではなく、実力が圧倒的だったのではないか。
高校卒業後に男性は4年間のプログラム受講をするという制度、それを拒絶しさらに自身の道を進もうとするのは、並大抵ではないと、今になって思った。
そして今回の件、入校直後の学生が出来うる対応ではない。
扉越しに関の「私も立ち会おう。全入校生分のガサより効率が良い。」という声が聞こえた。
僅か数分の間で、『手を出すな』と言われていた教官を納得させ、協力を取り付けたということだ。
出てきた佐藤の表情からは、やはり何も読み取れない。
しかし、私の中では恐ろしく優秀な男性であることは間違いないと、確信に変わった。




