第20話「空上戸」
警察大学校の敷地内、厚生棟の隅にひっそりと佇む居酒屋『さくら』。
20歳を超えた学生である3年生から、週末の限られた時間だけ利用が許される。
しかし、今日のこの場所は、関教場の貸し切り営業だ。
3年生への進級が確定した教場は、2年生の学期納めとして利用するという伝統があるためだ。
関教場の面々は、普段の過酷な管理から一時的に逃れられる聖域の雰囲気に当てられ、酔わずとも盛り上がっていた。
「……はぁ、ここ2年で一番生きてる心地がする……」
干川が、アルコール度数の低いサワーを思いっきり喉に流し込み、深いため息をついた。
俺を国家資源として距離を縮めようとしていた干川は、最近では男性に対する価値観が揺らぎ始めているようだ。
変に近づいたり媚びるようなことも少なくなり、同じ人として尊重するような空気に変わり始めていた
以前の干川なら、グラスを持つ手を俺の腕に触れさせたり、肩を寄せようとしただろう。
だが適切な距離を保ったまま、目線だけでこちらを測っている。
「干川、一気に飲みすぎ。廊下でゲロったら、関教官に絞られるわよ。」
朝倉が呆れたように言いながら、焼き鳥の串を外す。
「大丈夫、大丈夫、……大丈夫だから、今日はさすがに飲ませてよ……」
「その大丈夫が命取りでしょ。」
いつも見ている軽口の応酬だが、その奥にある力関係は少し変化している。
「……佐藤。」
朝倉が俺に対して視線を投げつけた。
朝倉は、フォレンジック演習で俺に指導されたことを契機に、俺を超えるべき壁として定義していた。
その口調には、揶揄いは消え、好敵手に対する奇妙な親愛が混じっている。
「次は、助言なしで勝つから。」
その短い宣言にはいつもの冗談の調子は、もう混じっていない。
「ああ、期待してる。」
俺がそう返すと、朝倉はわずかに口角を上げた。
そのやり取りを横で見ていた横峯が、小さく息をつく。
「……佐藤…はい、これ。」
皿に盛られたカシューナッツ炒めが、自然な動作でこちらに置かれる。
「タンパク質多くて、男性の身体に良いらしいから……体力落としたら困るでしょ。」
以前とは違い、その視線にはわずかな熱があった。
非常階段での一件以来、横峯は俺の共犯者としての立ち位置を確固たるものにしていた。
「……佐藤。貴方のせいで、この班の平均値が異常に引き上げられているわ。」
姫野が冷めた緑茶を口にしながら、淡々と告げる。
俺を嫌悪する視線は少し和らいだが、今は俺と横峯の関係を疑いの目で見ている。
「不快か?」
俺が端的に問い返すと、姫野は一瞬だけ考える様子を見せた。
「……不快と評価は、分けて考えるべきね。」
明確な線引きを言う姫野から、嫌悪が残っていることが理解できた。
だが、それとは別に俺を認めるという合理的な選択をしている。
その姫野の判断を、俺は信用出来ると感じた。
「……面倒くさ。」
干川が頬杖をつきながらぼそりと呟いた。
「なんかさ、佐藤に出会うまで、男ってもっと単純だと思ってた。」
こちらを見ないまま干川がグラスを指で回している。
「近づけばいい、タイミングの合う日に一回だけ選ばれればいい、それだけだって。……でも……違うんだね。」
干川が初めて男性に対する意識に訂正を表した瞬間だったが、その言葉に朝倉が軽く吹き出す。
「こんだけ佐藤見てて、今さら?」
「うっさいなぁ」
2人のやり取りは軽いが、その内側では確実に『これまでの国家資源としての男性像』が崩れている。
視線を外すと、机の端に一人だけ温度の違う存在がいる。
グラスを持つ手は安定しているが、目は据わっている。
そんな姿を見せている最上、既に酔いが回っているのは明らかだった。
「……来年こそ、佐藤に勝つ……成績で、全部証明する。」
最上はそのままグラスを傾け、小さく呟いた。
「……努力は、必ず嘘つかないから。」
だが、成績至上主義のその声はわずかに揺れていた。
俺は心の中で、全員が同じ地点に立つ必要はない、むしろ全員の特性にあった精神性が維持できることが重要だと思っていた。
俺は、そっと視線をテーブル全体に戻す。
横峯が俺の隣で微笑んでいる。
朝倉が俺への挑戦者になった。
干川は俺によって常識の前提を疑い始めた。
姫野は俺の評価を切り分けた。
最上だけは、俺をまだ拒絶している。
こうして見ると、着校時にはどこか距離があり、俺のことは国家資源としてしか見ていなかった班員達の態度はかなり変わった。
俺たちの間に芽生えたのは、友情と呼ぶにはあまりに危うく、だが同期と呼ぶには十分に重い、卵のような連帯感だった。
「……佐藤、聞いてるの!?」
朝倉の大きな声で、意識が戻る。
「聞いてるさ。」
俺はそう答えながら、ウーロン茶が入っていたグラスの氷を回しながら、この喧騒を楽しんでいる自分に気付いた。
精子の運動率が悪くなるとか横峯が世話を焼き始めたため、俺はソフトドリンクしか飲んでいないのに、酔いに近い感覚がある。
ふと夜風に当たりたくなり、俺は騒がしい店内から外に出た。
外では冬の名残の静かな雪が降り始めていた。
「……いい面構えになったな、佐藤。」
背後から扉の開く音とともに響いたのは、関の声だった。
関は、はらはらと落ちる雪を見つめる俺の隣に立ち、白い息を吐いた。
「お前はこの2年で、ただの国家資源から、『警察官幹部候補生』に変貌した。周囲の連中が、お前を男性ではなく、一人の警察官として認め始めているのがその証拠だ。」
「……教官……私は…候補ではなく、刑事としてきちんと認められたいと思っています。」
関教官が、微かに口角を上げた。
「……そうか。最初から一貫したその姿に各教官たちも賞賛している。勿論私もだ。ただ、応援はしているが、男性が捜査現場に立つことに対し、上は懐疑的あるいは、否定的な意見しか抱いていない。……2年連続成績優秀者だというのに。」
俺は視線を教官へ向けた。
「3年目は実戦形式の捜査演習や各警察署での実習も始まりますよね。私はそれが出来ない可能性があると……?」
「その質問への回答は持ち合わせていない。実務修習は3年の後期からだから、まだ上の判断が出ていないんだよ。……私としては、佐藤は現場でもやっていけると思っているがな。」
関はそう言って雪が降る空に視線を上げた。
思いがけず認められた喜びと、3年生での自身の待遇の不安で、胸がざわめく。
「何とか認めていただけるよう善処します。前期は実践的な講義・演習となるでしょうし、そこで糸口をつかみます。」
「頼もしいな。…3年時点では、より高度な実務により、警察官としての執念が求められる。……そして現在の捜査現場は電子データの解析が事件解決を左右する。……そのための特別講師も手配済みだ。」
関は顔を上げたまま、雪の降る夜の闇を見据えていた。
「何というか、有難いお話ですね。そのような最前線の方にご指導頂けるなんて。……できれば、物凄く厳しい指導をお願いしたいです。」
俺は関の方を見ながら、少し声を張った。
「ああ、それは問題ないだろう。彼女は警察組織の技術屋だ。佐藤の更なる飛躍の一助になると、期待しているといい。」
関教官はそれだけ言い残し、居酒屋の喧騒へと戻っていった。
降りしきる雪の中、俺は白く染まっていく世界をじっと見つめていた。
これまでどこか現実感の無い講義にプロのメスが入るということは、紛れもなく現実の事件が相手になる。
その現実に、俺が立てる保証はどこにもない。
白く染まる視界の中で、それでも俺は、目を逸らさなかった。




