第16話「短兵急」
「男は結局、守られるだけの『国家資産』でしかないのよ。」
術科訓練場の板間に、最上の冷ややかな声が響いた。
柔道着の帯を締め直す彼女の瞳には、昨日の講義で横峯が見せた鮮やかな回答への苛立ちがあった。
「どれだけ頭が良くても、想定を考えるのが上手くても、現場で暴れる被疑者を前にしたら、あんたはSPの影に隠れることしかできない。」
最上はそう言って俺を睨みつける。
「それが現実よ、佐藤。」
訓練場の隅では、スーツ姿のSPたちが正座をして無表情にこちらを凝視している。
俺が入学したことで男性用の術科訓練計画が作られたが、体力向上訓練以外の科目は護身に重点が置かれていた。
怪我をさせないこと、そして何より国家資源としての価値を損なわないことが最優先だ。
女子学生との本格的な組手は非推奨であり、それには、女子学生との組手等により、女性への恐怖が芽生えてしまうという精神的な恐れも考慮されていた。
だが、今日の術科教官は違った。
「最上。そんなに不満なら、お前が直接試してみろ。」
教官の一言で、教場内の温度が数度上がった。
周囲にいた学生たちが距離を取り、道場の中心に俺と最上のための空間が作られる。
「いいの?佐藤……あんたに傷でもつけたら、私は懲戒モノなんだけど…」
そう言いながらも、最上が真っ直ぐな敵意を向けてくる。
最上にとって、警察官とは『文武両道』だというのは、これまでの生活で理解している。
正義を実現するための法執行、それを完遂するためには高い思考水準と、圧倒的な物理的優越が必要だ。
その価値観において、守るべき国家資源である俺が成績トップに君臨していることは、許しがたい矛盾なのだろう。
「気にするな。……警察官なら、相手の心配をする前に自分の足元を固めておけ。」
「よし、佐藤と最上、徒手対短刀でやれ。前半は佐藤が徒手。」
逮捕術は、柔道、剣道、空手、合気道等、複合的な要素が組み合わさった実践的格闘技のようなものだ。
当然、武器を把持した被疑者に素手で相対することも想定されている。
俺は教官の指示に従い、逮捕術用の甲手を付け、開始線まで向かい、半身に構え、重心を落とした。
死線を潜り抜けてきた記憶から、理性を失った薬物中毒者、死を恐れない凶悪犯らを思い出す。
それを制圧してきたのは、筋肉の量ではない。
予備動作への嗅覚、重心の理、そして相手の意識を逸らす技だ。
右手で短刀を把持した最上が、俺の正面に立ち、右足を半歩に出した。
面の奥からでもわかるほど、鋭い眼光が俺を捉えている。
「…始め!」
教官の鋭い号令とともに、最上が踏み込んできた。
最上の短刀による鋭い刺突は、単なる訓練の域を超えた、彼女の意地とプライドが凝縮された一撃だった。
だが、俺の視界には、その刃の軌跡がスローモーションのように映っていた。
前世で経験した本物のナイフの凶気に比べれば、最上の動きはあまりに真っ直ぐすぎて、次の挙動が手に取るようにわかる。
俺は半歩、左斜め前に踏み込んだ。
合気道における基本、『入り身』だ。
「……っ!?」
最上の短刀が、俺の防具の脇を虚しく通り抜ける。
最上の体勢が前のめりに流れた瞬間、俺は迷わず左手で彼女の短刀を把持する右手首を、下から掬い上げるように掴んだ。
そのまま、突進の慣性を利用し、右手で最上の右肩を突く。
力はそれほどかけず、重心のバランスを崩す方向へ、わずかに力を添えるだけだ。
最上の身体が、板間の上で鮮やかな弧を描き、背中から叩きつけられ、道場全体を震わせるような衝撃音が響く。
「まて!」
教官の鋭い宣告があったが、俺は止まらない。
逮捕術では、倒れた相手に対して、直ちに技を施したときが一本となるためだ。
俺は膝で最上の右肩を制圧し、そのまま彼女の短刀を持つ手首を逆方向に捻り上げた。
逮捕術における関節技だ。
「……あぐっ……!」
面の奥で、最上の苦悶の表情が歪む。
俺がさらに力を込めようとした瞬間、最上の指先から短刀が滑り落ち、板間に乾いた音を立てて転がった。
「そこまで!一本、白!投げ、及び関節技!」
主審の旗が、俺の側である白へと斜め上に上がる。
開始から、わずか十数秒の出来事だった。
教場内は、水を打ったような静寂に包まれた。
SPたちは立ち膝となり、戦闘態勢に変わったまま、表情は変わらずにいた。
その無表情な仮面の奥で僅かに動揺したのが、空気の震えで伝わってくる。
「……う、……嘘。」
朝倉の呟きが、静寂を破った。
俺が周囲を見渡すと、干川は、手に持っていたタオルを握りしめたまま固まっている。
そして姫野は、一点を見つめるように俺の動きを凝視していた。
彼女の瞳にあるのは、もはや嫌悪ではないように感じた。
自分の理解の範疇を超えた俺と言う異物に対する、戦慄に近い観察眼に思えた。
最上は、床に伏せたまま動かなかった。
それは、『国家資源である男は弱く、守られるだけ』という、最上が信じて疑わなかった世界観が崩れたからなのだろうか。
「……最上、立て!まだ終わってないぞ!」
教官の声が、凍りついた空気を切り裂く。
最上はフラフラと立ち上がり、開始線へと戻った。
面の奥の瞳は血走り、屈辱で激しく揺れている。
「……今のは、ただの偶然よ。あんたが、そんな動きができるはずがない……!」
最上の言葉はまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
「後半、用具替え。佐藤、短刀!最上、徒手!」
逮捕術の試合規程に基づき、攻守が入れ替わる。
俺は短刀を拾い上げ、右手に馴染ませた。
最上は今度こそ俺を国家資源ではなく『敵』として認識し、牙を剥こうとしている。
俺はその空気を感じながら、右足を半歩前に出し、短刀を構えた。
そして静かに、最上の喉元の方角へと切っ先を向けた。
俺の周囲の空気が、さらに一段階、冷たく、鋭く変質した。
「始め!」
最上が、吠えるような気合とともに、捨て身のタックルを仕掛けてきた。
なりふり構わず、俺を押し潰そうという執念の塊。
だが、短刀を手にした俺にとって、その突進は隙だらけの挙動に過ぎない。
俺は左足を軸に、わずか数センチ体を開いた。
最上の体が俺の横を通り抜ける瞬間、俺は短刀を把持した右手の柄頭で、彼女の顎を思いきり打ち抜いた。
「が……っ!」
衝撃で最上の頭が跳ね上がる。
脳を揺らされた彼女の膝がガクリと折れた。
「一本!白(佐藤)、顎部への当て身!」
主審の旗が再び白く翻が、最上はまだ諦めていない。
屈辱で顔を歪ませ、乱れた柔道着をなびかせながら再び立ち上がる。
彼女の目には、もはや国家資源だという意識はなく、ただ自分を否定した異分子を破壊したいという原始的な怒りだけが宿っていた。
「……殺してやる、佐藤……っ!」
絶叫とともに、最上が左右の連打を繰り出してくる。
俺はそれを最小限の動きで捌き、彼女の手首を制した。
そのまま、短刀の刃体ではなく、小手(腕)を使って彼女の肘関節を逆方向に固定する。
「う、あ……あぁぁっ!」
最上の体が、自重と関節の痛みで床に沈み込む。
俺は伏臥状態の彼女の背後に回り、膝でその首筋を制圧した。
「そこまで!一本、白!固め技!前半・後半合わせて、白の勝ち!」
道場に静寂が戻る。
あるのは、激しい呼吸を繰り返す最上の喘ぎと、衣擦れの音だけだ。
俺は床に伏したままの最上を見下ろし、極めて平坦な声で告げた。
「……警察官になりたいなら、力ではなく、その力を適切に管理し、必要な時に発揮する方法を学べ。」
俺の言葉に、最上は返事すらできなかった。
跡形もなく粉砕されたのだ。
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訓練後の道場で俺の班員の間には、これまでとは明らかに異なる空気が流れていた。
「……ねえ佐藤、さっきのどこで習ったの?」
朝倉が、いつもの軽口を封印し、探るような目で俺を見た。
「独学だ。図書室にある逮捕術の教本は全部目を通しているが。」
「嘘でしょ。あんなの、何百回と人を転がしてなきゃできない動きだよ。」
干川が、濡れた額をタオルで拭きながら口を挟む。
これまでの種付け狙いとして擦り寄ってきた雰囲気とは異なり、得体の知れない肉食獣を間近で見た時のような、本能的な警戒心が混じっていた。
姫野は、ただ黙って俺の背中を見ていたが、その沈黙は、もはや嫌悪には感じなかった。
そんな中、横峯だけが、実家から届いた質素なタオルを差し出してきた。
「佐藤、お疲れ。……うちの教場最強だった最上が、あんなに手も足も出ないなんて。」
彼女の言葉には、皮肉も嫉妬もなかった。
ただ、俺が、自らの力で周囲の評価を書き換えたことに対する、静かな称賛だけがあった。
俺は、もはや守るべき国家資源ではなく、圧倒的な『異分子』として認識されていた。
そしてこの班員内では、それに惹かれ、あるいは恐れ、背中を追い始める仲間へと変質し始めていた。
着替えを終え、非常階段に出ると、俺はいつもの通り煙草に火をつけた。
紫煙の向こうで、初夏の夕陽が警察大学校の無機質な校舎を赤く染めていた。
「……やりすぎたか。」
独りごちた言葉は、夕闇の中に溶けて消えた。
5人の関係は、もはや後戻りできない段階へと進みつつあった。




