第14話「発火点」
「……何の真似なの、佐藤。」
埃が月光に照らされる放課後の旧講堂に、横峯が姿を現した。
「関教官に呼び出されたと思ったら、あんたが待ってるなんて。」
手垢が着いた参考書を抱え、その指先はわずかに震えている。
「次の中間考査に向けた実務演習の補習だ。横峯、お前はこのままじゃ落ちるぞ。」
「分かってるわよ! ……あんたに何がわかるのよ。」
彼女の叫びが、誰もいない講堂に突き刺さる。
「守られて、SPに囲まれて、……男だからここから逃げても生活は出来て……どうなっても食いっぱぐれ無いあんたに……そういう心配したこと無いくせに……!」
横峯は俺の方を睨みつけながら、両手を震わせていた。
「……もう、限界なの。」
横峯の瞳からは涙が溢れそうだった。
「小豆島で、母さんと祖母ちゃんが二人で細々と続けてきた『だし醤油』の製造が、今年の大豆の不作で止まったのよ。仕込みが出来ないってことは、来年の収入がゼロになるってこと。……昨日、母さんから電話があったわ。妹が、高校を退学して働くって……。」
横峯の手は、白くなるほど思いきり拳が握られ、ボロボロの参考書が音を立てて曲がっていく。
「……あの子、あんなに行きたがってた高校なのに。……こんな時に、何が法律よ。何が擬律判断よ。……条文なんて、一文字も頭に入ってこないんだよ。」
俺は、睨むような視線をしっかり見据えた。
「……それなら、条文を覚えるな。」
横峯が一瞬呆けたような表情に変わった。
「警察は法と現実繋ぎ合わせるのが役目だ。文字が追えないなら、『被害者の顔』を想像しろ。」
俺は横峯に一歩近づいた。
「お前がここで挫折した時、……本来ならお前が助けられたはずの誰かが、泣き寝入りすることになる。」
横峯の溢れそうな涙が、ようやく一滴零れた。
「……その被害者の無念さに比べれば、……お前の実家の借金なんてただの数字だ。……警察官なら、目の前の被害者を最優先に考えろ。」
「……っ、あんた何で、そんな酷いことが言えるわけっ……!」
「言えるさ。……俺は、そういう現場を……『見てきた』からな。」
そう言いながら、前世の記憶を思い出す。
現場の血の匂い、凄惨な目にあった被害者、法を犯した被疑者の表情。
俺の記憶に刻まれた映像が、自分の表情を険しくした。
それが、周囲の温度を下げ、横峯が喉を鳴らして息を呑む。
俺は横峯の手から手垢のついたノートを無造作に奪い取り、空いたページにペンを走らせた。
「法律は、弱者を守るための盾じゃない。悪人を捕え、司法の場へ引きずり出すための『武器』だ。……横峯。お前はその武器をただ重いと言って、頬を濡らす被害者を前に捨てるのか?」
痛いほどの沈黙が流れる。
「その武器を手にしても、実家のお金問題は解決しないんだよ。」
消え入りそうな小さな声で横峯が呟いた。
「各学年上位3人には、通常の給与とは別に特待生給与が出る。月額20万円ほどの加算が次の考査までな。……お前がここで奮起することが、お前を含めた家族を救うことになるんじゃないか?」
やがて、横峯は震える手で、だが力強くノートを奪い返した。
「……やる。……佐藤に負けないくらい、その武器、使いこなしてやるから。」
横峯の瞳に、もはや迷いはなかった。
それから、地獄のような夜の特訓が始まった。
俺は前世の記憶、警視庁刑事としての全経験を解き放ち、横峯に教えた。
教科書的な綺麗事ではなく『現場の刑事が、どういう条文を武器として研ぎ、被疑者の急所を突くか。』、『被害者が何を求めていて、それを達成するためにどうすればいいのか。』等を徹底的に叩き込んだ。
横峯は必死に食らいついてきた。
彼女の目は、日増しに鋭くなっていき、本来の真面目さも相まって確実に警察官としての資質を取り戻していった。
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そして、二週間後の放課後。
中間考査の結果が掲示板に張り出されると、その前に人だかりができた。
「……嘘、でしょ。」
朝倉が呆然と呟き、最上が顔を真っ赤にして舌打ちをした。
横峯奈美の名前が、全科目トップの俺のすぐ下、2位の位置に、凛として刻まれていた。
周囲の心配や嘲笑を、その実績だけで黙らせた瞬間だった。
掲示板に張り出された結果を確認した後、俺は寮棟の裏にある非常階段の踊り場で、独り夜風に当たっていた。
当たりを見ると、既に夕闇が辺りを包み始めている。
数メートル先には、影のように音もなく、2人のSPが配置についている。
彼女達は俺の安全を監視しているが、この場所は風の音に紛れて声が届きにくく、俺がようやく見つけた数少ない聖域だった。
「……佐藤、やりすぎ。あんなの、他の子が立ち直れなくなるじゃない。」
背後から届いたのは、ハスキーだが、隠しきれない弾んだ響きを帯びた横峯の声だった。
振り向くと、彼女の手には場違いなほど鮮やかな緑色のパッケージが握られている。
「……吸うのか。肺を汚すだけだし、金の無駄だぞ。習慣になる前に捨てろ。」
俺は、今年度二十歳になったのを機に、前世の記憶に刻まれていた銘柄を吸い始めていた。
正常な精子の含有率云々という指導が入ったが、そんなうるさい健康管理を、完璧な数値の検査結果で黙らせて、勝ちえた息抜き手段だ。
「そっちこそ。国家資源の『含有率』が下がったら、やばいんじゃない?」
「異常が出ない範囲で調整してるんだよ。……それにしても、横峯には似合わないな。」
「……今日、売店で買ったの。あんたがいつもこれを持って行くの、放課後の指導中に知ってたから。……なんとなく、同じもの吸いたいって思ったんだけど……バカよね、本当に似合わない。」
横峯は自嘲気味に笑い、慣れない手つきでライターを回す。
だが、夕方の冷たい風に煽られ、火は一向に点かない。
俺は自分の口に咥えていた火のついた煙草を指で挟み、彼女に一歩近づいた。
「貸せ。……動くなよ。」
「え……?」
俺は困惑する彼女の顔を引き寄せ、自分の煙草の先端を、彼女の咥えた煙草の先にそっと押し当てた。
赤く燃える火が、俺から彼女へと移り、2人の間に小さな火の散る音が聞こえる。
睫毛がぶつかりそうなくらいの至近距離。
横峯の瞳が大きく見開かれ、そこには戸惑いと、言葉にできない熱が浮かんでいた。
「……っ。」
横峯が小さく息を吸い込むと、彼女の煙草の先が明るく灯った。
俺が指を離して距離を置くと、彼女は呆然としたまま、白い煙を細く吐き出した。
「……佐藤。あんた、自分が何をしたか分かってないでしょ。」
「火を貸しただけだ。」
「……男が女の煙草に直接火をつけるのがどういう意味か。……普通なら、このまま夜の誘いか、恋愛関係への署名みたいなもんだよ。」
横峯は顔に上った朱を隠すように視線を外し、再び紫煙を吐き出す。
「……バカ、本当にバカ。そんなことも知らないで……。」
「法は知っているが、この世界の甘ったるいマナーまでは興味がない。……煙草は毒だ。その毒を共有する同期が出来たってくらいの感覚だよ。」
「……毒の共有、ね。男のくせに、本当、可愛くない言い草。」
横峯はそう言って、初めて刑事のような不敵な笑みを浮かべた。
夕闇の踊り場に2つのメンソールの火が、赤く、だが力強く明滅する。
「……ありがと。佐藤。あんたがいなきゃ、私……今頃、島に帰って自分を呪ってた。」
横峯は再びタバコを口につけ、小さく咽せた。
「……ぇほ……んっ…さっきさ、特待生手当の手続き、してきたよ。これで、家族を守れる。妹も高校辞めなくて良くなるよ。」
「……そうか。良かったな。」
俺はそう言って、短くなったタバコの火を消し、携帯用灰皿に吸い殻を入れた。
その様子を黙って見ていた横峯が、拗ねたように口を開く。
「私が1本吸い終わるまで、ここにいて。……国家資源様を数分独り占めする特権くらい、今の私にはあるはずだから。」
そう言って横峯は深く煙を吸い込み、空を見上げた。
その横顔は、なぜか俺の目にはとても綺麗に映った。




