世の中にたえて桜のなかりせば
週明けの水曜日、私はまた短歌部の部室の前に足を運んでいた。ポスターを見たときの衝撃。先輩たちの議論に覚えた高揚感。それらの感情をもっと良くしたいという気持ちが足を動かした。
ひんやりとした廊下で扉をノックすると、中から返事の声が聞こえた。前回は分からなかったが、三上の声だろう。ドアノブを掴んでゆっくりと開く。今回は深呼吸は要らなかった。
「やあ、朝倉さん、今日も来てくれてありがとう」
三上の声を皮切りに、木暮や藤原からも歓迎の声が届けられた。
しかし、今回はそこにもう一人男性がいた。
「Hi! 君が朝倉さんですネ!」
短歌部の面々の中でも一際明るく陽気な声かけに少し面食らいつつ、簡単に自己紹介をする。男性は短歌部の顧問を名乗った。
「英語科の高橋アランです。よろしく!」
「高橋先生は顧問と言っても時々活動に参加することもある程度なんだ。今日はたまたま高橋先生もいる日だな」
横から三上が付け足してくれた。改めて顔を見ると、どこか日本人離れした雰囲気があった。
「私は母親がアメリカ人なんですよ」
目があった高橋からそう補足されて、少し気まずさを覚える。視線の置き場所を探して周りを見ると、小暮と目があった。目があったことに気がついた木暮はニコッと笑みを向けてくれた。
「高橋先生、朝倉さんにも今日の本題を教えてあげてください!」
「そうですネ。今日は私が選んだ短歌を皆さんで鑑賞していただこうと思ってきました。選んだ歌はこれです」
高橋はそう言って短冊をホワイトボードに貼り付けた。
–––––世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
「有名な歌ですよね。聞いたことがある気がします」
藤原が自信なさげに言った。答えはすぐに明かされた。
「はい。この歌は在原業平の詠んだもので、古今和歌集に収録されたことで知られていますネ」
「ちなみに、古今和歌集っていうのは平安時代に作られた歌集のことだよ。一年生だとまだ授業では出てきてないかな?」
「…中学でちょっと聞いた気がします」
微かな記憶を探りながら答えると、木暮も高橋も暖かい頷きを返してくれた。
「業平は古今和歌集を代表する歌人である六歌仙の一人で、『その心余りて言葉足らず』とも評されていますネ」
そこで言葉を止めた高橋は、部員の顔をさっと見回す。
「解説はそのくらいにして、今日はみなさんに感想を語り合ってもらいましょう。三上君」
「はい。じゃあ、少し時間を取ってそれぞれ自由に鑑賞してもらおうか。その後で感想を話し合うことにしよう」
そう言って三上はこちらに顔を向けた。
「朝倉さんも歌を見てみて、何か感想があったら後で聞かせてほしい」
その言葉は優しく、プレッシャーを感じるものではなかったので、安心して頷きを返すことができた。先輩たちは静かにホワイトボードの短歌を見て、感想を考えているようだ。藤原は時折ノートにペンを走らせている。
しばらく静かな時間が流れたところで、三上が顔を上げた。
「よし、それじゃみんなで話してみようか。木暮はどう思った?」
「はい。この歌のテーマは散る桜だと思います。ただ、“散る”という言葉を使っていないのに、それが伝わってくるのがすごいところだと思います」
「藤原はどうだ?」
「俺もテーマはわかりやすいと思います。ただ、ちょっと遠回りしすぎで個人的には好きじゃないです。素朴に散らなければ良いと言った方が、深みは薄れますが歌としてもっと訴えるものにできるのではないかと思いました」
「なるほどな。じゃあ、朝倉さんは何か思ったことはあるかな?」
三上も他の三人も優しい顔をこちらに向けていた。その顔に背を押されるようにして、思ったことを口に出す。
「私は春の景色が伝わってくると思いました。ただ、なんとなく寂しい感じがしました」
「うん。ありがとう。最初はなんとなくこう思ったみたいなイメージを伝えるだけで大丈夫だよ。ちなみに俺は、終わりの“まし”の使い方が上手いなと思ったな。反実仮想という言葉は国語の授業で聞くと難しいけど、この歌だと素直に伝わってきたな」
「部長、反実仮想ってなんでしたっけ…」
「反実仮想は、もしナントカだったらナントカだろう、という現実に反した想像のことだ。言ってしまえば、妄想だな」
「確かに、そんなのあった気がします…」
「お前、試験大丈夫か?」
「うっさいなー。それより、この歌は遠回りだからいいんじゃん。ね、朝倉さん」
「えっと、遠回りだから伝わってくる気持ちもある気がします…」
「それはそうだけどさ。俺は深みと分かりやすさのバランスも大事だと思うんだよ」
「それは俺も藤原に賛成だな。ただ、この歌はそのバランスが取れている方だと俺は思う」
会話の合間を縫うようにチャイムが一つ鳴った。
「みなさん、いい感じに盛り上がりましたネ。興味深く聞かせてもらいました。見学の時間は終わりのようですから、一旦ここまでにしましょうか」
「そうですね。朝倉さん、今日も来てくれてありがとう」
「ありがとう、朝倉さん」
「朝倉さん、感想聞けてよかったよ。また来てね!」
訪れた下校時間に足を急かされるように、短歌部で過ごした時間に後ろ髪を引かれるように、慌ただしく部室を後にする。
昇降口と校門を抜け、駅までの桜並木に出る。散る桜の見え方が少し変わった気がした。二度目の訪問で、何かが少しだけ変わった気がした。




