第1話「定時退社の同心、追放令嬢と出会う」
人の世は、光があれば影がある。
ダンジョンの輝きに隠れ、蔓延る悪の華。
権力を笠に着て、弱きを虐げる外道ども。
法が許しても、この世間は許さない。
晴らせぬ怨み、聞き届けよう。
流せぬ涙、拭いましょう。
仕掛ける罠は「配信」。
下す審判は「炎上」。
そして最後に待つものは――
ダンジョン仕置人、稼業開始。
定時までには、片付けます。
カッ、カッ、カッ……。
薄暗い行灯の明かりの下、渇いた筆が紙を擦る音だけが、部屋に響いていた。
「……またでござるか。第3層の昇降機、ワイヤーの摩耗率が基準値を超過。あそこは先週、注油を指示したはずでござるが」
男は、深いため息をついた。
葛葉左近。
王都の地下に広がる巨大迷宮を管理する役所――「ダンジョン管理課」に所属する同心である。
だが、その姿に「冒険」の二文字はない。
着古して色の褪せた茶色の着流しに、無造作に結った髷。目の下には消えない隈があり、背中は長年のデスクワークで丸まっている。腰に差した十手だけが辛うじて役人の身分を証明しているが、それとて書類の山に埋もれて見えない。
「現場の冒険者は『宝箱の罠が作動しなかった』とクレームを入れ、上層部は『予算がないから騙し騙し使え』と言う。……板挟みはご免でござるよ」
左近はボヤきながら、書き損じた和紙を丸めて投げ捨てた。
前世は、ブラック企業で品質管理とクレーム処理に追われ、過労の果てに心臓を止めた社畜だった。
だからこそ、この異世界に転生した時、神に誓ったのだ。「二度と命を削る働き方はしない。定時で帰り、適度にサボり、長生きする」と。
今の役職は「施設管理員(メンテナンス担当)」。
華やかなモンスター討伐とは無縁の、ひび割れた壁を直し、錆びた蝶番を取り替えるだけの地味な仕事だ。だが、それでいい。定時で帰れるなら、それが最高の職場だ。
「よし。報告書は完了。あとは第5層の巡回点検を済ませれば、今日の業務は終了……定時退社でござる」
左近は立ち上がり、大きく伸びをした。
時刻は逢魔が時。壁の向こうで、退勤を告げる鐘が鳴ろうとしていた。
***
地下第5層。
湿った苔の匂いと、微かな魔素の燐光が漂う石造りの通路を、左近は角灯を提げて歩いていた。
時折、コンコンと壁を小さなハンマーで叩き、反響音で強度の劣化を確認する。地味な作業だ。
その時だった。
「――お待ちしておりましたわ」
暗がりから、凛とした声が響いた。
左近はピタリと足を止め、眉をひそめる。
そこに立っていたのは、この薄汚いダンジョンには似つかわしくない、極上の絹着物を纏った美女だった。
黒髪を艶やかに結い上げ、雪のような白い肌をしている。だが、その瞳には冷ややかな光が宿っていた。手には、精緻な装飾が施された手鏡――魔道具「幻灯鏡」が握られている。
「……一般人の立ち入りは禁止区域でござるよ。迷子なら、出口はあちらでござる」
「とぼけないでくださいまし。葛葉左近。ダンジョン管理課の『昼行灯』……いいえ、卓越した『構造解析』のスキルを持つ、隠れた実力者」
女は、左近の正体を正確に言い当てた。
彼女の名は、九条小夜。
かつて公爵家の令嬢として名を馳せたが、無実の罪を着せられ、婚約破棄の末に追放された「悪役令嬢」だ。その噂は、下級役人の左近の耳にも届いていた。
「……人違いでござるな。拙者はただの、うだつの上がらない道具屋崩れでござる」
「嘘はおっしゃらないで。先ほど、崩れかけた天井を一瞬の視線だけで見抜き、迂回されたでしょう? 貴方のその目……魔力や構造の『歪み』を見る目は、職人のそれですわ」
小夜は一歩、左近に詰め寄る。
幻灯鏡が怪しく光り、彼女の悲壮な決意を映し出すように揺らめいた。
「私を雇いなさい。貴方のその技術で、私を陥れた者たちに罠を仕掛け、その無様な姿をこの鏡で世界中に『配信』してやりたいのです。復讐の舞台装置を、貴方に作っていただきたい」
復讐。配信。罠。
どれもこれも、左近が最も忌み嫌う「トラブル」の匂いがした。
左近は、右手をひらりと振って、露骨な拒絶のポーズをとる。
「お断りします」
「なっ……!?」
「拙者の就業規則に反するでござる。復讐劇などというカロリーの高そうな案件、残業確定ではないでござるか。定時で帰って、ぬる燗を一本つけて寝る。それが拙者の望みの全て。貴族の痴話喧嘩に巻き込まれるのは御免こうむる」
左近は冷たく言い放つと、踵を返した。
背後で小夜が何かを叫ぼうとしたが、それを無視して歩き出す。
関わってはいけない。あれは、修羅の道だ。
そう自分に言い聞かせ、通路の角を曲がった、その時である。
「キャンッ!!」
短い、悲痛な鳴き声が通路に響き渡った。
左近の足が止まる。
その声には聞き覚えがあった。この第5層に住み着いている、白い野良の子犬だ。
親とはぐれたのか、一匹で震えていたのを、左近が巡回のたびにこっそりと干し肉を分け与えていた。最近では左近の足音を聞くと、尻尾を振って寄ってくるようになっていた。名前はまだないが、心の中で「銀次」と呼んでいた。
嫌な予感がした。
左近は舌打ちをし、早足で角を戻る。
そこには、数人の男たちがたむろしていた。
派手な鎧に、身の丈に合わない大剣。仕立ての良いマント。
一目でわかった。金にあかせて装備を揃えただけの、貴族のドラ息子たちによる「初心者狩り」のパーティだ。
その中心で、一人の男が笑っていた。
男の足元には、白い毛玉のようなものが転がっている。銀次だ。
銀次は、腹を蹴られたのか、苦しげに喘ぎながらも、必死に左近の方へ這い寄ろうとしていた。
「ギャハハ! なんだこの駄犬。汚ねぇな」
「おい見ろよ、魔獣の幼体じゃねぇか? 殺せば経験値になるんじゃね?」
「よーし、俺の新しい剣の試し斬りだ!」
男が、銀次の小さな体を踏みつける。
グリ、と鉄のブーツが銀次の背骨を軋ませた。
クゥン……と、消え入りそうな声が漏れる。
――プツン。
左近の頭の中で、何かが切れる音がした。
それは、長年ブラック企業で培ってきた「忍耐」という名の安全装置が、焼き切れる音だった。
就業規則? 定時退社? 事なかれ主義?
そんなものは、今この瞬間、どうでもよくなった。
許せないものがある。
労働基準法違反よりも、サービス残業よりも、何よりも許せない「一線」が、左近にはあった。
それは、「弱き者」が理不尽に踏みにじられることだ。
左近の纏う空気が、一変した。
猫背だった背筋が伸び、濁っていた瞳に、研ぎ澄まされた刃のような光が宿る。
先ほどまで「うだつの上がらない役人」だった男は消え失せ、そこには歴戦の「仕事人」の気配が立ち昇っていた。
「……テメェ。今」
地を這うような低い声。
貴族の男たちが、ギョッとして振り返る。
そこには、鬼の形相で歩み寄る左近の姿があった。
左近の手には、いつの間にか十手ではなく、腰袋から取り出した「商売道具」――巨大なモンキーレンチが握られている。
「あぁ? なんだおっさん。管理課の掃除屋か? 邪魔だ、失せろ!」
男の一人が剣を抜こうとする。
だが、遅い。
「その犬に、何をしたと聞いてるんでござるよ……!!」
左近の怒号が、ダンジョンの石壁を震わせた。
それは、静かなる「仕置き」の始まりの合図だった。
小夜は物陰から、その光景を呆然と見つめていた。幻灯鏡が、怒りに燃える左近の姿を、そして彼から溢れ出る圧倒的な威圧感を、克明に映し出している。
定時は過ぎた。
ここからは、残業(裏稼業)の時間である。
(第2話へ続く)
【次回予告】
「人の世は、金と欲とが絡み合い、弱き者が涙する。法で裁けぬその怨み、配信に乗せて晴らします。
次回、『巨大レンチ、火を吹く』。
……定時過ぎても、残業でござる




