大切な人②
「コンクリートにでも座って、乾かそうか」
陽太と美羅は、人影まばらな砂浜の外れにある防波堤の端に、持参していたバスタオルを敷くと、その上に腰かけた。
美羅と並んでコンクリートの上に座り込んだ陽太は、少しずつ水平線に近づいていく太陽を眺めながら、考えた。
――このまま、地球の自転が止まってしまえばいい。
自転が止まると一日の長さが一年になってしまうため、本当は止まってもらうと困る。しかし、今ならそれも許せてしまいそうなぐらい幸せだった。
美羅が、陽太の肩に自分の肩を預け、空を見上げた。
そのとき、陽太の頭にふと一つの疑問が浮かんだ。
今まで当然のこととして受け入れるあまり、確かめてみようと思ったこともなかった、素朴で小さな疑問だった。
陽太は、傍らで陽太に体を預けている美羅の横顔に尋ねた。
「美羅のお父さんやお母さんは、なぜ君に美羅って名前をつけたんだろう?」
美羅は一瞬、驚いた様子で、陽太の顔を見返した。そして、ゆっくり俯くと、小さく含み笑いをした。
「今更、そんなこと聞くの? 変な陽太」
「どうでもいいといえばそうなんだけど、ちょっと珍しい名前だよね。そういえば今まで、理由を聞いた記憶がなかったなと思って」
美羅は、改めて陽太を正面から見据えた。その目には、恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな気持ちが見え隠れしていた。
「アイドルの坂井美羅、知ってる?」
「ああ。もちろん、知ってるよ」
今から二十年ほど前、短い期間ではあったものの、一世を風靡したアイドル歌手だった。確か、その後はヒット曲にあまり恵まれることなく、演劇関係者と結婚して引退してしまった気がする。
「私が生まれた年、デビュー二年目の彼女が大ブレイクしたの。お母さんが言うには、社会現象に近い盛り上がりだったらしいよ。で、私の名前は、その坂井美羅にちなんでつけたんだって。お母さんが言ってた」
「そうなんだ」
聞いてはみたものの、その回答に対する気の利いた返事を考えていなかった。陽太は、どう返事をしていいかわからないまま、オレンジ色に染まった美羅の横顔を見詰めた。
そんな陽太の視線に気づくでもなく、美羅はやがて腰を上げた。
「そろそろ、車に戻ろうか」
「そうだね」
美羅の言葉に、陽太が腰を浮かせたときだった。
何の前触れもなく、背後の山から海に向かって、一陣の風が二人の間を吹き抜けた。
夕刻の訪れを告げる陸風だったかもしれない。
二人が立ち上がったことで、その場に留まる手段を失ったバスタオルは、風に煽られて数メートルほど舞い上がる。そのまま、防波堤の外側に落下すると、波打ち際にあるコンクリート製の突起に引っかかった。
慌てて駆け寄った美羅は、防波堤の外れに膝を突いて、タオルを拾い上げようと手を伸ばした。
「あっ」という小さな声が聞こえた。その声とともに、美羅の体がゆっくりと傾き、防波堤の向こう側に消えた。
続いて、水しぶきとともに大きな着水音が周囲に響いた。
「美羅!」
陽太は叫びながら、慌てて防波堤の端に駆け寄った。
防波堤の先に目を遣ると、美羅が水面でもがいていた。
生きた心地がしなかった。
陽太は羽織っていたパーカーを脱ぎ捨て、半ば本能的に、海に飛び込んだ。
三月の海は、思った以上に冷たい。足だけ浸かっているときには気づかなかった、痺れるような冷たさが全身を包み込んだ。
だが、ここでひるんでいる訳にはいかない。陽太は、懸命に水をかき、美羅に近づいた。
半ばパニックになっていた美羅は、全身を激しくくねらせながら、両手で無秩序に水面を叩いていた。
「落ち着くんだ! 力を抜いて!」
陽太の声に、美羅の動きが若干、緩やかになった。
その隙を見逃さず、陽太は美羅の体に左手を回し、右手で懸命に水をかく。数メートル離れた場所にある階段に辿り着くと、美羅の手を階段にかけさせ、下から体を押し上げた。
陽太は、美羅に続いて階段から這い上がった。
美羅は、階段の上で地面に両手を突いたままうずくまり、肩で息をしていた。
――よかった……。
美羅の上半身を起こすと、思わず正面から抱き締めた。
美羅は、陽太の肩に腕を回して「ごめんなさい」と声にならない声を上げながら、泣きじゃくった。
「大丈夫、もう大丈夫だから」
――無事でよかった。
美羅が、この上なく愛おしかった。
そして、思った。
――もう、大切な人を失いたくない。
*
「君たち、大丈夫か!」
声に振り向くと、一人の男性が、心配そうに二人を覗き込んでいた。
茶色いセーターの上に青色の法被を羽織った、四十歳代半ばくらいの男性だった。
法被の襟には「青海荘」と書かれている。恐らく、近くの旅館の関係者なのだろう。
「はい、大丈夫です」
陽太が力なく答えると、男性は「それはよかった」と安堵の表情を見せた。
「だが、そのままってわけにはいかんだろう。ついてきなさい」
陽太と美羅はゆっくりと立ち上がり、先導する男性の後ろを歩きはじめた。
その後、二人は男性が働いている旅館に連れていかれると、男性の好意により、温泉を無料で使わせてもらった。
そして、乾燥機にかけた服が乾くまでの間、ちょっとした軽食と説教を頂戴し、帰路についた。




