大切な人①
四、大切な人
その日、ユーフラテス川の近くにある湖のほとりを歩いていたシリアの女神デルケトは、不注意にも湖に落ちてしまった。
原因は、不意に吹いた風だったろうか。あるいは、ぬかるんだ地面に足を滑らせたのだろうか。
デルケトには、わからなかった。
――取り敢えず、助けを求めなければ。
そう考えたデルケトは、助けを求めた。
が、周囲に人影は見当たらない。
当然、助けてくれる人はいなかった。
諦めかけたとき、湖の中から一匹の大きな魚が現れた。
その魚は、何一つ躊躇う様子を見せず、デルケトを背中に乗せた。
そして、そのまま水の中を力強く泳ぐと、デルケトを岸まで運んでくれた。
こうして、デルケトは命を落とさずにすんだ。
デルケトは、精一杯の感謝の意を示した。
しかし、それが理解できたのか、できなかったのか。
魚は、何事もなかったかのように、沖へ向かって泳いでいくと、見えなくなった。
このできごと以降、シリアの人々は魚を食べる習慣をやめた。
そして、デルケトを助けた魚は、みなみのうお座になった。また、その魚の子孫である魚たちも天に上げられて、うお座になった。
*
三月に入ってからというもの、陽太は会社説明会への出席やOB・OG訪問などの就職活動で、忙しい毎日を送っていた。スマートフォンのスケジュールアプリは、就職活動に関連する行事で埋め尽くされていた。
多忙を極める日々のなかで、今日と明日は珍しく、スケジュールに空白ができた。
――久しぶりに、ゆっくりできそうだ。
休日の初日、就職活動という現実からの束の間の逃避を決め込んだ陽太は、ローテーブルの横に座って天文雑誌を眺めていた。すると、キッチンから顔だけを覗かせながら、美羅が微笑んだ。
「知ってる? 今日、駅前のコンビニで新商品のスイーツが発売されたの。後で一緒に買いに行かない?」
陽太が家でくつろいでいることが、よほど嬉しかったのだろう。
「ああ、じゃあ、昼ご飯食べたら、行ってみようか。近くの書店で、買いたい本もあるし」
いつも通りの、陽太と美羅の日常だった。
*
次の日の朝、洗面台で顔を洗っていた美羅が突然、思いついたように陽太を振り向いた。
「もうすぐ、陽太の誕生日だね」
言われて、初めて気づいた。
陽太は、うお座の三月十八日生まれだ。就職活動に追われてすっかり忘れていたが、誕生日は一週間後に迫っていた。
「やっぱり、忘れてたんでしょ。うお座の人って、天然キャラっていうけど、笑っちゃうぐらい当たってるね」
そう言うと、美羅は比喩でも何でもなく、本当に笑った。
思わず、羞恥心をテーブルの下に放置して立ち上がり、抱き締めたくなるほど、眩しい笑顔だった。陽太は、勝手な妄想に一人、顔を赤らめながら美羅を見詰めた。
すると、美羅がタオルで顔を拭きながら提案した。
「今日も、就職関係の用事はないんでしょ。せっかくの休みだから、車で海に行ってみない?」
今、思いついたような雰囲気を醸し出していたが、ひょっとすると昨日辺りから考えていたのだろうか。
海に行くという提案にも驚いたが、車を使うという提案には、それ以上に戸惑った。
「でも、俺、免許持ってないよ。美羅は、持ってるの?」
まさかと思いながら陽太が問いかけると、髪の毛を束ねたまま部屋に入ってきた美羅が、テーブルの横にある財布から、得意げに一枚のカードを取り出した。
初めて見る、美羅の運転免許証だった。陽太は、今この瞬間まで、美羅が運転免許証を持っている事実を知らなかった。
「大学に入ったばかりの頃に、頑張って取ったんだ。凄いでしょ」
確かに、凄かった。同時に、免許証の名前を見たとき、ある思いが条件反射のように頭に浮かんだ。
――美羅。いつ見ても、素敵な名前だ。
口に出すのは恥ずかしかったので、大袈裟に驚いて誤魔化した。
陽太たちは、近所のレンタカー店で車を借りると、午前中に出発した。
*
海に着いたときには、まだ昼前だった。
随分暖かくなったとはいえ、三月の海は、まだ冷たそうだった。砂浜で海を眺める人はいるものの、水に入ろうとする人は、ほとんどいない。
だが、美羅は違った。
砂浜に降り立つなり、ベージュのコートとスニーカーを脱ぎ捨て、砂浜へと一目散に駆け出していく。陽太が止める間もなく、濡れている砂に二十二・五センチの足跡を残しながら、白く泡立つ波打ち際に足を踏み入れた。
足首の上まで海水に浸かった美羅は、まるで初めて海に入った子供のように、無邪気な笑顔を陽太に向けた。明らかに興奮していた。
「ねえ、陽太も来なよ」
陽太は、天真爛漫な美羅の笑顔の前では、いつも無力だった。
「しょうがないなあ」
そう言いながら苦笑いをすると、誘われるがまま波打ち際まで歩を進める。しばらくの間、美羅とともに寄せては返す波と戯れた。
その後、二人はビーチサイドのカフェでお茶を飲んだり、砂浜の外れにある小さな海蝕洞の周囲を歩き回ったりして楽しいひとときを過ごした後、再び砂浜に戻った。
「あ、これ、綺麗!」
美羅の声に振り向くと、彼女の手の中に透明な石が見えた。シーグラスだった。
美羅の手の中にあるガラスの欠片が、やや傾きはじめた太陽の光を受けて、宝石かと見紛うほどにキラキラと眩しく輝いた。
美羅は、サイダーの泡のように薄い青色に光るシーグラスを陽太に手渡すと、間断なく押し寄せる波を気にすることもなく、その場にしゃがみ込んだ。
「もっとたくさん拾って、今日の思い出にしようよ」
美羅が、砂浜の石をさらに数個、拾い上げながらそう言った、次の瞬間。
一際、大きな波が押し寄せた。
美羅は「きゃっ」と驚きの声を上げながら、波から逃げるように陽太に手を伸ばした。陽太は、思わず美羅の手を強く掴んだ。
思った以上に強い力で引っぱられ、不覚にもよろけた。美羅を支えきれなくなった陽太は、そのまま美羅とともに波打ち際に尻餅を突いた。
小さな引き波が、二人の尻の下にある細かな砂を洗っていった。
「あーあ、お尻、濡れちゃったね」
美羅は、悔しそうに声を上げながら立ち上がると、ジーンズの尻の部分についている濡れた砂を、両手ではたいた。




