美羅とミラ②
「それにしても、二人の美羅ですか。モテモテの先輩にとっては、単なる恋人だった女性たちの名前なんでしょうけど、俺にとってはミラっていうと、やっぱり星しか思い浮かばないんですよねえ」
唐突な話だった。
しかし、天体観測が趣味である陽太には、その意味がすぐに理解できた。
「ああ、脈動変光星のミラか」
脈動変光星とは、膨張と収縮を繰り返すことで周期的に明るさを変化させる恒星だ。そのような脈動変光星のなかでも、くじら座のミラは、もっともよく知られている星の一つといっていいだろう。
「子供の頃、父親の天体望遠鏡で初めて見たミラの感動は、今でも覚えているよ」
まるで、生の脈動を繰り返すような星に、当時の陽太はそれまでにない不思議な感動を覚えた。そして、それがきっかけとなって、やがて陽太は天体観測の虜になった。
その延長で、中学、高校では当然のように天文部のドアを叩いた。
今にして思えば、大学生になった陽太が美羅という名に妙に惹かれたのも、潜在意識の中に、生まれて初めてミラを見たときの感動の記憶があった可能性は否定できない。
「先輩も、変光星が好きなんですか。奇遇ですね。俺も好きなんですよね、変光星。明るいときもあれば、暗いときもあるなんて、何だか光と闇を併せもつ人間の二面性に通じるような感じがしません? そういう怪しさ、惹かれますよね」
翔は陽太に向き直ると、思い出したように問いかけてきた。
「先輩、知ってますか?」
「何をだ?」
「ミラって、全天でもっとも有名な脈動変光星の一つですが、同時に連星でもあるんですよ」
連星とは、二つの恒星が重力で引き合いながら、互いの周囲を回っている、いわば姉妹のような星だ。ちなみに、脈動変光星であるのは主星であるミラAで、伴星であるミラBは十等星なので、肉眼で観察することはできない。
「二つのミラが脈動しながらお互いの周りを回ってるって、何か瑠璃川と佐伯って感じしません? なんて、先輩の前で言うのは不謹慎か」
高校時代に佐伯がおこなっていたことに弁解の余地がないとしても、あの殺人事件において、佐伯は被害者、瑠璃川はあくまでも加害者だ。それを連星に例えるなどという話は、確かに不謹慎極まりなかった。陽太は、翔に非難の目を向けた。
だが、不謹慎などと言いながら、翔は反省する様子も、取り消す素振りも見せないまま、元天文部員ならではの会話をやめようとする気配はない。
「でも、少なくとも先輩にとっては、彼女たちは二人で一つの存在だったんでしょ? 美羅という一つの星……」
陽太は、思わず息を飲んだ。固く目を瞑り、唇を噛み締めた。
翔の言葉を、否定したかった。だが、否定する材料は見つからなかった。
――俺の中では、二人の美羅は確かに“一人の美羅”だった。
――佐伯美羅がいない事実に耐えられなかった俺は、知らなかったこととはいえ、佐伯美羅を殺害した瑠璃川美羅を受け入れた。
――その後も、俺は瑠璃川美羅が佐伯美羅ではない事実から、目を逸らし続けていた。
あの事件で心の奥深くに刻み込まれた傷に、再び鋭い刃物を突き立てられたような痛みを覚えた。
陽太の動揺に気づくでもなく、翔は高揚した表情で語り続ける。
「不謹慎ついでに言うと、くじら座、英語で何ていうか知ってます?」
翔はそこまで話すと、顔色を窺うように再び横目で陽太を見た。そして、無言のままで俯いている陽太を確認すると、おもむろに口を開く。
「くじら座は、英語でシートゥスっていうんですよ。クジラを意味する英語はホエールですけど、そうじゃないんですよね。ギリシャ語ではケートス。俺たち日本人はくじら座なんて言ってますが、その正体はギリシャ神話に登場する海の怪獣ですよ。そのケートス、神を冒涜したエチオピアの王妃カシオペヤを懲らしめるために、神の命令で彼女の娘アンドロメダを襲ったものの、勇者ペルセウスに退治されるんですよね。で、そんなケートスですが、イタリアにあったエトルリアっていう国に伝わってからは、死者をあの世に運ぶ役目を担わされるんです」
翔は、愉快そうに笑みを浮かべた。
「ケートスって、俺たち人間から見ると可哀想というか、何とも哀れな役回りですよね。でもまあ、所詮、怪獣ですから、本人がどう思っていたかは知る由もないですけど」
まるで楽しんでいるかのように自説を滔々と語り続ける翔に対して、先ほどにも増して不快感が募った。
これ以上、聞くに堪えなかった。
陽太は小さく口を開き、震えを帯びた声で翔を問い質す。
「今度は、佐伯がアンドロメダで、瑠璃川がケートスという話か?」
苛立ちのこもった陽太の声に驚いたのか、翔は陽太の前に差し出した両手を大袈裟に振りながら、否定してみせた。
「彼女たちがギリシャ神話の登場人物だなんて、滅相もない。ただ、ミラっていう星の名前から、ふと神話を思い出しただけですよ」
陽太はこのとき、翔に対して厳しい視線を送りながらも、自分が感じている不快感の本当の正体に気づきはじめていた。
陽太自身が感じていたのは、翔の意見が不謹慎でありながらも真実を言い当てているが故の、言い換えれば、陽太自身が後ろめたさを感じているが故の不快感だった。
確かに、二人の美羅は可哀想で哀れだった。だが、彼女たちをそのような目に合わせたのは、紛れもない陽太自身ではなかったか。
――俺は彼女たちに、自分にとって都合のいい役割を演じ続けさせてしまった。
――その結果、佐伯美羅を救えなかったばかりか、瑠璃川美羅が自分の罪と向き合うチャンスさえ、奪い取ってしまった。
陽太は、ギリシャ神話の勇者ペルセウスにはなれなかった。人間の心の中に巣食うケートスを退治することもできず、その犠牲となるアンドロメダを助けることもできなかった。いや、最初からペルセウスなどになる資格もない、ただの傍観者に過ぎなかったのだ。
翔の主張は、本人が意識しているかどうかは別にしても、明らかにその事実を示唆していた。
翔の言葉が、陽太の胸に浸み込んで鋭い棘になり、心の奥底に否応なく鋭い痛みを生み出した。
陽太は、宙を見上げた。
――正解は、どこにあったんだ。
――俺は、いったいどうすればよかったんだ。
心臓が、大きく収縮した。思わず、シャツの左胸の辺りを、右手で掴んだ。
苦しさに耐えきれなくなった陽太は無理矢理、自分に言い聞かせようとした。
――きっと、翔の毒に当てられただけなのだ。
しかし、胸の苦しさが収まる気配を見せることはなかった。
翔は、そんな陽太の表情を注意深く探っている様子だったが、再び目を細めると突然、脈絡もなく一方的な提案を持ちかけてきた。
「もしよかったら、今から軽くお茶でもしませんか?」
翔の笑顔によって現実に引き戻された陽太は、つくり笑顔を翔に向けた。いや、果たして、笑えていたのだろうか。
「いや、これから事業の協力者である企業の会議に行かなきゃならないから、時間がないんだ。申し訳ない」
「そうですか。残念です。じゃ、俺はお先に失礼しますね」
翔はそう言うと、言葉とは裏腹に、残念そうな素振りの欠片も見せないまま踵を返し、立ち並ぶ墓石の間に歩を進めはじめた。
瞬間、陽太は孤独な世界に一人で取り残されたかのような不安を覚え、翔の背中に心の中で問いかけた。
――俺は、いったいどうすればよかったんだ。
聞かずにはいられなかった。藁にも縋りたい気持ちだった。
先輩としての意地や建前などは、気がつくと消え失せていた。
だが、翔は立ち止まろうとする気配を見せない。
思わず追いかけようとしたとき、二人の間を一陣の風が吹き抜けた。
吹きつける砂埃に、思わず目を瞑る。
顔に襲いかかる砂を右手で避けながら、それでも前に進もうとしたが、予想を上回る砂の粒が視界を遮り、前進の邪魔をした。
その間にも、翔の後ろ姿は、薄茶色に霞んだ空気の中に溶けていく。
そのとき、砂埃の向こうから、翔の声が聞こえた気がした。
――二人がああなったのは、あなただけのせいじゃないですよ。
――みんなで考えなきゃいけないことだったんです、きっと。
風が止んだときには、すでに翔の姿は見えなくなっていた。
陽太は無言で立ち竦んだまま、翔が立っていたはずの空間を見詰めた。
林立する墓石の上には、まるで今しがた目の前で起こったこできごとが幻覚だったかのように、いつもと変わりのない一面の青空が広がっている。
雲一つない、透き通るような三月の空だった。
――俺は……。
――俺は、いつか正解を見つけられる日が来るのだろうか。
陽太は、春空を見上げながら考えた。
溢れる涙が、砂埃に汚れた頬を、ゆっくりと流れ落ちていった。
(了)




