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謝罪③

 そのまま、どれくらいの時間がたっただろう。

 瑠璃川が、おもむろに呟いた。

「私だって、そんなことはとっくに気づいてた……」

 言葉は、微かな震えを帯びていた。

「ただ、気づかないふりをしてただけ。だから、できればずっと、言わないでいてほしかった……」

 耳を澄まさなければ聞こえないほどの力ない声が、陽太の鼓膜を通して、心の中に浸み込んでくる。

 顔を上げると、瑠璃川の唇がわなわなと震えていた。先ほどまで冷徹な光を放っていた目は、別人の目のように哀しみを湛え、赤く充血している。

 まるで、嗚咽をこらえているかのようだった。

 目尻から透明な液体が流れ、頬を伝ってフローリングの床に音もなく落ちた。

 やがて。

 涙で潤んだ瞳を陽太に向けた瑠璃川が、再び刃物を振り上げた。

「あなたみたいな最低な男を、好きになった私が馬鹿だった!」

 瑠璃川の叫び声が耳をつんざいた。

 陽太は、覚悟を決め、固く目を瞑った。

 ――すべては、俺自身の弱さが招いた結果だ。自業自得だ。

 床に倒れ込んだまま、動かなくなった自分の姿が、頭をよぎった。頭の中が、真っ白になった。

 そのとき。

 刃物が何かを切り裂くような、ざくりという音が聞こえた。

 腕が、急に軽くなった。気がつくと、手首を縛っていた荷造り用のロープが切れていた。

 瑠璃川の、声にならない声が聞こえた気がした。

 ――あなたが最低なんていうのは、嘘。陽太、あなたは、最高だったよ。

 ――私、あなたの、本当の恋人に、なりたかったなあ……。

 同時に、陽太の頬と首の付近に温かい布のようなものが触れた。

 いや、布ではない。それは、奇妙なほどに粘りけのある、生温かい液体だった。

 恐る恐る目を開ける。

 傍らに立つ瑠璃川の首付近から、血しぶきが噴水のように噴き出し、その一部が陽太の右頬から首筋にかけて降り注いでいた。

 先端が真っ赤に染まったナイフがフローリングの床に落ち、がらんと無機質な音を響かせた。

 瑠璃川はそのまま、まるでスローモーションのようにゆっくりと、陽太の膝の上に崩れ落ちた。

 彼女の心臓の鼓動が、太ももを通して陽太の心に伝わってきた。

 その脈動と共鳴するように、赤黒い鮮血が瑠璃川の首からどくりどくりと溢れ出て、見る見るうちに陽太のスウェットパンツに広がっていく。

「瑠璃川!」

 陽太は思わず叫んだ。

 その声に、瑠璃川はうっすらと目を開けた。


 ――私は、あなたを本当に大切に思っていた。佐伯美羅に負けないくらい。

 ――でも、私は、そんなあなたから大切な人、佐伯美羅を奪ってしまった……。


 瑠璃川は、苦しそうに顔を歪めながら口を動かし、弱々しく空気を吐き出し続けていた。陽太は、その中に見え隠れする微かな声に、懸命に耳を傾ける。


 ――大切な、人に、そんなこと、しちゃいけないって、わかってた、はずなのに……。

 ――そんなこと、しても、あなたが、私を、大切に思って、くれることなんて、ないって、わかってた……。

 ――はずなのに……。


 陽太はなす術もなく、瑠璃川の頬にそっと手を触れた。

 触れている陽太本人が悲しくなるほどの温かさが、掌を通して心に伝わってきた。


 ――最低、なのは、あたしの、ほう、だよね……。本当に、ごめんな、さい……。


 いたたまれなかった。

 自分は、何と愚かだったのだろう。

 ――俺は瑠璃川美羅が佐伯美羅ではない事実から、目を逸らし続けていた。

 ――その結果が、これだ。

 ――俺は、何てことをしてしまったんだ。

 自分の無責任さが、苦しいほどの痛みをもって胸を絞めつけた。

 陽太は、どうすることもできずに、ただ目を瞑った。

 瞼の向こうで微笑む瑠璃川の唇が容赦なく、声にならない声を生み出す。


 ――短い、間だったけど、あなたと、一緒にいられて、本当に、楽しかった……。

 ――さよう……。


 次の瞬間。

 警察が玄関のドアを蹴破る衝撃音が室内に響き、瑠璃川の最後の言葉をかき消した。

 反射的に、陽太は玄関の方向に視線を上げた。

 部屋の入り口付近から走った目も眩むまでの閃光が、陽太の視力を奪った。

 狭い玄関から踏み込んでくる、武装した数人の警察官たちの姿が、おぼろげながら見えた。

 煙がもうもうと上がり、視界を遮った。

 鼻を突く臭いが辺りを包み、今まで経験したことがないほどの痛みが、目に走った。

 これが、催涙ガスというものなのだろうか。

 陽太は、声にならない声を上げた。

 ――今じゃない!

 ――そうじゃないだろう!

 そんな陽太の心の叫びを気に留めることもなく、ガスマスクを被った先頭の警察官が、大声で陽太に尋ねた。

「君、大丈夫か!」

 陽太は、我に返り、膝の上に倒れ込んだ瑠璃川に視線を戻す。

 涙が止まらなかった。

 催涙ガスのせいか、あるいは悲しみが原因なのか。冷静な判断力を失っている陽太には、もはやわからない。

 陽太自身の意思とは関係なく、正体不明の感情が異様に膨れ上がり、爆発しそうだった。

 駆け寄ってくる警察官に対して、陽太は思わず、怒りと懇願がない混ぜになった視線を向けた。

 ――俺のことよりも、美羅を、瑠璃川美羅を……。

 そう言おうとして、瑠璃川の顔に視線を落とした。

 だが……。


 瑠璃川は、すでに動かなくなっていた。


 人間が人間であり続けることを拒否するかのように、瑠璃川の顔色がみるみるうちに生気を失っていく。

 先ほどまで彼女の体を柔らかく覆っていた温もりが、少しずつ空中に昇華していく。

 やがて、瑠璃川の瞳から生の光が完全に失われた。

 放心状態の陽太は、震える右手で、そっと彼女の瞼を閉じた。

 そのまま、瞼の上に置いた掌を後頭部に移動させ、黒く艶やかな彼女の髪を、優しく撫でる。

 気がつくと、涙はもう枯れていた。

「おい、救急車だ! 早く!」

 瑠璃川の様子を確認していた警察官が、陽太と瑠璃川を包む薄く脆い膜の外側で、怒声を響かせた。

 その声を待っていたかのように室内になだれ込んできた喧騒が、陽太の耳には遠くの世界から聞こえてくる幻聴のように感じられた。

 ほどなくして、数人の警察官によって瑠璃川から引き剥がされた陽太は、強制的にガスマスクを被せられると、部屋から引きずり出された。

 ――美羅!

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