記憶②
陽太は、父親と一緒に部屋を出ると、廊下の突き当たりにあるドアに向かう。そこを出ると、ベランダだ。
「母さんには、言ってあるの?」
陽太が尋ねると、
「いや。母さんに言うと、絶対に反対されるから、言ってない。父さんと陽太だけの、秘密の観測会だ」
と、父親は答えた。
「しょうがないなあ」という言葉を飲み込んで、陽太は苦笑いをした。
気がつくと、父親の「秘密」という言葉に、少しだけワクワクしていた。
――普段なら怒られそうなことを、父さんと一緒にやるなんて。
ドアを開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。思わず肩をすくめながら、ゆっくりとベランダに足を踏み出す。
外は月明かりに照らされ、辺りはいかにも冬の夜らしい静けさに包まれていた。
ベランダには、すでに望遠鏡がセットされ、陽太と父親を待っていた。
口径一五〇ミリのニュートン式反射望遠鏡だ。
その堂々とした姿に、陽太は不覚にも少しばかり感心してしまう。
「久し振りに出したから、ちょっと手入れもしておいたんだ」と、陽太を振り返りながら、父親は得意げに言った。
いつの間にと驚いている間にも、パジャマの上にコートを着込んだ父親は、嬉しそうに接眼レンズを覗きはじめる。
その横で陽太は、何気なく東の空を見上げた。
澄み切った冬の空に、オリオン座の一等星ベテルギウス、おおいぬ座の一等星シリウス、こいぬ座の一等星プロキオンが輝いている。
冬の大三角と呼ばれる三つの星だ。
プロキオンの左斜め上にはふたご座の一等星ポルックス、その上方にはぎょしゃ座の一等星カペラ、カペラより南寄りにはおうし座の一等星アルデバランも見える。
さらに、アルデバランの右斜め下で青白く光り輝いているのは、オリオン座のもう一つの一等星、リゲルだ。
どれも、父親が教えてくれた知識だった。
それにしても、と思う。
冬の東の空は、さながら一等星の見本市のようだった。
「おい。お前も、覗いてみろ」
父親の声が背中越しに聞こえた。振り向くと、父親が望遠鏡の接眼レンズを指差しながら、ニコニコと笑っていた。
「どんな星が見えるの?」
陽太は少しだけ興味を持ちながら、望遠鏡に近づいた。
接眼レンズを覗き込むと、色とりどりの光の煌めきが、突然、視野いっぱいに広がった。目の前には、肉眼では見えないような小さな無数の星たちが輝いていた。
――綺麗だ。
言葉にできない感動が胸に広がった。
今までも、何度か望遠鏡を覗かせてもらったことはあったが、いつも嫌々、形だけ覗くという感じだった。
そのため、正直なところ、望遠鏡の中にこんなに美しい景色が隠れているとは思ってもいなかった。
「真ん中に、明るいオレンジ色の星があるだろう。見えるか?」
横から、父親の声が聞こえた。
「うん、見える。でも、この星がどうかしたの?」
「その星はな、変光星といって、明るさが変わるんだ。一年よりもちょっと短いぐらいの期間で、縮んで明るくなったり、膨らんで暗くなったりする。不思議だろ?」
父親の声には、無邪気な興奮が混じっていた。その声を聞きながら、陽太はまた接眼レンズを覗き込んだ。
オレンジ色の光は、星々の中でひときわ大きく、温かい光を放っていた。まるで、夜空にぽつんと浮かぶろうそくの明かりのようだった。
「今は、一番明るい時期だから、三等星ぐらいの明るさだ」
「暗くなったときは、どれくらいの明るさなの?」
陽太の質問に、父親は少し考えながら答えた。
「そうだなあ……。九等星か十等星ぐらいになるかな」
――九等星か十等星?
それがどれくらいの明るさなのかは、よくわからない。でも、とにかく、すごく暗くなるということだけは、何となく理解できた。
「暗くなったとき、また見てみたい」
自分でも意外だったが、そう言葉にしたのは本心だった。
「九等星ぐらい暗いと、見つけるのはかなり難しいぞ」
父親は少し笑いながら答えた。
「うん、それでも、見てみたい」
陽太の返事を聞いて、父親はふっと微笑んだ。
「よし。じゃあ、半年後に父さんの体調がよかったら、また見てみよう。夜明け前になるけどな」
「うん、約束だよ」
澄み切った夜の空気に冬の空の静けさが浸み込み、陽太と父親を優しく包み込んだ。
*
しかし……。
――半年後に父さんの体調がよかったら、また見てみよう。
その約束は、叶わなかった。
あの夜から四ヶ月後、父親の容態が急変した。
そして、そのまま帰らぬ人となった。
――僕は、大切な人を失った。
父親が亡くなった後、陽太は何度か、ベランダに出て望遠鏡を覗いてみた。
望遠鏡から覗いた円形の視野の中で、あのとき父親と一緒に見た星空が、あのときと同じように輝いていた。
だが、父親が教えてくれた変光星は、結局、見つけることはできなかった。
明るく輝いていたオレンジ色の光は、もうどこにもなかった。
気がつくと、涙が頬を伝っていた。
*
そんなできごとから、ずいぶんと時間がたった。陽太はいつしか、天体観測の魅力にとり憑かれていた。
そして今でも、天体望遠鏡を覗くたびに、あの日、接眼レンズ越しに見えた美しい星空と、父親の嬉しそうな顔を思い出す。




