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記憶①

五、記憶


 陽太が、小学校四年生のときのことだった。

 その日、夕食を終えた陽太は、自分の部屋で宿題をしていた。

 寒い夜だった。

 本当ならエアコンをつけたいところだったが、あいにく、ここ数日はエアコンの調子が悪い。そのため、取り敢えずといった感じで、足下に電気ストーブを置いて暖を取っていた。

 ――エアコン、早く直してくれないかな。

 そのようなことを考えながら鉛筆を動かしていると、ドアのほうからノックの音が聞こえた。

 嫌な予感がした。陽太は「今、宿題中」と不機嫌な声で答えた。

 ドアが少しだけ開いた。

「ちょっといいか?」

 声が聞こえた。

 ――やっぱり……。

 予想通り、父親だった。

 父親の声には、穏やかながらも、どこか弾むような響きがあった。陽太は、無意識のうちに、ほんの少しだけ眉をひそめた。

 父親は、陽太が宿題中であることに気を使うでもなく、ゆっくりと部屋に入ってくると、もう一度言った。

「おい、陽太。ちょっといいか?」

 陽太は机に向かったまま、仕方なく黙って頷く。

 ここ数年、父親は病気がちで、ほとんどの時間を一階のベッドの上で過ごしていた。

 詳しい病名は、よく知らない。

 病気になった父親は、肌が以前よりも青白くなり、頬の肉が落ちた。その姿は、正直言って少し怖いほどで、時折、まるで影のように感じられることさえあった。

 そんな父親だったが、最近は少しだけ症状がよさそうに見える日もあった。

 ――その父さんが今頃、部屋に入ってくるということは……。

 ――まさかと思うけど……。あの話?

 そんなことを考える陽太の耳に、ややかすれ気味の父親の声が響いた。悪戯っ子が新しい悪戯を思いついたときのような、心持ち浮かれた声だった。

「星を見てみないか」

 病気になる前までは、天気がいい日には必ずと言っていいほど聞かされていた、お決まりの台詞だった。

 陽太は、自分の予想が的中したことに、少し落胆した。

 思えば数日前、ベッドの上の父親は、母親に「望遠鏡は、どこに置いたっけ?」と尋ねていた。

 ――あれは、やっぱり今日の計画の準備だったんだ。

 だが、小学校四年生にもなると宿題の量も増えるうえ、問題の難しさも三年生のときとは比べ物にならない。

 ――そんな宿題を、珍しく調子よく進められているときに、いきなり「星を見よう」だなんて……。

 ――ちょっとは、こっちの都合も考えてよ。

 陽太は、父親がまだ元気だった、数年前を思い出す。


 その頃の父親は、夜になるとベランダに出て星を眺めることを日課にしていた。

 自慢の天体望遠鏡を大事そうに扱いながら、夜空を見上げる父親の姿を、陽太は今でもよく覚えている。

 だが、正直なところ、陽太はその時間があまり好きではなかった。

「あの星の名前は、何だと思う?」

 父親に聞かれるたびに考える。でも、そのようなことは夜空を見上げていてもわかるはずがない。

「うーん、わからない」

 そう答えるのが、常だった。同じことが繰り返されるうち、真面目に答えるのも面倒になった。

 おまけに冬は寒く、夏は蚊が多くて痒いだけだ。

 しかも、観測は一度はじまると、父親が満足するまで終わらない。いつも、最低でも一時間は外にいなければならなかった。

 そのせいか、いつからか「星を見に行こう」と言われると、気が重くなるようになっていた。

 そんな父親も、病気になって以降、星空を見に行くことをほとんどやめてしまっていた。力が入らないのか、望遠鏡を持ち出すことさえしなくなっていた。

 もちろん、父親の病気は、陽太にとって決していいことではなかった。

 しかし、星を見なくてよくなったことに、少しだけほっとしている自分がいた。


 その気持ちは、今も変わらない。

 そんなことを考えながら顔を上げ、ドアの前に立っている父親の表情を見た陽太は、驚いた。

 父親の顔に、薄い赤みが差していたからだ。まるで数年前に時間が戻ったのかと思うほど、元気そうに見えた。

 父親の顔を見るまでは、宿題を言い訳に断ろうと思っていた。だが、そのような言葉を口にすることが、何だか申し訳なく思えてしまう。それほどまでに明るい笑顔だった。

 思いのほか元気そうな父親の姿に、ちょっとだけ嬉しくなった陽太は、気がつくと「わかった。いいよ」と返事をしていた。

「でも、寒いから、十五分だけだよ」

 父親は、嬉しそうに顔をほころばせた。

「それで十分だ」

 その笑顔を見て、陽太の心の中にあった面倒臭さや腹立たしさといった気持ちは、どこかに消え去った。

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