カフェの店員さんを口説いたら、実はとんでもない激重ヤンデレだった
──そのカフェに立ち寄ったのは本当に偶然で、月に一度の給料日くらい贅沢をしたい、という典型的な金欠学生の考えゆえだった。
そんなんだから金なくなるんだよ。せっかくシフト増やして頑張ったのに。
……心の中の辛辣な天使が囁いていたが、取りあえずシャットアウトすることにして、芳醇なコーヒーの香り漂う洒落た空間に足を踏み入れたのである。
──辺りを見渡せば、湯気の漂うマグカップを傍に置き、ゴージャスな井戸端会議をするマダムだったり、やたらエンターキーだけ押す力が強いパソコンを弄る大学生、たぶんSNS映えを狙ってるんだろう、スマホの画面に半ば張り付いてカメラを回すJK…と、まあ三者三様の楽しみ方をしているのが目についた。
「……何、たのもっかな」
こんなおしゃれな場所には滅多に来ないので、メニューを把握しているわけもない。
…さっきまで『取りあえずカフェオレでいいか』とか思ってたんだが、メニューに「カフェオレ」という表記が見当たらない。
その代わりに散らばるのは、フラペチーノだとかティーとか、ほんとに日本にいるのか不安になるザ・外来語たち。
何も分からない。
完全に俺、浮いてるな…。
──こういうときは、やるしかないか。
持ち前のコミュニケーション能力を使って、この八方塞がりを打開する方法がある。
ずばり……。
「すみません、店員さんのオススメ聞いても良いですか?」
──「大将、おすすめは?」戦法である!
たぶんこれがもっとも最強かつ間違いない方法。店員さんならこの店のマニアなはずだし、きっと美味しいコーヒーだって知っているはずだ。
「もちろんです! オススメは……そうですね、このブラックモカチップフラペチーノ、とか」
そう言って店員さんはメニュー表を指差す。
よかった、この店員さんは俺のような人間にも温かく接してくれるタイプだ。
…目を落とすと、生クリームにチョコチップがばら撒かれた、なんともカロリー過多なドリンクがどどん!と写っていた。
「……じ、じゃあ、これで」
胃の心配をしながら顔を上げ、店員さんに笑いかける。
だいぶ無理矢理な苦笑だったが、まあこういう心証の良さってのも大切だからな──と思えたのも束の間、俺は店員さんの姿を見るなり、文字通り硬直してしまう。
──かっ、かわいい……!
おいおい、なんだこの国民的美少女は!
思わず舐め回したく……ううん、撫でたくなってしまうほど艶やかな黒髪は、柔らかなポニーテール。
目は二重ぱっちり、瞳孔の奥には溌剌を象徴するような、元気なハイライト。
口元にはあどけなくも清らかな微笑が湛えられ、さながら人形のような顔立ちをしている。
この世のものとは思えないほど、整いすぎていたのだ。
「……どうかされましたか?」
店員さんは、呆気にとられたように硬直していた俺を、心配するような目で見つめる。
──ああやめて! 見つめないで!
恋しちゃう、恋しちゃう!!
「……お姉さん、もし良かったら電話番号教えてくれませんか?」
俺の口から、ビー玉が転がるようにぽろっと、意図せず言葉が零れていく。
自分が言い放ったはずの言葉なのに、その意味を理解するのには数秒を要した。
──俺、何言ってんだ?
純粋な疑問の後で、痛烈な後悔が襲う。
マジで何してんだ俺、こんな可愛い人に。
セクハラで訴えられるぞ……!
……いや、でも。
電話番号知りてえ…!と思ったのは事実なわけで。
むしろ「言うか言わぬか」という葛藤すらせず、無意識に言えてしまったのは最早いいことなのでは?
ポジティブシンキングでいこう。
絶対内心キモがられてるけど、でも言わずに後悔するよりマシだ。
やらない後悔よりやって後悔!
うん、俺は正しいことをしたよね!
…一方お姉さんはと言うと、すごく困ったような苦笑。そのあとで一言、
「商品隣のカウンターからご提供しますので、しばらくお待ちください」。
──終わった。めちゃくちゃ軽くあしらわれた。
自分自身への洗脳虚しく、お姉さんに結構ちゃんと拒絶された…。
……いやまあ、まともに取り合ってくれるとも思っていなかった──つうか、自分でも言ったつもりなかったんだけどさ。
──はぁっ。
大丈夫だよね、これ。通報とか、されないよね。
目で若干の申し訳なさを表し、会釈をしてカウンター前で待機する。
…俺は未来を空想していた。
あの美人な店員さん、きっと別の店員に俺の話をして「うーわマジキッモ」とか言われるんだろうな…。
あるいは、明日の朝になったら急にインターホンが鳴って、そこに警察が立ってるかもしれない。
ストーカー規制法、だったっけ?
個人情報聞き出そうとしたわけだし、まあワンチャン引っかかるよな…。
俺、もしかして最後の晩餐? ここで?
そう思うと自然と涙がこみ上げてきて、両親に対しての懺悔を抱かずにはいられなかった。
*
「お待たせしました」
さっきのあの店員さんが、俺に……なんとか、フラペチーノみたいなドリンクを渡してくれる。
その目にはいくぶんの侮蔑が含有されている気がして、すごく苦しくなる。
人生初ナンパだったわけだが、玉砕ってこんなにも辛いものなんだな…。
適当な一人席を見つけ、力なくぺたりと椅子に座り、ストローを刺してずずず、とそれを飲んでみる。
──絶対甘味が来るはずなのに、絶望的になんの味もしない。
喉すら通らない。
おいまじか、味覚消えた…と思って、ただの冷たい、氷の粒が入ったドリンクと化したそれが入ったカップを、なんとなく見回してみる。
──ふと、側面にThank you!と書かれたラベルが貼ってあるのに気付く。
…ああ、あれか。
なんかメッセージとか注文品書いてあるラベルが貼ってあるんだっけか。
「あなたを通報します」とか書かれてないか心配になって凝視してみると、そこには十数桁の数字が書かれていた。
「090──って、えっ、電話番号?!」
それだけじゃない。
そのすぐ下には、さっきのお姉さんが書いたと思わしき可愛らしい字で、
『9時まで待ってて』
と書かれていた。
──おいおい、まじかまじか…!
身体は急速に体温を取り戻し、なんなら先程より熱を帯びていく。
味覚も回復し、甘い味が舌に残っているのを感じる。
……ふと、お姉さんの方を一瞥。
俺の視線に気付いたらしいお姉さんが、そっとウインクしてくれたのを見て、俺は鼻から鉄分が流れ出ていくのを感じる。
俺の脳は急展開について行けず、店内BGMのジャズがラブソングにさえ聞こえた。
*
…それから一時間半ほどして、約束の9時になった。
9時というとカフェの閉店時間だったので、深夜0時になっても開いている併設の書店で本を見て時間を潰した。
胸が躍る、とはこういうことか。
たしかに、ハートがダンシングダンシング。
本の背表紙に書かれた文字さえ読めないくらい、俺の心はお姉さんだけを待ちわびていた。
9時を少し回ったくらいになって、私服に着替えたお姉さんが俺の目の前に現れる。
「お待たせしました! テイクアウトの商品、こちらでお間違えないですか?」
そう言って、お姉さんは自分の胸元あたりにぽん、と手を当てる。
「間違いないです」
俺は噛みしめるように言う。
──今の、かわいすぎんだろ…。
うふふ、と可憐な笑みを浮かべるお姉さんからは良い匂いが香ってきて、それが鼻腔を柔く刺激する。
幸福な刺激は俺の脳を麻痺させた。
「……とりあえず、場所移しましょうか。
私、良い場所知ってるのでついてきてください」
お姉さんは相変わらずの可愛らしい微笑を浮かべ、俺の手をそっと引く。
さすがにバイト先で男と二人、というのは気が引けるのだろう、俺は深く一度だけ肯く。
……いまだ何が起きているのか理解できていなかったのだが、お姉さんの手はめちゃくちゃ柔らかく、かつ華奢だということだけは理解できる自分がいた。
*
移動中、俺はお姉さんについての情報をいくつか得た。
名前は綿箆 楓さんだということ。
大学三年生で哲学を専攻しており、つまり専門学校の二年生である俺の一つ上であるということ。
俺のナンパに応えてくれたのは、俺の顔と声がタイプだったのと、単純に嬉しかったからだということ。
「君じゃなきゃいかなかったよ?」
と言われたときは、さすがに疼くものを感じた。
……もちろん、俺も俺についての情報を楓さんに渡した。
俺は創太、という名前で、音楽の専門学校に通っていて、お姉さんが可愛すぎるあまり、無意識のうちにナンパしていて──。
俺の話で楓さんが時折笑ってくれると、この世で一番嬉しかったし、楓さんと並んで歩いていることが夢のようにも感じられた。
──何十分歩いただろうか。
いつの間にか俺らの距離はぐっと縮まっていて、楓さん、創太くん、と名前で呼び合うくらいには仲を深めていた。
「……さて、と。ついたよ~」
このままどこまでも歩き続けるんじゃないか、まあ楓さんとなら…と思っていたのだが、やがて楓さんは徐に足を止めた。
──楓さんの言っていた、良い場所……。
それは薄汚い外装をした建物で、エントランスには大きく「HOTEL Roman」と書かれていた。
──えっ?
えっ、ここ、そういう……。
途端、俺の身体が急速に発熱し、沸点を大幅に超えて血液が煮え立ってくるのを感じる。
「楓さん…ここ──」
この人、そういうつもりだったのか…!?
待って、まだ、心の準備が──!
「ふふ。なーにを勘違いしてるのかな?」
楓さんはにやり、と悪戯な笑みを浮かべると、そのまま俯き気味に立ち尽くす俺の目の前までやってきて、そっと俺の顔をのぞき込んでくる。
「ム・ッ・ツ・リ・く・ん?♡」
──楓さんは何やら妙なことを言う。
勘違い? ムッツリ?
いや、でもここはたしかに──、ロマンに溢れた愛の巣だろう?
それに、楓さんは若干息が荒くて、顔を赤らめていて──まるで、獲物を前にした獣のようだった。
完全に、戦闘態勢なんじゃ──。
「んふっ、目的地はこーこ。まさか今日会った男の子を連れ込むような女じゃないよ」
そう言って楓さんが指を指したのは、先程の薄汚いロマン溢れる巣──の隣にある、いくぶん新しめな外装のマンションだった。
「ここの607号室が私の部屋。おうちでお話しよ、ってことだよ」
……俺の心の中に、安堵と若干の落胆が広がっていく。
いや、落胆ってったって、別に期待してたわけじゃ──って。
「い、家ぇぇ!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
いや、すぐ隣の建物と同じくらい、むしろちょっと上回るくらいダメでしょ!
「初対面で連れ込むような女じゃない」と飄々たる口ぶりで仰いましたが──ええ…?!
場所は違えど連れ込んでますやん…!
「いいから、早くいこ?」
楓さんに再び腕を引かれる。
さっき一瞬冷めかけたほとぼりが、一瞬のうちに戻ってきた。
頬は燃えるように熱く、汗さえかいている。
…だが、実は俺は「嫌だ」とは到底思っておらず、むしろちょっとした喜悦さえ感じているのだった。
*
エントランスからエレベーターに乗り込んで、ものの数秒で7階に辿り着く。
楓さんは止まろうともせず、ただ前へ前へとぐんぐん廊下を進んでいく。
「──ねえ、さっき創太くんが勘違いしたときさ」
楓さんは歩きながら、顔をこちらに向けず話し始める。
「……凶暴な女だと思った?」
言い終わると同時に楓さんの足が止まり、必然的に俺の足も止まる。
振り返った楓さんの顔には、小悪魔──いや、悪魔の微笑があった。
「……まあ、少しだけ。でも、嫌ではなかった、ですかね」
「そっか」
……また進み始める。
604、605、606ときて、楓さんの部屋の前に到着する。
楓さんはポケットから鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込む。
……解錠を確認して、楓さんはふと、その手を止め、つぶやく。
「それ、あながち間違ってないよ」
「へっ──」
──ドサッ。
俺が聞き返そうとした刹那、俺が声を発する暇もないくらい、素早くドアを開き即座に鍵を閉めて、楓さんは俺を押し倒す。
靴も脱がぬまま式台に押し倒された俺の目には、楓さんだけが映っている。
──あの、獣のような表情をした楓さん。
「私ね、みんなから重い、重いって言われてきたの」
楓さんは俺の両手首をがっちりと掴み、馬乗りになって抵抗できないようにしながら、ぽつりぽつりと話し始める。
「今まで付き合ってきた男の子にも、やれ『ヤンデレだ』、やれ『激重だ』ってフラれてきた」
ふと、楓さんは懐古するような、遠い瞳をする。
──どんなことが起きているのか、まるで分かっていなかった俺は、その瞳を、さながら宝石のような瞳を、ただ美しいと思って見つめている。
「…でも、君は違った。自分から言い寄ってきた」
楓さんの人差し指が、そっと俺の唇に触れる。
「君が悪いんだよ…?」
楓さんは頬をいくらか弛緩させて、だらんとした笑みに変えてから呟く。
「家に連れ込んでも、手は出さないつもりだった。
──でも、凶暴な女だと思ったくせに、嫌ではなかった、なんて言われちゃったらさ」
楓さんは徐にポニーテールを解き、そっと俺の頬を撫でる。
「しょうがないよね…?♡」
──唇の辺りに、心地よさが走る。
気づけば楓さんの顔は俺の目の前にあって、それでようやくキスをされていることに気づいた。
楓さんは俺の頭を思いっきり抱きしめ、まるで血を吸うヴァンパイアのように、強く激しく、舌を絡めてキスをした。
……俺も楓さんの腰に腕を回し、そっとキスを返す。
時折楓さんが漏らす淫靡な吐息、声が、俺の脳でゆっくりと反芻され、夢見心地になる。
「好き…♡」
一瞬キスを止めてそう呟いた楓さんの表情には、恍惚、支配欲、独占欲、あらゆる感情が滲んでいた。
俺はその感情の数々が向けられることを拒絶するわけもなく、むしろ自ら希求して受け止めようとした。
…楓さんの微笑が一瞬、人を隷従させることに成功した極悪人のように、どす黒く光る。
──貪るようなキスはいつまでも続いて、それからのことはよく覚えていない。
ただ一つ、楓さんの言葉だけは、夜が更けて朝になっても覚えていた。
「ぜーんぶ、君のせいだよ?♡」
「逃がさないから♡」
……かくして、俺のこれからの日々は、美しくも黒い悪魔によって支配されていくことになったのである。




