第20話
五月の終わり、季節は春から夏に入る前触れのように、湿度が高く感じられた。
志織は学校に向かう自分の足取りが重いことをはっきりと自覚した。現状として目標は決まった。それだけでも進歩なのだ。
やるべきことが見つかると言うのは、それだけで気持ちが前向きになる。それがどれだけ無謀な挑戦だとしても、何も見えない暗闇を進むより気持ちは楽だ。
そのはずだが、その目標に向かうための手段がまだ決まっていない。ギルドに対抗する核となる手立てが存在しない。
ギルドを潰す。その言葉に偽りはない。自分の言葉ではないという無責任な言い訳はしない。心は同じ。むしろ志織が言わなければならない言葉を代わりに言ってもらったような罪悪感すらある。
私はまだ、この学園に来て何も成せていない。驕りこそしないが、今までの人生でそれなりにやってきたつもりだ。そこそこ頭が良い、運動だって出来る。様々な芸能の分野にも手を出し、多少の度量もある。
そんな私に出来ることとはなんだ。
「どうしよう、、、」
一瞬心の声が漏れたかと思ったが違かった。気づかなかったが、志織のすぐ横で1人の女子生徒がしゃがみ込んで頭を抱えている。それはもう困っています、というオーラ全開だ。
あまり生徒がいない早朝。朝練がある部活は活動をしているが、昇降口付近は全く人がいない時間。ギルドの面々もそれぞれの本職の部活動に勤しんでいるため、志織としては誰にも会わないで登校できる時間であり、今まで人に会うこともほとんどなかった。
つまりこの場には志織とこの生徒しかいない。昇降口前のだだっ広いロータリーに不自然すぎる程の距離で立っていた。
「えっと、何かありましたか?」
「え? あっ!? 神北さん?」
同級生(スカーフの色的に)の前にしゃがみ、問いかける。目がクリッとしたショートボブ。咲と同じくらいの小柄な背丈だが、あちらのチワワのような活発に比べると、ハムスターのような可愛らしさがある。
もっとも今はその顔が涙と鼻水でべちゃべちゃになっているのだが。
同級生が500人いる学校。別のクラスともなればよほど有名でなければ顔と名前は一致しないのであるが。
「須藤香奈美さん?」
奇しくも志織はこの顔と名前が一致した。須藤香奈美。昨年ヨーロッパで開かれたジュニアのピアノコンクールにて、日本人として数年ぶりに入賞を果たした人物だ。
国内の代表選考も兼ねたコンクールには志織も参加しており、次点で敗れた相手。志織にとって、様々な分野に手を出していた中でも、多少自信をもって取り組んでいたピアノを諦めさせた相手だ。
かと言って恨んでいるとかではなく、あくまで引くキッカケを作ってくれたくらいにしか志織は考えていない。
父は音大の教授。母はプロのトランペット奏者。文字通りのサラブレッドでもある。
世の中には上があるのだな、と感じさせてくれた貴重な存在である。
「体調でも」
「お願いーー助けてーーー!」
そんな存在が幼稚園児のように泣きじゃくりながら鼻水垂らした顔を近づけてきたので、思わず頭を鷲掴みにしてしまった。
「一旦これで頭を拭きなさい」
「うわーん、ごめんねーーー!」
差し出したハンカチで顔をゴシゴシ拭かれる。もう何も言うまい。さらばハンカチ。
「それで、何があったんですか?」
こんな早朝にこんな場所で号泣し出すなんでどこからどう見ても普通じゃない。
「実は昨日の夜に、先輩から今日の部室の鍵を開けといてって突然頼まれて、でももう友達とかみんな寝てたし、起こすのも悪いかなって思って、明日あたし早く起きてあげればいいやーって思ったら、思いの他寝坊しちゃって、出てきたはいいけどもうこれ1人で開けても時間間に合わないじゃーんってなってたの」
吹奏楽部の部室と言うと、一般的には音楽室を指す。だがこの学園ではコンサートホールそのものを常設した建物を吹奏楽部の部室と称している。
部員数約150人。建物内部に複数の練習部屋があり、吹奏楽部ではそれぞれのチームごとで練習が行われていると聞く。部内での選抜を勝ち抜いたチームが本職の全国大会へ出場し、たとえ負けたとしても各運動部の応援団の演奏として活躍の場が用意されている。
「まさか鍵当番て」
「部室の中の全部の部屋の鍵を開けるの! お願い。1人じゃ周りきれないから手伝って!」
一体何個分の部屋の何枚の窓を開けるのか。明らかに人海戦術で解決すべき問題である。
「なんでそんな無茶苦茶なこと頼まれたんですか?」
「いやさ、夜中に寮のトイレに入ったらたまたま先輩がいてさ、、、」
果たして本当にその先輩はたまたまだったのだろうか。親が一流で本人も確かな実力者。年長者の中には妬む者がいても不思議じゃない。
その後に単独で成し遂げようとする暴挙まで織り込み済みかはさておき、夜中に突然無茶な要求をするのはあまり聞こえは良くない。
「わかりました。手伝います」
どうせ早く教室に行ったとて、やることがあるわけではない。それに、吹奏楽部ならば朝の勧誘云々は気にしなくていい。
それに困っているならば助けるのが当たり前だ。
「ありがとうーーー!」
「決まったのならさっさと動きます。ここからはスピード勝負。走って!」
志織は香奈美の手を取って、半ば強引に引っ張った。
先程と違い、足取りが驚くほど軽い。頭の中では巨大セレモニーホールの開錠ルートが忙しなく構築されていく。
時間との勝負。もっとも効率よく回るにはどうすればいいか。どうすればこの問題を解決することができるだろうか。
ややこしく面倒な問題には違いない。
ただ、志織は何故か楽しくて仕方がなかった。
こんな汗だくなのは久しぶりだ。全速力で窓という窓を開けて換気を行い、時間ギリギリ2分前という紙一重で、志織たちは目的を達成した。
仕事量から言って、やっぱり2人でやる業務ではないのは明白だった。
「ありがとう神北さん!」
途中、挫けそうな香奈美を何回叱咤したか分からないが、なんとか香奈美も最後までやり遂げた。
「いえ、間に合って何よりです」
「本当にどうしようかと思っていた時に神北さんに会えてよかった! 本当にありがとう! 何のお礼もできないのがごめん!」
「別にお礼なんていりませんよ」
「でも本当に助かっちゃった。ほんと、ギルドなんかよりも、神北さんに頼んだ方がいいね!」
耳に届いた言葉が、一度通り過ぎた後に頭の中に反響した。今、なんて言った?
その時、エントランスの扉の開く音がした。
「あ、もう人が来たみたい! 神北さん! 一応部員以外の人にやってもらったのバレたらマズイから、裏口から出て」
香奈美に押されながら、志織は裏口へと向かう。その後の帰り道はよく覚えていない。気付けば教室の自分の席に座っていた。クラスメートが何人か登校している。
だがそんなことは今の志織の脳の処理に無駄なことだった。
「ギルドなんかよりも、私が問題を解決しちゃえばいいんだ」
思わず呟いた言葉は、運良く誰にも聞かれることはなかった。




