魔法使いは誰にも愛されない
「またここに来たのか。迷惑だ」
険しい顔で言う青年はセレムと言った。雪のように透き通った肌、月の光を写しこんだような瞳の色。そして銀色に輝く長い髪は光に当たると淡く輝く。
神が作り給うたと言われても納得してしまうほど美しい人だった。
「そう言われても、昨日のお礼ができていませんから」
リリィはバスケットを片手にはにかむように美しすぎる青年セレムに言った。
「この森に人は入れないはずだ。どうやって入ってきた」――毎度毎度、と付け加えたくなるのを飲み込んでセレムが言う。
「どうやってと言われましても、普通に入ってこれましたよ。あなたに会いたい、と願いながら」
無邪気にリリィは笑顔を見せる。
この世界で最強であり不老不死の天才魔法使いセレムが森に張ってある結界を破れる者など存在しない。
だが魔力すらちっぽけなリリィは毎度世界で最も強固な結界に難なく侵入してくるのだ。
頭を悩ませるセレムの横を通り過ぎて、リリィは古塔の中に入ってくる。
「勝手に入るなと何度言えば気が済むんだ」
渋々ドアを閉めたセレムはテーブルの上に焼き菓子を広げるリリィをうんざりしながら見ている。
「ねぇ、あなたの名前は何て言うの?」
リリィは無邪気で残酷なことを聞いてくる。
セレムは少しの間の沈黙の後、「セレム」とだけ言った。
「あぁ、そうよセレムだわ。どうして忘れていたのかしら」
勝手知ったる我が家のように迷い無くキッチンに行き、棚から紅茶の入った缶とカップとソーサーを取り出し、ケトルに水を入れてコンロの上に置いた。
コポコポとケトルの中の水が跳ねている。
リリィはコンロの火を消すと、紅茶の茶葉を中に入れて再び蓋をした。少し置いてカップに紅茶を静かに注いでいく。
セレムは椅子に座って黙ってその様子を見ていた。
リリィは淹れたての紅茶の入ったカップをフラフラとなりながら――床に散らばる本や紙の束のせいだ――テーブルにソーサーを置いてカップをその上に置くと自分も座った。
セラムはずっと無言だった。
リリィは「今日はパイも焼いてきました」と言ってバスケットの中からベリーパイを取り出した。
切り分けながらリリィは最近あった出来事を楽しそうにセラムに話している。
それでもセラムは無言だった。
焼き菓子とベリーパイをリリィはセラムの前に置いて、食べるまで黙って見ている。
セラムはため息をつき、フォークでパイを突き刺した。そのまま無機質に口の中に放り込んだ。
そんなセラムをリリィはニコニコ笑みを浮かべながら嬉しそうに見つめている。
セラムが紅茶に口を付けるとリリィも紅茶に口を付けて味わった。
焼き菓子やパイを二人で平らげながら、リリィは他愛のない話をした。
セラムはただ黙って聞くだけ。
焼き菓子もパイも紅茶も全て無くなると、リリィは片付けを始める。夕日が窓から差し込んでいた。
リリィは片付け終えると立ち上がり、ドアの方へ向かって歩いていく。
セラムはその背を追った。
ドアを開けてを外に出たリリィをセラムが引き止める。
「待て。手を出せ」
セラムの無機質な声で呼び止められたリリィは振り返って、疑いもせず右手を差し出した。
セラムはその手に自分の手を重ねた。
「もう来るな」
それだけ言うと、セラムは手を離した。
リリィは不思議そうな顔をしてセラムを見上げている。
「あなたは誰? 私はなぜここにいるの?」
リリィが混乱する前にセラムが言ってやる。
「君は森の中で迷った。私がそれを見つけてここに連れてきた。もう日も暮れる、危ないから帰りなさい」
セラムが言うと、リリィは深く頭を下げた。
「親切な人、私を助けてくれてありがとうございます。このお礼は必ずいたします」
セラムは首を振る。
「礼などいらん。もうこの森に来るな」
それでもリリィは言葉を重ねた。
「あなたの名前を伺っても?」
「名乗るような名は持ち合わせていない」
それだけ言うと、セラムは古塔のドアを閉めた。
残されたリリィはしかし気を悪くした風でもなく、もう一度頭を下げると古塔から遠ざかっていった。
そして翌日、またリリィは古塔を訪ねてくる。
「またここに来たのか。迷惑だ」
美しい青年は昨日と同じ言葉を言う。
「そう言われても、昨日のお礼ができていませんから」
リリィは昨日と同じことを言う。
そしてセラムの許可もなく古塔に入っていく。昨日と同じく。
そして昨日と同じように紅茶を淹れ、焼き菓子を食べさせるのだ。
このやり取りを二人はもう二年も続けている。
初めはセラムは驚きで言葉を失った。
自分のことを“忘れた”リリィが、一体どうして自分の所へたどり着けたのかと。
セラムは呪われていた。
かつてこの国の王に命令され、隣国との戦いに駆り出された。
戦いは激しく悲惨だった。
そこへセラムは足を踏み入れてしまった。
最強の魔法使いと名高いセラムはあっという間に敵兵をその魔法で殲滅した。
しかし、強すぎる魔力がその時暴走してしまった。
制御できない魔力が味方の兵をなぎ倒し、地面は割れ、空は灰色に濁り、そして気付けばかつてあった国すら無くなっていた。
セラムは愕然とした。国にはセラムの恋人リアナがいたのだ。セラムの魔力のせいであたり一面むき出しの地面が永遠と広がっていた。
敏いセラムは恋人が死んだことを嘆いた。
そしてセラムの前に一人の魔女が現れた。
魔女は杖をセラムに向けて呪いの言葉を放った。
「お前に触れるものはお前の記憶をなくす。そしてお前は不老不死となり、永遠の孤独を生きよ」
魔女の呪いに包まれたセラムは呆然と魔女を見た。
「哀れな男よ。強すぎる力は己を破滅させる。そんなことすら知らずに魔法使いを名乗っていたのか」
魔女は黒い煙とともに、その場から瞬時に消えた。
セラムは叫んだ。己が引き起こしてしまった災厄を呪った。
最愛の恋人を死なせてしまった悲劇を呪った。
セラムは国があった場所から遠く離れた所にあった古塔をねぐらにした。
森に誰も破れない結界を張り、死ぬことのないその身を隠すために古塔に引き篭もった。
幾年経ったのか。セラムは普通の人ならば気が狂ってもおかしくない年月を独り生きていた。
誰とも合わず、外界から自分を守るように古塔の中で生き続けた。
そんな途方もない時間を生きていたセラムの前に、突然リリィと名乗る少女が現れたのは何かの啓示だったのか。
少女はリリィと言った。
森の強固な結界をいとも容易くすり抜け、セラムの古塔を訪ねてきた。
初めは戸惑いつつも、こんな場所に古塔があって人が住んでいた事にリリィは驚いていた。
しかし別れの際にセラムは思わずリリィの肩を触ってしまった。
リリィは不思議そうな顔でセラムを見上げて言った。「あなたは誰?」と。
それから記憶をなくしたリリィは何度も古塔を訪ねてくるようになった。
セラムがちょうど千年生きた頃だった。
リリィは何度も記憶をなくし、それなのに何度も古塔を訪ねてくる。
帰り際にセラムは必ずリリィの手に触れた。
なのに翌日には何もなかったかの様に古塔を――セラムを訪ねてくるのだ。
そんなやり取りを二年も続けている。
リリィははじめの頃より背が大きくなり、体も少女というより大人の女性に近付いていた。
二年もそばでリリィを見てきたセラムは、彼女が段々と見知った人に似てきているのに気付いていた。
リアナ――もう千年も口にしていなかったその名前。
セラムはある日、クッキーを齧るリリィを見ながら思わず口にしていた。
「リアナ」と。
それを聞いたリリィは固まり、その琥珀色の瞳から涙を一つ、また一つと零していく。
何が起きたのか、セラムは混乱した。
リリィはただただ静かに泣いていた。
リリィは焼き菓子を皿において、セラムに向き直った。
「どうしてかしら。私はその名前を知っている」
セラムがまた言う。
「リアナ」
リリィは立ち上がりセラムに近付く。
「あぁ、よく知っているわ。私はその名をよく知っている」
「リアナ」
「セラム、こんなところにいたのね。私ずっとあなたを探していたわ」
「リアナ」
「私が来るたびに嫌な顔をしてたあなた。でも持ってくるお菓子をあなたは満更でもない風に食べていたわ。知ってた?」
リアナは座るセラムをそっと抱きしめた。
リリィの頬には幾筋もの涙の跡がある。
「あぁ、セラム。私の愛しいセラム。やっとあなたに会えたわ」
セラムはリリィ――リアナと同じように静かに泣いていた。
「君なのかリアナ。僕が愛したリアナなのか?」
「そうよ、セラム。生まれ変わっても私はあなたに会う運命だったのね」
セラムはリアナの日向の匂いを懐かしく感じながら顔を上げた。
「僕はとても酷いことをした。その罰に不老不死と触れた人の記憶に残らない呪いをかけられた。なのにどうして君は僕に触れているのに記憶が無くならない?」
リアナは微笑んだ。
「なぜかしら。あなたを愛する気持ちが呪いの力を打ち破ったのかも」
「僕は不老不死だ君と同じ死を迎える事ができない」
「大丈夫よセラム。私は何度死んでも、何度でもあなたを探し出して見せるわ」
セラムは立ち上がるとリアナの頬を両手で包み込んだ。
「愛しいリアナ。ならば僕はずっとここにいるよ。君がまた生まれ変わってもすぐに見つけられるように」
セラムはリアナの唇にそっと口づけた。
「もう僕は諦めない。君が僕の元に戻ってくるのを信じて待ち続けるよ。何年経っても」
二人は茜色の日が差し込む中でずっと抱き合った。