ごめんあそばせ殿下、そういう規則ですのよ。
アンネリーゼ・クライスは第一王子――ひいては王太子と目される男の婚約者である。
ふんわりとした蜂蜜色の髪、煌めく新緑のような瞳、透けるような白い肌。
いつでもにこにこと笑っていて、人当たりもいい。
それでいて頭脳明晰で、質問を何かして返事に窮した様子を見せたことがない。
ある種完璧な彼女だが、このところは第一王子、リーデンの言動により評価がやや落ちそうになってしまっている。
リーデンが何を仕出かしたか、だが。
所謂不貞の疑惑である。
貴族学園に通う義務のある十五歳である今、彼はたまたま手を貸すことになった男爵令嬢、ベティに恋をした。
彼女はどこか気弱げで、守ってやりたくなるような娘だった。
しかしその内心は狡猾であることをまだ幼いリーデンは見抜けていない。
あわよくばリーデンの正妃に。いや、側室でも愛人でもなんでもいい。贅沢で豪奢な暮らしがしたい。
そんな欲望からリーデンを引き留める彼女に、リーデンはまんまとズブズブハマっていきつつあった。
それにアンネリーゼは何かするでもなく、ただ見守っているものだから周囲はヤキモキした。
問い詰めても「ですが殿下にも付き合いというものがございますから」とニコニコするばかり。
そうこうする内に、彼らは一線を越えたような距離感に変わった。
そこで、アンネリーゼは二人をカフェテリアの一角に呼び出したのだ。
「殿下、ベティ嬢を愛妾あるいは側室として召すおつもりだったことは承知しております。
ですが、一週間前に体を重ねましたわね」
「何が悪い」
「王室に嫁す女性は処女であることが前提ですのよ。
婚姻前に処女であるかを確認し、見届け人の監視の中閨をこなすことで初めて王室に入ることが出来るのです。
ですが殿下は処女であるかの確認もなく、また見届け人のいない場所でことに及んでしまいました。
ですので、ベティ嬢を召すことが出来なくなってしまったのです」
周囲は知らぬふりをした生徒が座って話を静かに聞いている。
リーデンは顔色を悪くし、ベティは何が悪いのか分からないという顔だ。
アンネリーゼは困ったような顔をし、頬に手を添えて溜息を吐く。
「殿下の言動から、わたくしを正妃とすることは揺らがないとして、ベティ嬢を側室あるいは愛妾とするだろうとして予定を詰めていたところですのよ。
王陛下と王妃陛下にもお話を通して、卒業後の教育課程やらを教育係と相談していたのです。
ですが、前提が崩れてしまっては」
「僕が抱いた時に確かにベティは処女だった。
他の誰にもベティは肌を許さないのだから問題ないだろう!?」
「いいえ」
「いいえ、殿下。
専門医でもない殿下を騙す術などいくらでもあるのです。
そして騙すような者は種違いの子を孕むこともあるでしょう。
その可能性を王室は受け入れるわけにはいかないのです。
ですので、ベティ嬢のことをあきらめてもらわねばなりません。
そして、この学園にいる誰にも通達せねばなりません。
殿下の側室、あるいは愛妾となりたければ、体を許すべきではありませんと」
それがアンネリーゼが敢えて学園のカフェテリアという開かれた場所で話し合いに臨んだ理由だった。
ただ話し合うだけなら王宮でよかった。
しかし今回は学園全体に話を広めねばならない。
少し考えれば誰でも分かる話だ。
しかし、分からぬ者が僅かでもいて、純真無垢に育った王族を騙そうとする可能性があるのなら。
ならば、守らねばならない。
それがいずれ王室に嫁すアンネリーゼの義務である。
「…………どうにもならないのか」
「一週間前に時を戻せたならあるいは」
「ならないんだな。そうか…………」
「いっそ子が出来ぬよう措置をしてしまえば、処女性の有無は関係なくなります。
これは前例のある話ですが、ベティ嬢にも殿下にもそこまでの覚悟はおありでないでしょう?」
「そう、だな。僕はベティとの子供が欲しかった」
「ねぇ、ちょっと待ってください。
少し順番が早いかどうかで、殿下のおそばに侍ることさえ許されなくなるんですか?」
「はい。そういう規則ですので。
ですがあなたと殿下が子供を未来永劫諦めるならおそばに侍ることはまだ可能ですよ」
困ったように眉を下げながらもにこやかにアンネリーゼは説明を重ねる。
そう、王室に王族以外の子供が生まれることが問題なのであり、貞淑でない女性はそのために弾かれるという規則から二人の関係が終わることになっているのだ。
だから、ベティとリーデンが子供を諦めれば全ては解決する。
勿論、リーデンが婚姻初夜まで我慢していれば子供を諦めることはなかった。
アンネリーゼとの間に子供が出来なければ、ベティの産んだ子供が次の王になることもあったろう。
しかしそれはもう「無い」未来なのだ。
リーデンは薄れて殆ど消滅しかけていたその規則を今になって思い出し、己の愚かさに後悔している。
そして、己の選んだ恋人であるベティと別れがたいことから、二人の子供を諦める未来を選ぼうとしている。
ベティは、と、いえば。
顔色を青くし、ますます儚げな容貌になりながら、必死に考えていた。
結婚するまで処女でいなければならないのは低位貴族でも同じこと。
しかし、王子自ら求めてきたのなら問題はないのだろうと受け入れてしまったのだ。
結果、普通の婚姻はもう望めなくなった。
ここで王子に捨てられでもしたら、行きつく先は平民落ちか修道院か。
それならばと彼女が決意するのは早かった。
「殿下。あたし……殿下のおそばにいたいです。
子供は産んであげられなくなるんでしょうけど、でも」
「ベティ。そう言ってくれて嬉しいぞ。
僕も同じ気持ちだ。すまなかった、頭から抜けていなければ君との子がある未来もあったのに」
「では、子供は諦めますか?
そうでしたらそのように医者に準備させねばなりません」
「ああ」
「はい」
「かしこまりました。
ではお二人とも、お幸せに」
問題ごとは片付いた、とばかりににっこり笑ってアンネリーゼが席を立つ。
そうして楚々とした足取りでカフェテリアを出ていったのを切っ掛けに、給仕が各席に注文を取りにいき、あるいは前もって頼まれていた軽食やドリンクを運び始める。
ベティとリーデンは、そっと手を取り合い、お互いを見つめるのみだった。
結局のところ。
リーデンは断種、ベティも同じような措置を受けた上で臣籍降下が決まった。
一時の遊びのつもりで規則を覚えて行動していたならともかく、幼い頃から何度も重ねて学ぶ規則を軽々に扱ったことが王の逆鱗に触れたのだという。
それでいて、アンネリーゼに悪いと思っていなかったことも大きかった。
王妃も王もアンネリーゼを気に入っていたし、その才覚が王妃として花開く日を今か今かと待っていたのだ。
故に、アンネリーゼの婚約は解消され、一つ年下で臣籍降下のみが決まっていた第二王子が王太子となることが決まり。
第二王子の婚約者にアンネリーゼがなることも決まった。
五つや七つ年上の妻というのは問題だが、一つ年上程度ならばよくある話である。
それに。
第二王子はアンネリーゼが初恋で、枷がなくなったことで、彼女に熱烈に愛を囁くことが出来るようになったので、そういった意味でもよいことだった。
悪い結果になったのは、北方の実りの少ない領地に一代限りの公爵として押し込められることになったリーデンとベティの二人程度。
しかし、それ以外は大体幸福になりそうなので。
大体誰もが二人のことを忘れることで決着がついたのだった。